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アウグストゥス

あうぐすとぅす

古代ローマの政治家。帝政ローマの初代皇帝にしてパクス・ロマーナを実現した。
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帝政ローマの初代皇帝(在位BC27~14年)

本名ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス(BC63~14年)


誕生〜カエサル暗殺

 古代ローマの騎士階級に属する父、ガイウス・オクタウィウスと、カエサルの姪アティアの間に生まれ、ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスと名付けられた。トゥリヌスは色白で病弱だった。

 父はBC58年に死去し、母はルキウス・マルキウス・ピリップスと再婚した。継父はオクタウィアヌスに、ブルジョア層に相応しい学芸・教養学を身につけさせた。


 BC47年に神祇官に任命される。BC46年には大叔父カエサルがウェヌス神殿を建造した記念に、ギリシャでオリンピックに参加。

 翌年、カエサルのヒスパニア遠征に従軍することになったが、出発前に病に倒れた。

 回復後、戦場に船で向かったが途中で難破し敵陣の真ん中を漂流してしまう。オクタウィアヌスは生き残った兵をまとめ敵陣を横断して脱出した。これがきっかけでカエサルに目をかけられるようになった。

 カエサルはオクタウィアヌスを自分の後継者と考えるようになり、パルティア遠征の司令官として抜擢した。虚弱体質で軍才が無いという弱点を補うべく、BC45年にカエサルにより、生涯を通じた盟友となるアグリッパと引き合わされる。これには頭脳明晰ながら病弱なオクタウィアヌスと根っからの軍人で屈強なアグリッパで、互いに補い合うコンビを組ませる意図があった。


 2人は同年代であったので、同様な教育を受け親しい友人となる。BC44年、アグリッパとオクタウィアヌスはギリシアのアポッロニアに遊学する事になった。しかしその遊学中にカエサルが暗殺され、遺言でオクタウィアヌスが後継者に、アグリッパはその後見人に指名されていた。


カエサルの後継者〜元老院派の粛清

 ローマに帰国後カエサル家を相続し、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと名乗るようになる。カエサルの後継者として、宿敵パルティアとの戦費としてカエサルが集めた公的資金70万セステルティウスを獲得した。しかし、実際にはアントニウスを中心とする反オクタウィアヌス派に対抗するために使用された。

 オクタウィアヌスはキケロの協力も得、アントニウスが元老院の脅威となっていると弾劾した。アントニウスは元老院で孤立したため、ガリア・キサルピナを自らに統治させる法案を成立させ、執政官の任期が切れると軍団を率いてガリア・キサルピナへ逃れた。

 BC43年、オクタウィアヌスは元老院議員に任命され、これまでガリア・キサルピナを領有していたデキムス・ブルトゥスとアントニウスの戦いを止めるため、アウルス・ヒルティウスガイウス・パンサの両執政官と共に出撃したが、ヒルティウスとパンサはアントニウスとの戦いで戦死し、オクタウィアヌスが元老院側の軍勢を掌握することになる。

 オクタウィアヌスの台頭を恐れる元老院はデキムス・ブルトゥスに接近して執政官特権を委託しようとした。これに反発したオクタウィアヌスは軍を留め、アントニウスへの攻撃要請を拒否。自らに執政官特権を委託すること、アントニウスを「国家の敵」として断罪することの破棄を元老院に要請したが容れられず、軍団を率いてローマに進軍し執政官に選ばれた。

 オクタウィアヌス、アントニウスにカエサル支持派の元老議員レピドゥスを加えた3人は国家再建三人委員会を結成し、ローマ共和国の政治・軍の全権を握り第ニ回三頭政治が始まり、カエサル暗殺者逮捕を名目に作成された名簿に基づいて元老院派と目された元老院議員300人、騎士階級2,000人を処刑、財産を没収する大粛清が行われた。


カエサルの神格化〜レピドゥス失脚

 BC42年、元老院はカエサルの神格化を決定、神君ユリウスとする。そのため、オクタウィアヌスは「神君の子」となり影響力を強めた。これを恐れていたアントニウスが、カエサルの神格化に反対し、オクタウィアヌスとアントニウスの間で対立が始まった。

 しかし、東方属州に逃れていた元老院派のマルクス・ユニウス・ブルトゥスロンギヌスが17個軍団を率いてローマに進軍を開始したため、オクタウィアヌスとアントニウスは一時の和を結び、ローマ軍19個軍団をもってこれにあたる事となった。アントニウスはオクタウィアヌスの姉の小オクタウィアと結婚し、同盟が強化された。

 マケドニアのフィリッピでの遭遇戦は激戦となり、アントニウスの活躍によって三頭政治側の勝利に終わった。元老院派は殲滅され、逃れたブルトゥスもアントニウス軍の包囲の中、自害した。遺骸は火葬され、遺骨はローマの母の元へ届けられた。


 フィリッピの戦いの後、三頭政治内で三者の支配地域の取り決めが行われ、アントニウスはガリア・キサルピナからエジプトへ移った。レピドゥスはアフリカへと赴任した。オクタウィアヌスはイタリア本国に留まることになったが、軍団兵たちの処遇に関し深刻な問題を抱えることとなった。

 フィリッピの戦いで味方として戦った兵士たちは軍役の義務の対価を要求をしていたが、内乱のため兵士に配る新たな土地はない。オクタウィアヌスは先住者のいる土地に退役兵の入植を行った。それでも十分とは言えず、兵士には不満が残った。

 元老院と結託したルキウス・アントニウス(アントニウスの弟)はこれを好機ととらえ、アントニウスの妻フルウィラと手を結び、処遇に不満なイタリア本国の兵8個軍団を編成して武装蜂起を目論むが、資金繰りが困難となりペルージャでローマ軍に包囲され、ルキウスとフルウィラは東方へ逃げた。この件でオクタウィアヌスは元老院議員と騎士階級300人を処刑した。


 この年、オクタウィアヌスは海軍司令官セクストゥス・ポンペイウスの親族スクリボニアと再婚したが、セクストゥス・ポンペイウスがBC40年のブルンディシウム協約によりアントニウスと同盟を結んだため不仲になり、BC39年に娘ユリアが誕生すると離婚した。

 BC38年、ティベリウス・クラウディウス・ネロの妻リウィア・ドルシッラを見初めたオクタウィアヌスは2人を離婚させ、妊娠中だったリウィアが大ドルススを出産した後、結婚式を挙げた。リウィアの連れ子であるティベリウスは後に第2代皇帝となる。

 一方、ライバルのアントニウスはプトレマイオス朝エジプトファラオクレオパトラ7世に魅了され、彼女との間にはBC39年にアレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネの双子、BC36年にはプトレマイオス・ピラデルポスを儲けた。


 オクタウィアヌスと不仲になったセクストゥス・ポンペイウスは、イタリアへの小麦の運搬船を妨害し、食糧供給が悪化した。制海権を脅かされたオクタウィアヌスはアントニウスへ援助を要請し、BC37年、三頭の会談が持たれ、三頭政治は5年間延長されることになった。アントニウスがオクタウィアヌスに120隻の軍船、オクタウィアヌスがアントニウスに2万の軍団兵を提供することを約束した。アントニウスは約束通り軍船を送ったが、オクタウィアヌスは約束を破り軍団兵を2,000人しか送らなかった。


 BC36年、ナウロクス沖海戦でセクストゥス・ポンペイウスは、アグリッパ率いるオクタウィアヌス軍に敗北。オクタウィアヌスとレピドゥスはシチリア島に上陸し、セクストゥス・ポンペイウスはBC35年に捕まり処刑された。

 レピドゥスはオクタウィアヌスを追い出してシチリアを独占するつもりだったが、部下がオクタウィアヌスに買収されて寝返った。孤立したレピドゥスはオクタウィアヌスに降伏し、最高神祇官職の保持は許されたが失脚し軟禁状態に置かれた。


アントニウスとの対決〜アクティウムの海戦

 ローマはオクタウィアヌスが西地中海、アントニウスが東地中海を勢力に収め、両者の間の軍事的緊張が高まった。

 BC36年、アントニウスはカエサルの悲願だったパルティア征服に向かうが失敗し、軍団旗もパルティアに奪われた(第2次パルティア戦争)。

 BC34年、裏切ってパルティアに味方したアルメニアを攻撃し、国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。その凱旋式をローマではなくアレクサンドリアで挙行したこと、ローマ本国に無断で領土をクレオパトラや息子たちへ分割したこと、BC35年に小オクタウィアを一方的に離縁したことなどがローマ市民を大いに失望させた。

 オクタウィアヌスはこの失策を利用し、ローマ市民と元老院を味方につけた。BC33年、オクタウィアヌスは、元老院にてアントニウスとクレオパトラ7世への宣戦布告の決議案を提出。その根拠として、


・ローマの征服した地域はアントニウスとクレオパトラ7世の子に受け継がれる

・墓はアレクサンドリアに立てクレオパトラ7世と共に葬られる


などとしたアントニウスの遺言状の内容を公表した。元老院もアントニウスを見限り、BC32年、ローマはプトレマイオス朝エジプトに対して宣戦布告した。


 BC31年9月2日、ローマ軍がアントニウスの軍とプトレマイオス朝との連合軍とギリシャのアクティウム沖で激突(アクティウムの海戦)。

 ローマ軍はアグリッパの指揮でエジプト軍の兵站を寸断した。狭い海峡に誘い込まれたアントニウスとクレオパトラ7世の軍の大型軍艦230隻に対し、アグリッパは機動力で勝る軍艦400隻を投入した。

 苦戦が続いたが、戦況は徐々にアグリッパ艦隊有利に傾いた。すると海戦のさなか、クレオパトラ7世が戦場を離脱し、アントニウスもクレオパトラ7世の船を追ったため、指揮官を失ったエジプト側は総崩れとなり、ローマ側の勝利に終わった。


プトレマイオス朝滅亡〜内乱の一世紀の終息

 アントニウスとクレオパトラ7世はアレクサンドリアへ逃れ、オクタウィアヌスとの外交交渉を試みたが折り合いがつかず失敗に終わった。カエサルとクレオパトラ7世の子、カエサリオン紅海に面したベレニケに逃がしたが、後にオクタウィアヌスに捕まってしまった。

 アレクサンドリアまで到達したアグリッパ艦隊に対し、アントニウスは決戦を挑もうとするが自軍に裏切られて失敗した。

 アントニウスはクレオパトラ7世死去の誤報に接して自殺を図り、瀕死の状態でクレオパトラ7世の元へ連れてこられたが息を引き取った。捕虜としたクレオパトラ7世の自殺を恐れ、オクタウィアヌスは厳重な監視下に置いたが、アントニウスの死から約10日後にクレオパトラ7世は隙をついて自殺し、彼女の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言はオクタウィアヌスにより聞き入れられた。

 プトレマイオス朝エジプトは滅亡してローマの領土となり、エジプトで多数の財宝を得たオクタウィアヌスは、これを兵士の退職金に充てた。

 アントニウスの遺児たちの中には姉である小オクタウィアの実子、つまりオクタウィアヌスの血縁もおり、結局小オクタウィアの元で養育されることとなった(このうち小アントニアは後にカリグラ帝の父ゲルマニクスやクラウディウス帝を産んでいる)。ただしカエサルの実子とされ、その後継者となる可能性のあるカエサリオンは処刑された。


共和制の終焉〜元首政への移行

 1世紀に及ぶ内戦の時代は終結した。BC29年、オクタウィアヌスはローマに帰国し、大凱旋式が挙行され、オクタウィアヌスは筆頭の元老議員プリンケプス(第一人者)となった。

 BC27年、オクタウィアヌスは自らの全特権を返上し共和制復帰を宣言する演説を行い、元老院を喜ばせた。ただし、この時放棄した権限は内戦時の非常大権ばかりで、本国を支配する執政官職は保持したままだった。

 また、オクタウィアヌスは元老院からの属州防衛の依頼に対し、属州を安全な地域と駐屯の必要のある地域に分け、前者を元老院が任命権を持つ元老院属州、後者をオクタウィアヌスが任命権を持つ皇帝属州としてはどうかと逆提案した。危険な地域を担当せず、属州総督の任期を大過なく過ごせるため元老院は喜んでこれを了承した。

 さらに軍の指揮と危険な皇帝属州の統治を行うためにプロコンスル命令権を元老院から与えられ、ローマ全軍の司令官(インペラートル)となり、全軍の一元管理が可能となった。


 共和制復帰演説から3日後、内戦を終結させ独裁を放棄した功績から、オクタウィアヌスに「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を贈ることが提案され、元老院は満場一致で国の全権を掌握するよう求めた。オクタウィアヌスは何度か辞退をした後、これを承諾し、インペラトル・カエサル・アウグストゥスと名乗ることになり、共和制ローマは終焉し、元首政(帝政)ローマの時代を迎えた。


その後〜死去

アウグストゥスは執政官の任期満了を迎えたが、元老議員の総意により執政官の継続、分担する皇帝属州が決まり、ほぼ半数の属州総督指名権が与えられ、「臨時という形でしかたなく」これを承諾した。西方領土の再編に着手し、アグリッパと共にナルボンヌに入り、ガリア問題の処理にとりかかる。

BC26年タラゴーナに移動し、イベリア半島を完全制覇する。
BC23年ローマに帰国。帰国後、アウグストゥスはアグリッパと共に4期連続就任していた執政官を辞し、1年任期の最高市民長官(トリブキアエ・ポーテンタース)を付与され、今後は毎年のイタリア国国会(下院)で自由に選出と宣言。プロコンスル命令権も上級プロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ・マイウス)に強化されて元老院属州でも権限施行が可能となり、この結果、皇帝権力はより強固なものとなった。通貨制度改革に着手。
BC22年東方領土の再編に着手。シチリア、ギリシャと移動。
BC19年ローマに帰国し、執政官命令権(インペリウム・コンスラレ)を得る。
BC18年ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法、ユリウス正式婚姻法を提出、BC15年から実施。秩序安定と風紀維持を試みた。
BC13年レピドゥスが没したため代わりに最高神祇官に選出される
BC12年軍才に欠けるアウグストゥスを補佐し続けたアグリッパが亡くなる。以降はティベリウスがその役割をこなしたものの、アウグストゥスに意見することは難しかった。アウグストゥスはエルベ川進出に未練があったが、9年のトイトブルク森の戦い以後、ゲルマニア経営は断念せざるを得ず、退いてライン・ドナウ川を北境とした。また、東側では強国パルティアと講和して、ユーフラテス川を国境とした。
BC7年ローマを14の行政区に分割して各区の行政上の責任を明確にする。
AD2年元老院より「国家の父」の称号が贈られた。

紀元14年8月18日、胃腸を患っていたアウグストゥスは76歳という当時として長命でその生涯を終えた。彼は葬られた後に神格化が行われ、カレンダーの8月は「AVGVSTVS」と記されるようになった。


ローマの内乱終了時、50万人規模の軍があったが、10年前後でアウグストゥスは16万人規模まで軍縮を行った。国勢調査、選挙改革、インフラ整備、食料の安定供給、通貨改革などが矢継ぎ早に為され、その後に続くローマ社会の基礎が作られた。為政者としてのアウグストゥスの功績は、何よりも、まれに見る平和安定体制パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現したことである。パクス・ロマーナが「パクス・アウグスタ」の別名を持っている点を見ても、その偉業は明らかである。この体制は2世紀の五賢帝時代まで150年近く維持された。


余談

  • 死後の正式な肩書きは「インペラートル(最高司令官)」・「カエサル」・「神の子」・「アウグストゥス(尊厳者)」・「最高神祇官」・「護民官職権行使37年」・「インペラートルの歓呼20」・「執政官当選13回」・「国家の父」
    • Imperator Caesar Divi Filius Augustus Pontifex maximus Tribuniciae potestatis XXXVII Imperator XXI Consul XIII Pater Patriae(インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス・ポンティフェクス・マクシムス・トゥリブニキアエ・ポテスタティス37・インペラートル21・コンスル13・パテル・パトリアエ)
    • 長過ぎるので呼びかけるときは最初のインペラートルか、次のカエサルが用いられた。この慣例は古代ギリシャの権力者から始まるが、中世ヨーロッパの君主や諸侯、ソビエト連邦の権力者にまで継承された。
  • アウグストゥスはローマ共和国の内戦を終わらせ、平和をもたらした功績により、万人を凌駕する権威(アウクトリタス)を元老院の総意によって与えられ、事実上の元首となった。しかし既存のローマ共和国の国号・基本法・ローマ法・12進法・ローマ市民議会・元老院の名称や組織など変えておらず『独裁者』や『国王』のように振舞うことなく、一介のローマの政治家としての体面を崩さなかった。アウグストゥスが政権を担当しているときにも政府閣僚メンバーを選ぶ年一回のローマ市民会選挙は実際に行われた(ただし、アウグストゥスが推薦した候補が軒並み当選するようになっていた)。この振る舞いは共産党独裁国家の書記長に近いニュアンスがある。共産主義体制は最高権力者の後継者を選挙で選ぶことに相当欠陥があったが、ローマ元首も民主的な選挙で選ばれることはついに実現しなかった。
  • アウグストゥスはローマ元老院で数度にわたる改定を行い、議員定員を600名に定めた。議員および政府メンバーの選抜を選ぶ権利を終身にわたり得る。
  • ローマ市憲兵隊、ローマ市消防団をローマ市民議会・ローマ元老院に決定させた。アウグストゥスは巨額の出費に備えて元老院管轄のローマ領の国庫と元首直属の国庫を独立させ、除隊金のために軍専用金庫を設立。租税の基礎となる人口調査を各ローマ領ごとに一定期間を隔てて実施し財源を調整、など閣僚ポストを兼任、顧問になった。これらは後任のプリンケプスや歴代ローマ元首の専権事項となる。
  • アウグストゥスは「ローマ市民権」の付与および、属州の主要都市にローマ市スタイルの整備を推進し、文化・文明の一体化、普遍化を進める政策を行った。共和国地方議会的な組織を公式な組織させた(デクリオス)、地方議員の選抜は属州総督が任命したりする方法が主だった。
  • アウグストゥスは元老院議員として数多くの立法を行っている。全ての法案を反対なく通せる立場だったが、これは歴代のローマ元首にも継続された。
  • アウグストゥスは市民を守る市民長官でもあり、裁判長としてローマ市の全ての裁判に裁決を下した。処刑、拷問、恩赦といった裁決を自由に下す裁量を持っていた。アウグストゥスが裁判長を務める裁判は「皇帝裁判」と呼ばれ、中世ヨーロッパの諸侯、皇帝なども行った。
  • アウグストゥスは自身の職種を「君主」とは認めず、非世襲の政治家のつもりだった。ローマ元首の職務は事務次官・総理大臣・軍事指導者・最高裁判官・弁護士・選挙立会人・議員・神官を兼務するような多忙なものだった。元首を選挙で選ばなかったのは、内乱が復活する可能性があったためだが、誰もやりたがらない職業だった可能性もある。
  • カエサルから溺愛されていた事で、恋人なのではないかというスキャンダルもあり、政敵アントニウスもそう見ていた。
  • 元首政治以降のアウグストゥスの一族はローマの支配層として認知されるようになった。アウグストゥスは子供たちの不良行為を断罪し、処罰しなくてはならないことが多々あった(娘ユリアは姦通罪で流刑になっている)。
  • アウグストゥスは自分の彫像に関して、20代後半から30代後半までの姿しか作ることを許さなかったため、老いたアウグストゥスをモデルにしたものは数えるほどしかない。
  • 皇帝紫色はアウグストゥスが用いたマントの色が由来となっている。元は古代ギリシアの運動選手などが用いた月桂冠もアウグストゥスが用いるようになって皇帝権の象徴のひとつとなる。

〈参考文献〉

・世界百科事典1巻P60(木本凄二)


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