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マルクス・レーニン主義

まるくすれーにんしゅぎ

「マルクス・レーニン主義」は、1920年代中盤からソ連の、そして後に全東側諸国において公式の政治イデオロギーとなった概念。スターリンにより「帝国主義とプロレタリア革命の時代における階級闘争の新たな条件の下、レーニンに創出されたマルクス主義の教義」と定義された。
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概要

 マルクス・レーニン主義は、イデオロギー資本主義制度の打破と共産主義社会の建設を求める闘争の法則についての社会政治的・哲学的学説。支持者の観点では、マルクスの見解を発展させ、実践へと適応した、В・И・レーニンに考案されたことになっている(Марксизм-ленинизм // Философия: Энциклопедический словарь / Под ред. А. А. Ивина. — М.: Гардарики, 2004.)。ソ連共産党において、マルクス・レーニン主義の存在は、マルクス主義へのレーニンの貢献とみなされた。

 社会主義諸国においては、マルクス・レーニン主義は公式の「労働者階級のイデオロギー」となった(Безансон А. Интеллектуальные истоки ленинизма = Les Origines intellectuelles du léninisme. — 1-е. — Москва: МИК, 1998. — 304 с.)。学説は静的ではなく、特にそれによって支配される社会主義国家の、現地の共産主義リーダーたちの論説をも包含し変形していた(Грицанов А. А. Новейший философский словарь. Научное издание / Мерцалова А. И.. — Мн.: В. М. Скакун, 1998. — 896 с. )。

 ソヴィエトの範例におけるマルクス・レーニン主義とは、哲学的、経済的および社会政治的な諸見解の、社会自然・人類の思考の変化の法則、階級闘争と社会主義への移行(資本主義の打破を含む)、社会主義的・共産主義的社会の建設に直接に携わる勤労者の創造的能力に関する、世界の革命的な変革と知識の概念的な見解を統合する、単一真正の科学的システムだった(Марксизм-ленинизм / Митин М. Б. // Ломбард — Мезитол. — М. : Советская энциклопедия, 1974. — {Большая советская энциклопедия : в 30 т. / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 15})。

 党員数において世界最大の党である中国共産党は、自らの活動において、その規約において強調されるものとして、マルクス・レーニン主義に準拠している。「マルクス・レーニン主義は、人類社会の歴史的な進展の法則を明示し、その基本的な原則は正しく、強大な生命力を備えるものである」(中国共産党党規約)。

出現と用語の使用

 ソ連において「マルクス・レーニン主義」という単語は、一方では、マルクス主義の古典における理論の関係での継続性を保持するレーニンの一般的な学説の名称として、また一方では、ボリシェヴィキの革命的実践、社会主義国家の建設の実験を通じて、後続する経済的発展を拡大させるものとして普及した。

 イデオロギーの一種として、マルクス・レーニン主義は様々な社会主義諸国の支配政党の党綱領の根底を成し、資本主義・発展途上国においては国際労働運動の諸政党の綱領となった。ソヴィエト・中国間の断裂は、国際共産主義運動の分裂をも引き起こし、それは両陣営が、マルクス・レーニン主義からの偏向を互いに非難し合うことによって、自身のマルクス・レーニン主義への忠誠を声明することを根源的に伴っていた。以後、中国における意識の変化にもかかわらず、西側、および東方におけるいくらかの政党、組織、運動は、自らの綱領に関する文書で「マルクス・レーニン主義」を継続して引用し、各々の具体的な事例におけるその解釈は独自の研究を促進している。

発展の歴史と短い叙述

 レーニンは非科学的な「思弁哲学」要素からのマルクスの「純化」を提唱した一人だった。レーニンはマルクス主義の理想に、彼が何かを追加、もしくは取り除いているとは考えなかった。

マルクス・レーニン主義においては、唯物論的弁証法の手段が見解の正統な形として追加された一方、そこからのわずかな逸脱も修正主義とみなされ、処罰された(Марксизм // Философия: Энциклопедический словарь / Под ред. А. А. Ивина. — М.: Гардарики, 2004. — 1074 с.)。

 マルクス主義の進化の過程で、レーニン主義は次に述べる一連の基本的な要素を獲得した。

  1. マルクス自身によっては記述されなかった弁証法的唯物論
  2. マルクス自身が自身の社会哲学と呼ぶことを好んだような、史的唯物論(幾人かの理論家は1970年代後半に弁証法的唯物論の中に含められ、社会現象の分野に後者の原則を広めるものと解釈された)
  3. 資本主義の批判的な分析たる、資本主義経済学
  4. レーニンによって発展した、革命運動の党と結びつく、特殊な形式の党理論。この理論は、正統派のマルクス主義には存在しない。
  5. 新たな社会体制の不可避的な設立に関する学説たる科学的共産主義。同時に、共産主義の建設は次の数十年間における課題と宣言され、後になって「歴史的に妥当な時期」へと延期された。

 こうして、この学説の明快かつ単純な言説は、以下の点から始まった。

  • 弁証法(否定の否定、あらゆる発展の源としての矛盾、数量から質への飛躍的変化、および螺旋状の上昇発展)および自然の弁証法の諸原則の説明。
  • さらに、史的唯物論(生産的な諸力と、その他すべての社会関係の生産的関係の、弁証法的な相互関係)が続いた。
  • 続いて、史的唯物論の真実性を示すための、資本主義制度の分析が現れる。
  • この分析によって引き出される、革命運動の政党組織の不可避性。
  • 資本主義の不可避的な破壊よりも、むしろ共産主義の必然的勝利が結論される。

 このような概略が、哲学的・理論的問題に従事する全員にとって指導原理となり、マルクス・レーニン主義の哲学と科学的共産主義に関するすべての教本に含まれていた。レイモン・アロンは、現存するシステムにこのような評価を与えた。「モスクワには、そして同様の社会主義諸国においては、国家的な事実の段階にまで上昇した一定の教義、イデオロギー的教理問答が樹立されている」。「マルクス・レーニン主義的理論は、ドグマではなくて、行動への指針である」と、『全連邦共産党(ボ)史小教程』は強調している(訳文はソ同盟共産黨〔ボルシエヴイキ〕中央委員會所屬特別委員会編集『ソヴエト同盟共産黨(ボルシエヴイキ)歴史 : 小教程』1950年、外國語圖書出版所、563ページを参照)。

古典的マルクス主義との差異

 マルクス主義において、「新たな形態の党」という概念は存在しなかった。プロレタリアート独裁とは、マルクス主義の教義に則り、資本主義から共産主義への時期における、権力闘争の革命期での不可欠の手段として存在する。「新たな形の党」に関するマルクス・レーニン主義の教義により、プロレタリアート独裁は、政治や経済に始まり、その党員の生活の部分に終わる、社会生活のあらゆる側面を管轄する革命政党の独裁へと簡略化された。

 独占的に権力にある党は、熱意を喚起するよう呼びかけるイデオロギーを、絶えず恐怖を吹き込む恐怖政治と連結する。党は、歴史と人間の生活、人類の幸福正義や、それに準ずるものの意義に関する、生活のあらゆる存在の側面の新たな決定権を持つと主張する。党はまた、社会ではなく、党それ自体への奉仕こそが最上の義務としてその中に存在する、新たな規範を根拠づける(Марксизм // Философия: Энциклопедический словарь / Под ред. А. А. Ивина. — М.: Гардарики, 2004. — 1074 с.)。

 その中でマルクス・レーニン主義がマルクス主義から逸脱する別の重要な要素として、社会主義革命の勝利が前提条件とされることが挙げられる。マルクスによれば、社会主義革命の勝利は、最も発展した資本主義諸国において同時に発生する前提によってのみ成功すると考えられていた。マルクス・レーニン主義は、もしその国が後進国で、主に農業国であるならば、個別の国々における社会主義の勝利についての理念を提起する。Л・Д・トローツキィによって1905年から展開された永久革命の理論は、(ブルジョワ的)反封建主義と(社会主義的)反資本主義の中間点を否定し、一民族的なものから国際的な革命への転換(革命が、ロシアでブルジョワ的なものとして始まり、工業的先進国においても、ただし即座に社会主義革命となって、必然的に開始される)の不可避性を主張した。

 一国における社会主義の勝利の可能性に関する立論は、スターリンに推し進められた。とはいえ彼は、彼が作り出したことを曖昧にすべく手を尽くした。彼は、レーニンの、そしてトローツキィの発言を偽造すべく、その理念をレーニンに帰した。こうしてスターリンは一国においても社会主義を建設することが可能だと主張する「レーニン主義」を、敗北主義的で反レーニン的な立場として想定された「トロツキズム」と鋭く対比させる好機を得た(Марксизм // Философия: Энциклопедический словарь / Под ред. А. А. Ивина. — М.: Гардарики, 2004. — 1074 с.)。

 古典的マルクス主義によれば、あらゆる社会革命は次の形で展開される。生産の物理的な諸条件は、それらが権力・社会関係との闘争に入らない限り、発達・成長し、衣服のようにそれらに合わなくなることはなく、それらを破ることはない。1917年10月のロシアにおける諸事件と、圧倒的な多数派において後に続くブルジョワ的変革は、マルクス・レーニン主義を、それらを現実に一致させるため、社会主義革命の一般的な理論として説明した。同様に、マルクス・レーニン主義は、下部構造と上部構造の相関関係、そして資本主義から共産主義への過渡期としての社会主義に関するマルクス主義の理念を改訂した。宗教思想家Г・П・フェドートフの私的な考えでは、それらの変更は「マルクス主義を、マルクス自身がそれによって激昂するようなものとして解釈」していた(Марксизм // Философия: Энциклопедический словарь / Под ред. А. А. Ивина. — М.: Гардарики, 2004. — 1074 с.)。

その他の論説、ドクトリンとの関連

スターリン主義

 スターリン主義は、マルクス・レーニン主義のイデオロギーに等しいと宣言した。仮に区別できるとしても、その第一段階におけるマルクス・レーニン主義のイデオロギーと、スターリン主義のイデオロギーは本質的に区別することが難しい。

毛沢東思想

 第20回党大会、そしてソ連中華人民共和国の敵対の累積の後、国際共産主義運動における毛沢東の支持者たちは、(彼らがそのようにみなす)ソ連共産党のブルジョワ化した党の官僚主義に反対し、自らをそのスターリン主義の観点におけるマルクス・レーニン主義の伝統の保持者であるとしている。

 毛沢東によって提起された理論的テーゼ(党官僚主義への批判「炮打司令部」および革命的な青少年の無定形のグループ〔紅衛兵〕)は以下のように理論づけられる。植民地および反植民地国家における唯一の革命的実践としての遊撃戦文化革命の理念の強調。毛沢東主義者たちはそれらを、権力にある中国共産党の公式のイデオロギーである、マルクス・レーニン・毛沢東主義の形での、マルクス・レーニン主義の創造的発展であると宣言した。

主体思想

 マルクス・レーニン主義および金日成の思想の変化の結果、1955年に生じた北朝鮮労働党を管理する公式イデオロギー。

ソ連の公式イデオロギー

 1977年の憲法には、マルクス・レーニン主義がソ連の公式イデオロギーとして定着された。その時まで、1936年のソ連憲法は公式には支配政党としてのソ連共産党を指導するイデオロギーとしてのマルクス・レーニン主義の役割が定着されていた。創始者たち(マルクス、エンゲルス、レーニン)の著作の全集の巻は、すべてのソヴィエトの図書館で名誉の地位を得た(一時は、それらにスターリンの著作が並んだ)。そこには、古典の、時と共に変わる公認の解釈も存在していた。

 1925年以来、ソ連では全大学に「マルクス・レーニン主義の基礎」が導入され、「全連邦共産党(ボ)の歴史」がその一部を構成していた。

 マルクス・レーニン主義は中学校の最上級クラスから、すべてのソヴィエトの教育機関において学習が義務的なものになった。大部分がマルクス・レーニン主義の注釈に費やされた本や科学論文が出版された。「マルクス・レーニン主義」の主題に基づく、1979年から1990年代にわたるソ連における出版事業は、次の数字によって特徴づけられる。

本、小冊子、印刷物の量発行部数、100万単位印刷部数、100万単位
197959720,600294,2552
198077125,6618293,8961
198154522,3762222,3956
198552921,0629280,6508
198746013,4011214,1762
198845312,7307206,5520
198932610,7185116,7927
19903085,656268,9841

(Печать СССР в 1990 году: Статистический сборник / НПО «Всесоюзная книжная палата». — М.: Финансы и статистика, 1991.)

 とはいえ、すべての議論は取るに足らない問題の周りにとどまっていた。マルクス・レーニン主義の基礎的な命題を疑う、いかなる試みも厳しく阻止された。

 創始者たちの著作への補足として扱われたのは、ソ連共産党大会と総会の決定と決議だった。それらの文書もまたソ連の学習施設において義務的な学習となった。マルクス・レーニン主義の最終的な目的として宣言されたのは、全世界の共産主義体制の確立だった。その際、ソ連とその他の社会主義諸国は他国への共産主義思想の伝播の出発点として機能せねばならなかった(西側では、「革命の輸出」と呼ばれた)。ソ連はまた全世界の共産主義運動の指導者の役割を自任し、それはユーゴスラヴィア、のちに中国との紛争の発端となった。

マルクス・レーニン主義への関心の衰退

 それは多くにとって共産主義の熱意が無となる原因となった。1961年に宣言された、「今日のソヴィエトの人々の世代は共産主義の下で暮らすことになる」とする、ソ連共産党の新たな第3党綱領が第一の目撃者となった。多くにとって、共産主義の現実の建設の信念は1970年代には衰退していた(Марксизм // Философия: Энциклопедический словарь / Под ред. А. А. Ивина. — М.: Гардарики, 2004. — 1074 с.)。

 マルクス・レーニン主義の深刻化する危機の兆しの一つになったのは、1960年代に現れ始めた科学原理、論理学に充てられた、弁証法的史的唯物論の伝統的な設問に関連することのない活動だった。「マルクス・レーニン主義哲学」の諸概念および「ソヴィエト哲学」はすでに時勢に一致せず、時代遅れになり続けた。1970年代から1980年代のソヴィエトの哲学者の多くはすでにマルクス・レーニン主義と無関係だった(Марксизм // Философия: Энциклопедический словарь / Под ред. А. А. Ивина. — М.: Гардарики, 2004. — 1074 с.)。

 ペレストロイカの始まりに向けて、二つのマルクス・レーニン主義の基礎的な公理――共産主義が経済領域において資本主義を超越しうるという信念、そして共産主義の諸理想の道徳的優越への信念――は、多くのものにとって破壊されていた。ソ連において社会主義が建設されたかという、1930年代後半からその完全な是認について口に上った問題さえ、多くにとって答えがないままだった。1990年代の始まりに向けて、ソ連では国家を支配するイデオロギーとしてのマルクス・レーニン主義からの漸次的な後退が行われた。

 ソ連の解体後、ロシア共産党は議会に代表を送る、重要な政治勢力にとどまっている。

批判

 マルクス・レーニン主義の批判は、それによって共産主義が資本主義よりもさらに高い労働の生産能力を提示でき、当然の理由に基づいて資本主義を克服するとした、マルクス・レーニン主義の理論的基盤を、マルクス・レーニン主義の学説の基本的な誤謬としている(Марксизм // Философия: Энциклопедический словарь / Под ред. А. А. Ивина. — М.: Гардарики, 2004. — 1074 с.)。

 マルクス・レーニン主義の学説に則ることを試みた国々の歴史は、合法的に、その原則によって、マルクス・レーニン主義が権威主義的な共産主義政体のイデオロギー的論拠になったことを明らかにした(Марксизм // Философия: Энциклопедический словарь / Под ред. А. А. Ивина. — М.: Гардарики, 2004. — 1074 с.)。

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