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伊達政宗(大膳大夫)の編集履歴

2021-03-09 10:44:17 バージョン

伊達政宗(大膳大夫)

だてまさむね

伊達家9代目当主にして中興の祖。17代目当主と区別するため大膳大夫政宗と呼ばれる。

プロフィール

生没:正平8年/文和2年(1353年)~応永12年9月14日(1405年10月7日)

父は8代目当主・伊達宗遠。

17代目当主・藤次郎政宗と区別するため官途名から大膳大夫政宗と呼ばれる。

概要

1377年、父から家督を譲られ当主となる。

1380年ごろから出羽方面へと侵攻、置賜郡の長井氏を滅ぼす。末裔の17代政宗が1591年に葛西・大崎一揆扇動のかどにより豊臣秀吉に取り上げられるまでここを200年以上治める基盤をつくる。


1400年ごろ、鎌倉公方・足利満兼から領土割譲を迫られたことや満兼が東北支配のために現在の郡山市に篠川公方として長弟・足利満直を、現在の須賀川市に稲村公方として三弟・足利満貞を派遣したことに反発。大崎氏らと連携して鎌倉府相手に反乱(伊達政宗の乱)を起こし鎌倉方の上杉氏憲(禅秀)らと戦う。しかし、1402年に大崎詮持が戦死したのもあって寒河江氏ら出羽の領主に居城を包囲される。

1405年、延長線上の戦いの最中に死去。


出羽侵攻などで勢力を広げた政宗は中興の祖としてたたえられ8代後の子孫に名前が付けられることになった。

子は嫡子・氏宗しかいなかったとされる。ちなみに氏宗の諱の「氏」の字は鎌倉公方・足利氏満(足利義満の従兄弟、満兼の父)から授けられたものである。


よく政宗の諱の「政」の字は足利義政の政と間違えられるが義政よりかなり前の人物であり、義政の初名である「義成(よししげ)」の「成」の字は政宗の曾孫である伊達成宗がもらっている。


なお氏宗の嫡子(政宗の孫)である伊達持宗もまた祖父と父の死後、篠川・稲村公方に対し反乱(伊達松犬丸の乱)を起こしており結果的に親子三代で鎌倉府に歯向かっている


関連項目

東北勢 奥州 戦国武将

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