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中沢啓治

なかざわけいじ

日本の元漫画家。眼力の強い独特の絵柄で知られる。第2次世界大戦当時に広島で原爆の投下を受けており、その際の体験談を元に描いた「はだしのゲン」は氏の代表作となっている。糖尿病のため視力が低下し、晩年は執筆作業を行なっていなかった。

いつまでたっても戦争や核はなくならない。

これじゃいかん、もうやめようよという意識が広がるよう、僕は漫画で伝えていきたい。

──5 August 2011, マツダスタジアム, ピースナイター2011始球式後

中沢啓治とは、日本の元漫画家である。

概要

1939年、広島県出身。日本画家を父に持つ。

終戦後に手塚治虫に感化される形で漫画家になることを決意、看板屋で生計を立てながら漫画の修行を行う。デビュー作は「スパーク!」。

代表作に「はだしのゲン」「黒い雨に打たれて」など。

2001年ごろから糖尿病に伴う白内障が進行し、視力が低下したため、2009年を以て漫画家を引退。

2012年12月19日に肺癌のため死去。73歳だった。なお、火葬された際は骨は残ったと報道されている(これが特筆事項な事情は後述)。

↑中沢啓治のタッチについての考察。

中沢作品は、しばしばその独特の絵柄や表現と共に語られる。昭和30年代頃の貸本劇画のデフォルメを受け継いだ「濃い」絵柄で、相手を力強く見据えるような眼、大きく強調された鼻の描写などが特徴的である。

反戦漫画家・中沢啓治

中沢は熾烈な反戦思想の持ち主として知られ、その思想は作品や言動にも色濃く現れている。これは自身による戦争、そして被爆者としての経験が元となっている。

中沢は小学校1年生、6歳の時に学校前で原爆投下を受けた。たまたま学校の塀の陰に入る形になったため熱線の直撃は免れ、中沢自身はほとんど無傷であったが、この時に家族を亡くしている。漫画家としてデビューした当初、中沢は今の作風とは大きく異なる、原爆や戦争とは無関係な漫画を中心に描いていた。当時は現代程被爆者についての社会的理解がなく、差別などを受けることを恐れてのことであった。

転機となったのは、母の死去である。同じように被曝し、戦後を生きた母であるが、しかし荼毘に付した際、放射線に冒されたその遺骨は崩れ去っていた。この現実に激しい衝撃を受けた中沢は被爆者であることから逃げることを止め、漫画家として戦争や原爆と戦うことを決意する。

火葬したら、骨がないんだ。放射能で骨までスカスカ。

原爆の野郎は大事なおふくろの骨まで盗っていたかと、腹が立ってね…

漫画でやってやるって…!

──10 August 2010, テレビ朝日「スーパーモーニング」インタビュー

最初の作品である「黒い雨に打たれて」はその内容から多くの出版社が恐れをなした。ようやく内容に共感したある雑誌の編集長には「内容は素晴らしいが、CIAに逮捕される恐れがある」と警告されている。これに対し中沢は「喜んで捕まる」と答え、同作は日の目を見ることになった。

その後、自伝漫画「おれは見た」に続いて長期連載を進められ、代表作である準自伝漫画「はだしのゲン」の執筆に取りかかることとなる。同作は何度かの連載誌移動が行われるなど数奇な運命を辿るが、戦争の狂気と悲惨さ、核兵器の恐ろしさを後世に伝える名著として、現代においても主に学校施設において購読が推奨されている。

なお、漫画作品をはじめとしていくつかのメディアで苛烈な天皇制批判、特に昭和天皇の批判と戦争責任の追及を行なっているが、曰く「嫌がらせ等が全く無く拍子抜けした」。また、原爆の記憶が掘り起こされることを嫌がり、2011年まで平和式典に参列したことが無かった。終戦後間もない頃は新聞でも「原爆」という字を見かけると当時の光景や死臭までもが思い起こされ、読むのを止めた程だったという。反核思想故に原子力発電所にも基本的に反対の立場ではあったが、広島長崎の原爆被害者に対する差別を見続けたこともあり、2011年の東日本大震災においては原発事故の被災者への差別を憂慮し一部反原発運動家の言動には批判的な面もある。

また上記の苛烈な政治的メッセージとは裏腹に、作品中の原爆による被害の症状などの描写は比較的誇張が少なく冷静な部分も多いため、思想的に真逆な層からも比較的受け入れられやすい作家でもある。

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中沢啓治の編集履歴2013/05/11 23:21:21 版