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人物像

龍造寺家19代当主で周家の子。龍造寺家の中でも本家村中龍造寺家ではなく分家水ケ江龍造寺家の出身。島津家・大友家に並んで九州三強の一角を成し、「肥前の熊」と呼ばれた。

幼少期は一時寺に預けられていたが、主家少弐家内の権力争いで父を始めとする多くの一族が殺され、自身も肥前を追われる。後に祖父家兼によって龍造寺家は再興するが、既に老齢だった家兼はまもなく死去。その死に際して家兼から器量を見抜かれ、還俗して水ケ江龍造寺家を継承する。

その後本家の当主胤栄が若死にしたため、その跡を継いで村中・水ヶ江両家を統一する。これに不満を持った家臣に一時追放されるが、二年後に復帰。その後はかつての主家である少弐家を始め周辺を侵略して勢力を拡大する。隆信を危険視した大友家に二度侵攻されるがこれを撃退している。やがて肥前を統一し、それを機に形だけ隠居して実権を握り続けた。やがて大友家が耳川の戦いで島津家に大敗すると、それに乗じて勢力を拡大し、北上してきた島津家も一時圧倒する。最終的に九州5カ国2島を領して龍造寺家の最盛期を築き上げた。

しかし、島津軍との沖田畷の戦いで、数で圧倒しながら戦術に翻弄され敗死。あまりにひどい敗北だったため、家臣は逃げるのに必死で、遺骸は戦場に放置されたままだったという。後に葬られたが、敵にとられた彼の首級の行方は今なお不明である。

元々龍造寺家は隆信一代で急速に巨大化したため、家臣団の整備が追いついていない上に基盤も脆く、彼の死後一気に転落していく。そしてその実権は、やがて重臣の鍋島直茂に移されていくことになるのである。

疑心暗鬼の強い冷酷非情な武将と言われ、凄惨な粛清を何度か行っている。また、かなりの肥満で馬に乗れずに輿に乗って移動していたと伝えられ、討ち取られたのはそのせいだと言われている。暗君だった悪く言う一方で、英気に溢れ、非情と狡猾さゆえに弱小家を強豪にのし上げた武将だったとも評価もされている。

ちなみに、彼の部下の龍造寺四天王はメンバー構成が一風変わっており

・江里口信常

・成松信勝

・百武賢兼

・円城寺信胤

・木下昌直

五人を指す。

……正しくは円城寺信胤と木下昌直はどちらを入れるかが諸説あったのだがいつしか併記されるようになり、それがそのままネタとして定着したというのが答え。

彼らも全員沖田畷の戦いで主君と運命を共にしている(木下昌直のみ生存説あり)。

信長の野望シリーズ

全国版・武将風雲録では強く、史実とは逆に島津の大名を自害に追い込むことが多い。

しかし、シリーズが進むほど大友家・島津家が強化されていき龍造寺家はかつての栄光は見る影もなくなってしまった。

ただ、武力はシリーズを通し高く評価されており、チート級の武将には及ばぬものの十分に一線級の実力を持つ(逆にいえば、武力以外は低くされることも多い)。

龍造寺四天王をはじめ部下も同様の傾向をもつため、知力の高い武将をいかに確保するかが重要となる。

ちなみにオンラインでは「肥前の熊」の名前どおり熊に乗っている。

長い紫の髪の毛が特徴。

現在pixivにある龍造寺隆信のイラストの大半がこのイラストである。

クカカカ!五州太守サマの出陣だ!

概要

「15XX五畿七道の雄」より五人の四天王、義兄弟の鍋島直茂と共に他家勢力に参戦。レアリティはSRで、二つ名は「肥前の熊」。

熊の毛皮を身に纏った筋骨隆々の大男にデザインされている。戦国大戦では輿に乗った武将も存在するが、隆信は肥満というわけではないのでちゃんと馬を駆れている。

スペックは高武力に中統率、特技に攻城を持つハイスペックな武将。さらに固有計略『野獣の采配』は範囲内の味方の武力を上げると同時に、敵を撤退させると敵城にダメージを与える効果を付与する計略である。

敵城へのダメージは敵陣では増加するためとにかく攻めて敵城にダメージを与えることに特化している。一方効果中の味方が撤退すると自城にダメージを負い、自陣ではそのダメージが増加するため守りは少々苦手。

クカカカ!俺サマの爪で引き裂いてやるぜ!!

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戦国武将

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