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中沢啓治

なかざわけいじ

日本の漫画家。代表作は広島市での自身の被爆体験を元にした「はだしのゲン」。
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***** いつまでたっても戦争や核はなくならない。

これじゃいかん、もうやめようよという意識が広がるよう、僕は漫画で伝えていきたい。

──5 August 2011, マツダスタジアム, ピースナイター2011始球式後


概要編集

本名:中澤啓治(1939年3月14日~2012年12月19日)

日本漫画家目力の強いパワフルな絵柄で知られる。

代表作は自身の被爆体験を元にした「はだしのゲン」。


略歴編集

1939年3月14日、広島市広島県)の漆塗り生業とする家に誕生。父は日本画家、蒔絵職人演劇活動なども行い、特高警察からマークされ連行された事もあった。

1945年8月6日、米軍が広島市に原爆を投下し、中沢は神崎国民学校(現在の神崎小学校)の前で被爆。たまたま学校の塀の陰に入る形になったため熱線の直撃は免れたが、頭部に負った火傷のため同級生から「ピカドンハゲ」と呼ばれる事となる。原爆により父・姉・弟を喪い、この日に生まれた妹も半年足らずで死んだ。

1951年、江波中学校に進学。「新宝島」(手塚治虫)を読んで感化され、漫画家になることを決意し『漫画少年』(学童社)などへ投稿した。

1954年、母子家庭のため高校に進学したいとは言えず、中学校卒業後は看板屋「中村工社」に就職し夜に漫画を描くという生活を送る。


1961年、『おもしろブック』(集英社)の編集からプロ漫画家になるよう勧められ、一峰大二アシスタントになるため上京。

1962年、『少年画報』(少年画報社)でデビューし、アシスタントを続けながら「スパーク1」を連載。

1963年、辻なおきのアシスタントとなり、その傍ら『冒険王』『まんが王』『少年』『ぼくら』『週刊少年サンデー』などに読み切り作品を発表。

1966年、妻・ミサヨと結婚。母が死亡し、荼毘の後に骨が残らなかったことに衝撃を受け、原爆を題材とした「黒い雨にうたれて」を描いたが、1968年にようやく『漫画パンチ』(芳文社)に掲載される。好評により同誌で「黒い川の流れに」「黒い沈黙の果てに」「黒い鳩の群れに」を描いた。

1968年、『週刊少年ジャンプ』(集英社)の準レギュラー作家となる。


1972年、『別冊少年ジャンプ』(集英社)の漫画家自伝企画で「おれは見た」を掲載。長野規編集長からそれを下敷きにした連載を勧められ、1973年から『週刊少年ジャンプ』で「はだしのゲン」が連載された。

1974年、オイルショックの紙不足で「はだしのゲン」の連載ページが減らされるようになり、長野が専務に昇進して編集部を去ったため連載は終了し、連載中の読者アンケートが下位だったため単行本の発刊も見送られた。しかし朝日新聞横田喬記者が「はだしのゲン」を取り上げようと考え、本が無いと記事にし難いため汐文社を紹介する。

1975年3月18日、朝日新聞夕刊で「はだしのゲン」が取り上げられて注目を集め、オピニオン誌市民』で続編が連載される。その後、『文化評論』『教育評論』と「はだしのゲン」の連載は移籍。

1987年、「第一部 完」として「はだしのゲン」の連載が終了。


1995年、ファンサイト「1995 GEN PRODUCTION」が開設される。ゲンコラが発生。

2001年ごろから糖尿病を患う。

2008年、肺癌の手術を行う。その後も肺炎心臓病で入退院を繰り返す。

2009年、糖尿病に伴う白内障で視力が低下したため漫画家を引退。

2012年12月19日、肺癌のため死去。73歳。なお、火葬された際は骨は残ったと報道されている(これが特筆事項な事情は後述)。


作風編集

なぜはだしのゲンの絵はこわいんじゃ?

↑中沢啓治のタッチについての考察。


中沢作品は、しばしばその独特の絵柄や表現と共に語られる。昭和30年代頃の貸本劇画デフォルメを受け継いだ「濃い」絵柄で、相手を力強く見据えるような眼、大きく強調された鼻の描写などが特徴的である。作風は良くも悪くも非常に男性的で荒削りであり、ドタバタギャグと八方破れなバイオレンス描写を得意とし、その持ち味は『はだしのゲン』にも存分に活かされている。


反戦漫画家・中沢啓治編集

中沢は熾烈な反戦思想の持ち主として知られ、その思想は作品や言動にも色濃く現れている。これは自身による戦争、そして被爆者としての経験が元となっている。

ただし原爆漫画家と呼ばれる事は嫌っていた。「はだしのゲン」を描いた原動力も田舎者の自分をバカにする東京人への怒りであり、反核ではなかったと語っている。その為か、あまり他の漫画家との交流はなかった。


漫画家としてデビューした当初、中沢は今の作風とは大きく異なる、原爆や戦争とは無関係な漫画を中心に描いていた。当時は現代程被爆者についての社会的理解がなく、差別などを受けることを恐れてのことであった。


転機となったのは母の死である。被曝し戦後を生きた母は死後荼毘に付された際、その遺骨は崩れ去っていた(注1)。放射線に冒されたためと思い激しい衝撃を受けた中沢は被爆者であることから逃げることを止め、漫画家として戦争や原爆と戦うことを決意する。


火葬したら、骨がないんだ。放射能で骨までスカスカ。

原爆の野郎は大事なおふくろの骨まで盗っていたかと、腹が立ってね…

漫画でやってやるって…!

──10 August 2010, テレビ朝日「スーパーモーニング」インタビュー


最初の作品である「黒い雨に打たれて」はその内容から多くの出版社が恐れをなした。ようやく内容に共感したある雑誌の編集長には「内容は素晴らしいが、CIAに逮捕される恐れがある」と警告されている。これに対し中沢は「喜んで捕まる」と答え、同作は日の目を見ることになった。


その後、自伝漫画「おれは見た」に続いて代表作である準自伝漫画『はだしのゲン』の執筆に取りかかることとなる。同作は『週刊少年ジャンプ』『市民』『文化評論』『教育評論』と何度か連載誌移動が行われたが、戦争の狂気と悲惨さ、核兵器の恐ろしさを伝える名著として、主に学校施設において購読が推奨されていた(『ゲン』は中沢作品の例に漏れずアナーキーで暴力的、かつ下品な表現が多いにもかかわらず)。


なお、漫画作品をはじめとしていくつかのメディアで苛烈な天皇制批判、特に昭和天皇の批判と戦争責任の追及を行なっているが、本人曰く「嫌がらせ等が全く無く拍子抜けした」とのこと。

また、原爆の記憶が掘り起こされることを嫌がり、2011年まで平和式典に参列したことが無かった。

終戦後間もない頃は新聞でも「原爆」という字を見かけると当時の光景や死臭までもが思い起こされ、読むのを止めた程だったという。反核思想故に原子力発電にも基本的に反対の立場ではあったが、広島長崎の原爆被害者に対する差別を見続けたこともあり、2011年の東日本大震災においては原発事故の被災者への差別を憂慮し、実際「はだしのゲン」の「たすけてー ピカの毒がうつる~」に近い言動も見られたため、一部反原発運動家の言動には批判的な面もある。

ただ差別を嫌っていた反面「はだしのゲン」作中で「ゲンが江波地区への偏見感情を抱くシーン」を描くなど、風評被害になりかねない描き方もしている。ゲンは作者がモデルであるため実際にあったことが元と思われる

また、同じ広島市民でありながら差別問題が生じているシーンもある(吉田政二の話など)


原爆投下について、国内では日本が戦争を継続したので戦争の早期終結の為に原爆が落とされたとする「日本の責任論」を主張する言論人が多い中、「アメリカの責任論」を一貫して主張し続けているのが特徴である。

ただし、作品の後半でゲンの「原爆投下が日本の降伏を早めた」などの台詞もあることから、日本責任論にも少なからず影響を受けていたものと思われる。


また、上記の苛烈な政治的メッセージを含んでいるにもかかわらず、作品中の原爆による身体的被害の症状、戦後の広島の描写は比較的誇張が少なく、ほぼ現実に沿っているため(但し一部には当時の知見の限界上の誤解と見られる描写もある。例として核開発のシーンでアルベルト・アインシュタインを直接の関係者として描いてしまった)、思想的に真逆な層からも意外に評価は悪くない作家である。

参考:放射線技師を妻にもつ男性が、作中の描写を現在の放射線医学書をベースに分析したtogetter「夏休み自由研究:「はだしのゲンにおける放射線被曝症状の描写について」


作風が作風だけにあまり広く知られていないが、ファンの半ば悪ふざけに近いパロディに関しては意外と寛容であった(注2)。


『ゲン』以外にも、アニメ化もされた『黒い雨にうたれて』や『クロがいた夏』など反戦漫画作品が多いが、デビュー作は反戦色のない一般漫画であり、様々な職業を題材に奮闘する青年の物語の通称・仕事シリーズ、特撮のコミカライズといった作品を手掛けている。

『ゲン』以降は反戦をテーマにした作品が中心になったが、『げんこつ岩太』のようなギャグを交えた痛快アクション作品や、戦後から優勝までの広島カープを市民の目から見守る内容の『広島カープ誕生物語』などの作品を描いており、特に『広島カープ誕生物語』は1994年に『かっ飛ばせ!ドリーマーズ』としてアニメ映画化されたほか、近年のネット上ではその作中で描かれるカープファンの暴走がネタにされることが多い。と、いうか中沢氏自身が熱狂的なカープファンである。


ディズニー映画の「白雪姫」を鑑賞した際はそれが1937年に公開されたものと知って驚きを隠せなかった(注3)他に当時は日本より1歩2歩どころかその先を行く先進した文化や技術を持っていたアメリカには政治的な事を抜きにして感銘を受けたエピソードもある、


編集

注1 中沢氏の母はおそらく骨粗鬆症であったと思われるが、実際には放射線と骨粗鬆症は直接の因果関係はない。現在では火葬に関しては約1000℃の炎をバーナーで燃焼させる為、燃焼時間と火力によっては健常者の骨も粉々になってしまう。


注2 『はだしのゲン公式サイト』はFlash作品「はだしのゲソ」があるなど半ば悪ふざけが多いが中沢氏の公認である。なお、中沢氏は基本真面目な発言・主張が目立つのだが、実は生前は悪ふざけが大好きだったらしい。


注3 世界初の長編カラーアニメーション映画であり、なおかつそれは中沢氏の生まれる2年前であった。日本では1950年に初めて上映されている。戦前には日本にもディズニーの短編映画が盛んに輸入されていたが、戦時中に育った中沢氏はそれを知らなかった。


主な作品編集

反戦系編集

  • はだしのゲン
  • オキナワ:米軍占領下の沖縄と反基地運動を描いた作品。『ゲン』以上に政治色が強いが、驚くべきはこれが「週刊少年ジャンプ」に連載されたということである。
  • おれは見た:「はだしのゲン」の原型的作品だが、実際の中沢の経験はこちらの方に描写されている。
  • 黒い雨にうたれて
  • クロがいた夏
  • ゲキの川
  • いつか見た青い空
  • ユーカリの木の下で

一般編集

  • 広島カープ誕生物語:描き下し単行本の形で発表された、広島東洋カープの初期球団立ち上げのエピソードと、熱狂的に支えるファン達の物語。一応キャラ自体は架空のものではあるが、描かれている熱烈カープファンの暴挙が実はさして史実から誇張されていないという、色々な意味で凄い作品。2016年のカープリーグ優勝で再び注目が集まった。熱狂的カープファンである中沢氏のカープ愛が炸裂。
  • げんこつ岩太:『ゲン』以降の中沢作品の中では珍しく反戦色が全く無く、純粋なギャグアクション作品。「少年チャンピオン」で連載されたが人気が出ず5話で打ち切り。
  • 超艦不死身:大和型戦艦を上回る新型超弩級戦艦でアメリカ軍と戦うという内容。昭和30年代に流行った仮想戦記作品のひとつである。
  • ウルトラセブン:「ボーグ星人の巻」
  • 宝島
  • グズ六行進曲
  • お好み八っちゃん:1971年に「月刊少年ジャンプ」に掲載された。自身の脚本で実写映画化されている。他にも多種多様な職業をテーマにした短編がある為、この作品を含めたものは「仕事シリーズ」と呼ばれている。

関連タグ編集

漫画家 はだしのゲン

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