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熊徹の編集履歴

2021-02-12 22:35:53 バージョン

熊徹

くまてつ

映画『バケモノの子』の登場人物。九太の育ての親。

「おめぇ…俺と一緒に来るか?」

「俺は…半端者の馬鹿野郎だが…それでもあいつの役に立ってやるんだ!あいつの胸ん中の足りねえものを俺が埋めてやるんだ!それが…それが半端者の俺にできるたった一つのことなんだよ!!」


概要

CV:役所広司


細田守のアニメーション映画『バケモノの子』の主人公の一人。

人間とは相対する「バケモノ」という存在で、バケモノの世界の都市の一つ【渋天街】に住む。


その名の如く、熊の趣がある容姿をしている(胸の模様はツキノワグマを思わせるが、ヒグマにも同様の模様を持つ個体が存在し、毛並みはヒグマ寄りである)。


赤毛の大柄な体躯で、身の丈に迫る大太刀を振り回す。


「渋天街」の長・「宗師」の次期候補者の一人だが、武芸の強さは勿論、高潔な品格と素行などといった徳の高さが求められている宗師に対して、粗暴で傲岸不遜且つ手前勝手な態度が多いことから同じ次期候補者である猪王山と比べるまでもなく住民達からの支持を全く得ておらず、おまけに弟子を取ってもすぐに逃げられてしまう日々が続いていた。


そんなある日、悪友・多々良の軽口をきっかけに人間の街・渋谷を散策した際、道端に蹲っていた一人の子供との出逢いが彼の人生に大きな起点となる。


周囲の反対の声には聴く耳を持たず、その子供とは憎まれ口を叩き合いながらも絆を育んでいく。


バイオグラフィー

街の中央広場からは少し離れた丘の上に「熊徹庵」という1LDK程度の広さのやや古びた小屋に住んでいる。


鶏を飼育しており、朝食を主にシンプルな卵かけご飯で済ます場合が多い。幼少期は生卵が苦手だった九太も食べざるを得なかったため、武芸家としての名が上がるまでは食料の備蓄が決して良好ではなかったと思われる。


茶摘み熊

天涯孤独で嫁を取ることもできず、名声を得るまでは生活にも困窮していたため、薪割りや左官、茶摘みなど様々なバイトを掛け持ちして日々を食い繋いでいた (劇中ではその場面は描かれなかったが、pixivではその様子を想像したイラストがいくつか投稿されている)。


性格

端的に述べると、粗暴で傲岸不遜、且つ身勝手、しかし決して自分の意思を曲げず己に真っ直ぐな生き様を貫くことを信条としている(粗暴、傲岸不遜、身勝手な面は己に真っ直ぐな生き方の裏返しと言える)。それ故、一度何らかの思いつきをすると周囲の意見や忠告には一切耳を傾けず、結果が出るまでそれをやり抜こうとする。その一例として、バケモノとは対を成し且つ劣った存在と見なされている人間を一切線引きしておらず、当然ながら彼らに対する差別感情や偏見も全く抱いていないという独特の観点を持つ。また多々良の皮肉と揶揄の言葉に動揺する素振りを見せるなど、繊細な一面もある。

宗師になるには弟子がいることが必須条件なのだが、どこか身勝手な性格で品格の欠片もないため、弟子をとっても一日ともたずに逃げ出す者が続出していた。


物欲や名誉欲も然程ない。

評判が広まって武芸家として台頭し、多数の弟子達からの月謝でかなりの収入を得る様になったが、熊徹庵に変わらず住み続け、自宅を改築したり猪王山のような豪邸を持つということもなかった。


また、次期宗師の候補であるがその立場や権利には一切執着はなく、実のところは単に猪王山に負けたくなかっただけのようである。

  • それ故、宗師になるという「目標」こそあれど、そこに至るまでの知識や普段のコネ、「きっかけ」に恵まれず、モチベーションが追い付いていなかった可能性がある。

対人関係

その性格と態度ゆえ、基本的には渋天街の住民から煙たがられている。

バケモノの晩ごはん2

一方、多々良や百秋坊など付き合いの長い友人達もいる。

現宗師である卯月からは、その身の上を案じられ、尚且つ従来の風習に左右させず己に真っ直ぐなその生き様を買われてか、幼少期の頃から何かと気にかけられていた。そして、九太を弟子にすることも法外的に許すまでとなる。猪王山は (熊徹の境遇と比べた自身の恵まれ具合、卯月の思惑、そして一郎彦の正体に卯月が気付いているという事実を知らないためなのか)彼の熊徹への好待遇を疑問に感じていた。

  • バケモノ界では一般的に様々な要因から人間は差別対象とされている。その一例として、人間は心に「危険なもの」を宿し解き放ちかねない不穏分子であるという言い伝えが古来から存在している(ただし描写から察するに、この言い伝えは卯月や猪王山など、社会的地位が高いバケモノのみが把握している可能性がある)。

猪熊

猪王山とは宗師の座を争うライバル同士ではあるものの、関係そのものは決して悪辣ではなく、独特の距離感を保っている。

気軽に挨拶して茶化す、素直に相手を讃える、どこか互いを理解している感があるなど、友情というかある種の絆がある事を本人達もどこか自覚している節がある。

  • 熊徹が粗暴でライバル心の塊、何より不器用でなければ、良き友になれた可能性がある。
  • また、物語終盤でとある共通点を抱えていたことが判明する。
  • モチーフとなった動物が互いに雑食性であることも共通している。

バケモノの子

そして、九太との出会いが彼等の生活を一変させることとなる。


実力

バケモノの世界でも大規模な渋天街においても屈指の武芸の達人と知られ、稀代の雄猪王山と一二を争う。素振りをするだけで強風を起こす凄まじいパワーは猪王山すら凌ぎ、その癖に猿のバケモノをして「猿のように」身が軽いというハイスペックの持ち主。大柄で強くて速いという意味でポテンシャルは非常に高い。


また、独自の戦闘スタイルを持つ。その身のこなしは、例えば人間界のカポエイラ相撲ボクシング空手等にも近い特徴を持ち、九太との特訓を経てからは例えば合気道のような特性も併せ持つようになった。粗野である一方どこか洗練されており、上手くたち立ち回る戦術さえあれば猪王山にも通じる。

  • バケモノの世界における弟子の服装も、カポエイラと似た部分がある。また、熊徹の家もどちらかといえば和風ではなくてブラジルを思わせる。

バケモノらしく、力と力のぶつかり合いでは獣の特徴が目立つ姿になる。


だが、生い立ち故の性格と経歴故、その腕を誰にも師事せずに独学で極めた。そのため、武芸のノウハウや自身がその能力を身に付けた経緯は知らないままであり、教え方のノウハウも未熟であった。何より、「強くなる過程」の概念も独自のものであるために、これまでは弟子を取っても共有できずに失敗続きだった。


なお、精神的に未熟だった頃は立ち会いの場にて礼儀を無視したり挑発することも厭わなかった


来歴

幼き頃から親のいない天涯孤独の身であり、宗師以外は誰からも相手にされておらず、時には「言うことを聞かない面倒な奴」と周囲から嫌がらせを受けたこともあった。


そんなある日、現宗師がその座を辞し神への転生を宣言しその次期候補に立候補するも、その粗暴といい加減な性格と態度から住民達からは全く支持されていなかった。


しかしある日の夜、多々良と共に人間の街・渋谷を散策した際、高架下で一人のみすぼらしい人間の子供を目にすると彼に弟子入りを持ち掛ける。


結局はその場を後にするも、渋天街へ帰った際に広場で自分たちを追ってきたその子供と再会し、彼を自宅に招き入れたのち名前を尋ねるも個人情報の保護を理由に明かさなかったことから、年齢に因んでその少年を「九太」と名付ける(本名は「」)。


翌日の朝、九太を朝食に誘うも彼が嫌いな生卵を食べるよう強要したことから言い争いとなり、追いかけっこになったのち九太がその場から逃走。それを追う形で広場に寄ると猪王山に遭遇し、彼と人間の九太を弟子に取るか否かで対決になる。開始早々果敢に攻め入ったものの、相手を見くびっていたことから反撃を許しその後も次々と攻撃を食らってしまう。


それでも退くことはなく攻撃を止めることはなかったが、結局敗北を喫する。しかしその直後、宗師がその場に現れ九太を弟子に迎え入れることを許可し、帰宅後には九太から「もしあんたといて強くなれるなら、俺あんたの弟子になってやってもいいぜ」と言われた後、懸命に卵かけご飯を食べる様子を見て感銘し、本格的に彼を自らの弟子として育てることを決意する。


しかしそれまで師事や指導の経験がなかったことから、技の説明は非常に大雑把かつ漠然であり、稽古初日は思い通りにならない苛立ちから九太に「勘が悪い」と言い捨て踏ん反り返りそのまま指導を放り投げて帰ってしまう。さらにその後、九太から自身と猪王山との品格に対する雲泥の差を聞かされ落胆してしまう。


だが九太が渋天街以外の各地の宗師を訪ねる旅によって強さの意味を見出したのに加え、日常的に熊徹の動作を観察し真似し続けたことによって足さばき程度なら自身を遇らうことができる程度の身のこなしが身に付いたのを機に本格的な修行が始まることになる。その結果、二人で協力し合いながら武芸の腕を磨いていき共に精神的な成長を遂げることになる。


そしていつしか二人の存在は渋天街で評判になり、熊徹はついに渋天街の住民達から次期宗師候補者と認められそれまでの偏見は消え失せ、彼の元に多数の弟子入り希望者が押し寄せるようになった。


8年が経ち、次期宗師候補者として順風満帆な日々を送り九太とも些細なことでいがみ合ってはいたものの師弟として、果ては親子として良好な関係と絆を築いていた。


しかし九太は青年に成長し自尊心と好奇心が身に付いた影響から次第に自らの管理下を離れて自主稽古などの自主行動をするようになり、心配性から未だに彼を一人前と認められないことからそれに苛立ちを募らせていた。


そんなある日、九太の寝床から人間界の数学の教科書を発見したことで彼が人間界に関心を抱いていることを知り、その日の夜に帰宅した九太をそれに関して問い詰めた結果、自分を一人前と認めないと悟った彼と不和が生じてしまい、一方的に別れを告げられ不本意のまま九太と決別してしまう。


そして傷心のまま次期宗師を正式に決定するための闘技試合を迎えることになってしまい、動揺と自暴自棄から試合開始早々から自分のスタミナを省みない無理な攻撃を猪王山に敢行。当初は善戦するも、隙を突かれ反撃に転じられ猪王山の猛攻を立て続けに受けた挙句ついに戦意喪失しその場に倒れ込んでしまう。


軍配が猪王山に上がろうとしたその時、突如会場に迷いを振り切った九太が現れ、彼から喝破される形で背中を押されると果敢に立ち上がり再び猪王山に攻め入る。そして九太に指示を受けながら猪王山と激しい熱戦を繰り広げ、ついに隙を突いてカウンターの右ストレートを渾身の力で彼の顔面に叩き込む。そのまま猪王山はダウンし10カウントを過ぎてなおも立ち上がらなかったことから勝負は熊徹の勝利に終わり、次期宗師に熊徹が就任することが決定したのであった


試合終了後、すぐさま九太の元に歩み寄り、いつものように憎まれ口を叩き合いながらも彼とハイタッチを交わす。


しかしその時、試合の結果を不服に思った猪王山の長男・一郎彦によって鞘の抜かれた猪王山の剣を背後から突き刺され、一命は取り留めたものの瀕死の深傷を負い昏倒してしまう。


その後、宗師庵で介抱を受けた後目を覚ますと、多々良と百秋坊の口から一郎彦が九太と同じく人間であること、そして九太が強大な”闇”の力を用いて暴走した一郎彦を止めるために彼と闘っていることを聞かされると、すぐさま自らの状態を省みず宗師の元へ直行し、自分が現宗師であることを利用して九太を救うために自らを神に転生させるよう彼に頼み込む。


そして燃え滾る大太刀の姿をした付喪神に転生すると、人間界で一郎彦と闘う九太の前に現れ彼と一体化する。九太はそれに涙するも、彼の胸の中からそれを喝破し九太を元気付け、彼と共に剣を構えて一郎彦に斬りかかるタイミングを待つ。そしてタイミングを見極めると、果敢に一郎彦に攻め入り彼の胸にある”闇”を切り裂く。そのまま”闇”は消滅し、一郎彦は気を失ってその場に倒れ込んだ。


翌日の早朝、一郎彦との決着の舞台となった代々木体育館の一角で九太と何気なく語り合った後、自分のやることを胸の中から見守るよう九太に伝えられると、「おう、見せてもらおうじゃねえか」と笑いながら答えるのであった。


その後九太は渋天街の住民達から「バケモノ界を救った英雄」として盛大に祝われたのち、街を去って人間界で実父と共に暮らし始めた。そして宣言通り、人間界で暮らす九太をいつまでも彼の胸の中から見守り続けるのであった。


備考

  • 物語序盤で多々良が百秋坊に「仮にあいつ(熊徹)が転生してもせいぜい付喪神がいいところさ」と語っていたが、これは後に熊徹が付喪神に転生することを示す伏線となっている。また彼が卯月のような「決断力の神」という大層な神よりも、「付喪神」という決して崇高とは言い難い神に転生したことは、高い名誉に拘らず飽くまで自身に正直に生きる熊徹の性格を表している。

  • 「猪王山への勝利」という目標の達成は、九太の危機であったことが最前提だが、不可逆的な転生へ熊徹を後押ししたことだろう。

  • 猪王山や多々良、百秋坊もまた熊徹とは別方面でそれぞれで人間に対する何らかの労わりを抱いてはいたものの、彼らの場合は人間をバケモノと明確に区別し、それから来る偏見や差別意識が根底にある。一方熊徹の場合は人間をバケモノとは違う存在として認識はしていたものの、周囲と関わりが薄く、且つ自身の意思のみで物事を判断する性格であったためバケモノ界の従来の文化や価値観の影響を受けておらず、人間への差別意識も抱くことはなかった。それ故人間でありながら自身と同じく孤独である九太にシンパシーを抱いて彼を弟子として迎え、九太を人間や拾い子ではなく「自分の弟子にして息子」として彼と対等に接し、九太もまた自身をそのように扱ってくれる熊徹を自らの師匠兼父親として慕ったことが二人の絆を育む要因となり、それが熊徹を宗師就任(猪王山への勝利)へ導いたと言える。猪王山もまた一郎彦を自身の息子として彼に深い愛情を抱いてはいたものの、その境遇から彼の悩みに応えきれず、結果として一郎彦に「闇」を抱かせることとなった。人間を育てる際に、「人間としての」彼らと真っ当に向き合ったか否かが二人の勝敗とその育てる人間の運命を分けたといえる。

  • 実は次期宗師を決める闘技試合の熊徹の勝利という結果は多くの観客から疑問を持たれている。そのシーンを見直すと、この試合の判定を務めた審判長は熊徹がダウンした後に九太が試合に乱入した際にどういうわけかその時数えたカウントを「8」まで数えた段階で止め、しばらく経ったのち熊徹が立ち上がり(無論カウントが始まってからこの時までの間を普通に数えたらとっくに「10」を過ぎている)その後猪王山がダウンした際にはきちんとカウントを「10」まで数えて熊徹の勝利と判定している。常識的に考えてどう見ても不自然この上なく、その後一郎彦が凶行に及んでしまうのもより頷けてしまう(ただしこの過程でなくとも彼は同じような行動をとっていたことは明らかである)。この不審点に関しては、映画版の疑問がある程度補完された小説版ですらなんの説明もない。一応試合のルールの一つに「十拍の間失神した者は負け」というのが設けられており、これを考慮すれば熊徹の勝利は正当化出来なくもないが(熊徹のダウンは失神ではなく戦意喪失であり本来はダウンと見なされないのに対し、猪王山のダウンは完全な失神によるものであるため)、それでもカウントを数えているという事実に変わりはなく、且つカウントを止めたのも熊徹に意識があると気づいたためである可能性は限りなく低い。とはいえバケモノ界と人間界は価値観や文化、世相などが全く異なるため、そうした要因が絡んでいるとも捉えられ、尚且つそれが一郎彦を凶行に及ばせた一因であるともいえる。どの道不自然な描写であることに変わりはなく、同時にこの時の細田監督がいかに脚本家としての実力に乏しいかが伺えるシーンである。

  • ラストで熊徹が死亡したか否かは各観客の個人の解釈に委ねられていると言える。一応転生した際に熊徹の肉体は消滅してしまっている(若しくは変化した)ため、それを見て彼が死亡したと解釈しても間違いではないかもしれない。しかしその後九太と一体化して以降も彼の呼びかけにきちんと受け応えていることから、少なくとも精神的には死亡していないことは確かである。


関連イラスト

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