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高津臣吾の編集履歴

2024-05-03 13:00:14 バージョン

高津臣吾

たかつしんご

広島県出身の野球指導者・元プロ野球選手。現・東京ヤクルトスワローズ一軍監督。

経歴

1968年(昭和43年)11月25日生まれ、広島県広島市南区(※1)出身。

ポジションは投手。右投右打。サイドスローから放たれる鋭い変化のシンカーカーブが武器。


広島工業高校・亜細亜大学を経て、1990年(平成2年)オフのドラフト会議にてヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)から3位指名され入団した。

入団当時は先発投手として期待されていたが、野村克也監督のもと1993年(平成5年)より本格的に救援投手を任され、持ち球として習得したシンカーを武器にクローザーとして一時代を築いた。最優秀救援投手のタイトルは1994年(平成6年)、1999年(平成11年)、2001年(平成13年)、2003年(平成15年)の4回獲得。


2003年シーズン終了後MLB挑戦を表明、2004年(平成16年)はシカゴ・ホワイトソックス2005年(平成17年)途中以降はニューヨーク・メッツに在籍した。ホワイトソックス時代は通算27セーブを記録。

2006年(平成18年)シーズンより古巣・ヤクルトに復帰。2006年にNPB/MLB合計で通算300セーブを達成したが、翌年は怪我により戦線離脱となりオフに自由契約となった。

2008年(平成20年)シーズンは1月シカゴ・カブスとマイナー契約を結ぶも、結果を残せず3月に戦力外通告を受けた。同年6月韓国KBOリーグウリ・ヒーローズ(現・ネクセンヒーローズ)でプレー。18試合に登板し1勝0敗8セーブ・防御率0.86だったが、球団の経営戦略の関係でオフに退団となった。

2009年はサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結び、7月から傘下の3Aフレズノ・グリズリーズに合流。

2010年は台湾CPBL興農ブルズ(現・富邦ガーディアンズ)でプレー。40試合に登板し1勝2敗26セーブ・防御率1.88だったが、オフに退団。

その後日本へ戻り、独立リーグBCリーグ新潟アルビレックスBCへ入団。2012年(平成24年)シーズンは選手兼任監督として指揮を執った。同年現役引退。


野球解説者を経て2014年(平成26年)シーズンよりヤクルト球団に戻り、1軍投手コーチ2軍監督を歴任。2019年(令和元年)シーズン終了後、リーグ最下位に終わった責任を取って辞任した小川淳司(現ヤクルトGM)の後任として1軍監督に就任した。

監督就任1年目は最下位だったが、2年目の2021年(令和3年)からは選手に無理をさせない高津流マネジメント(先発・中継ぎ投手の「ゆとりローテ」運用など)が功を奏してリーグ優勝連覇を達成。2021年の日本シリーズではオリックス・バファローズを4勝2敗で破り、チームを20年ぶりの日本一に輝かせた。

なお、ヤクルトとオリックス及び高津とオリックス監督の中嶋聡が日本シリーズで対戦するのは、両者が現役時代の1995年(平成7年)の日本シリーズ以来である。(※2)

2022年(令和6年)には野球殿堂入りを果たし、その年もヤクルトはリーグ2連覇を達成。日本シリーズではパ・リーグ連覇を果たしたオリックスと2年連続で対戦するも、オリックスが前年の雪辱を晴らし日本一に輝いた。


※1:出生時はまだ広島市は政令指定都市に制定されていない。

※2:当時のチーム名は大阪近鉄バファローズとの合併前の為オリックス・ブルーウェーブ


人物

  • NPBでは通算286セーブ、MLBでは通算27セーブを記録。名球会入りしている。
  • 2022年(令和4年)に野球殿堂入り。日本の野球殿堂入りした選手としては、NPB・MLBだけでなくKBO・CPBLそして日本の独立リーグでもプレーした初の事例となった。
  • 亜細亜大学の同期に小池秀郎がいた。小池投手は抽選によりロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)からの1位指名となったが入団拒否。彼はヤクルト入りを熱望していただけに、自身がドラフト指名を受けた際複雑な表情を浮かべていた。
  • アフロヘアのカツラを被り、クリスタルキングムッシュ吉崎の物真似で「大都会」を熱唱するという持ちネタがある。
  • 本来は非常に陽気な人物で現役時代にはバラエティ番組等にも積極的に出演していたが、指導者(特に監督)になってからは威厳を保つ為かスポーツ番組を除くとメディアへの露出が減っている。但しヤクルトの公式YouTubeチャンネルではオフの時間に本来の陽気な高津の姿が映されていたりする。

背番号

背番号使用年所属チーム備考
221991年〜2003年ヤクルトスワローズ選手
102004年〜2005年シカゴ・ホワイトソックス選手
102005年ニューヨーク・メッツ選手
112006年東京ヤクルトスワローズ選手
222007年東京ヤクルトスワローズ選手
332008年ウリ・ヒーローズ選手
222010年興農ブルズ選手
222011年新潟アルビレックスBC選手
222012年新潟アルビレックスBC選手兼任監督
992014年〜2016年東京ヤクルトスワローズ1軍投手コーチ
992017年〜2019年東京ヤクルトスワローズ2軍監督
222020年〜東京ヤクルトスワローズ1軍監督

新潟アルビレックスBCでは、引退後背番号「22」は永久欠番に認定された。


エピソード

シンカー

高津の決め球であるシンカーは、元々決め球を持っていなかった彼に対し野村監督が習得するよう命じたものである。特に日本シリーズで対戦した西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の潮崎哲也のシンカーを研究するよう命じられ、高津は独学で習得した。

指導者になった後に後輩達に教えたものの、習得出来た者が誰もいなかったと古田敦也のYouTubeチャンネル『フルタの方程式』に出演した際に語っている。


古田敦也

野村監督は「選手はテレビに出て顔を売るべき」という考えであり、当時のヤクルトの選手達はオフに積極的にテレビ番組に出演していた。前述したムッシュ吉崎の物真似もその活動の一環である。

なお若手時代にヤクルトの正捕手だった古田と共にバラエティ番組に出演した際、古田は高津の事を「面白い奴」と事前に紹介していたが、高津は緊張のあまり司会の久本雅美に話題を振られてもうまく切り返す事ができなかった。

その様子を見ていた古田は休憩時間中に楽屋で「そのままなら二度とバラエティに出さへんぞ!」と巻き舌で激怒したと古田が語っている。


そんな古田との仲は非常に良好であり、プライベートで食事をする事は勿論のこと、高津が1軍監督就任後に非公式な場で春季キャンプの臨時コーチ就任を古田に打診し、以降古田は毎年臨時コーチとして参加している。また2023年(令和5年)の春季キャンプ中には高津が古田に『フルタの方程式』への出演を依頼し、黄金バッテリーによる対談やシンカー指南等が行われた。


松井秀喜

松井対高津

1993年5月2日東京ドームで行われた読売ジャイアンツ戦。この試合は松井秀喜が高津からプロ入り後公式戦初ホームランを放ち、高津もクローザー転向後初セーブを挙げた試合として知られている。

有名な話だがこの時高津が投げたストレートは野村監督の指示によるもので、松井の実力を測る為とストレートに未練がある高津に変化球で勝負する投手になるよう決心させる為だった。

また2004年4月9日ヤンキー・スタジアムで行われたシカゴ・ホワイトソックス対ニューヨーク・ヤンキース戦で高津がメジャー初登板した際の最初の打者が松井だった。この時も松井は高津のストレートを打ち抜きライトへのツーベースヒットを放っている。

2023年に高津が野球殿堂入りした際に松井がVTRで祝辞を述べているが、この時に「決め球となるシンカーだけは絶対に手を出さないように気を付けていた」と述べている。


代打高津

1996年(平成8年)7月21日に東京ドームで行われたサンヨーオールスターゲーム第二戦。9回ツーアウト、7対3で全パがリードする場面で全パの仰木彬監督はライトを守っていたイチローを投手に指名。対するバッターは松井だった。

愛工大名電時代に投手として甲子園に出場したパ・リーグのスーパースターイチローと、セ・リーグを代表する大砲松井の対決とあり場内は大いに盛り上がったが、全セの野村監督はここで高津を代打として送る。結果的には高津がショートゴロに倒れて試合終了となり、お祭りムードに水を差す形になってしまった。


実は野村監督は松井をバッターボックスに送る前にイチローと対戦するかどうかを松井に尋ねており、松井が「どちらでもいい」と答えた為代打として高津を送り込んだ。また試合後のインタビューでも「凡打になったら松井のプライドが傷つく。お祭りとはいえ仰木さん程の人が人の痛みも分からないようでは困る。」と仰木監督の采配を批判している。

この事についてスポーツジャーナリストの二宮清純は後年「イチローは(プロとしては)にわかピッチャーだから松井は打って当然、凡打なら何を言われるか分からないから松井にとって何一つ得は無い。お祭りでも真剣勝負の場と考える野村さんらしい采配」とコラムで述べている。


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