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石原莞爾の編集履歴

2013-04-17 03:04:06 バージョン

石原莞爾

いしわらかんじ

石原莞爾とは、日本の陸軍軍人。

明治22年1月18日~昭和24年8月15日日本陸軍軍人で最終階級は陸軍中将


 山形県出身。国柱会の熱心な会員で、法華経に傾倒。満州関東軍参謀となり、満洲事変を実行、成功し「五族協和」「王道楽土」のスローガンを掲げて満州国の建国を主導する。


 日本とアメリカの間で大量破壊兵器による世界最終決戦が行われ、それによって日米どちらかが世界統一を成し遂げる、という壮大な構想を描いた。一瞬にして都市が消滅する兵器が登場し、人類の人口も半分に減るかもしれない、といった発言は、後の核兵器出現と核戦争の危機を予言していた。ただし石原自身は、破滅的な世界戦争を法華経の原理に基づいた世界統一実現のチャンスと考えていたようである。


  • ”諸君のように大きな変化の時代に生まれた人は非常に幸福であります。この幸福を感謝せねばなりません。ヒットラーナポレオン以上になれる特別な機会に生まれたのです。”

 石原のこうした構想は戦時中に出版された『世界最終戦論』にまとめられた。二・二六事件の鎮圧にあたったが、後に東條英機と対立し、予備役に左遷された。予備役後、彼の行動は東条によって憲兵に逐一監視されていたという。


 満州事変当時石原の上官であった板垣征四郎は彼が認める数少ない人物で、二人は「作戦の石原、実行の板垣」と称されるほどの名コンビで事変を実行した。戦後、東京裁判でA級戦犯として死刑が確定した板垣に宛てて「(板垣)閣下は先に行っていて下さい。私も後を追って三途の川からあの世まで閣下のお供を致しましょう」といった内容の手紙を送っている。


 第二次世界大戦後の東京裁判では東條と対立していた点から戦犯に指定はされず、証人として呼ばれた。しかし、自ら満洲事変の首謀者であり戦犯に値すると主張した。また、証人として呼ばれた際、「人の話が聞きたいのならそっちから来い」というようなことを言って東京裁判酒田出張法廷を開かせたりもした。

 検事の一人が「日本の対外侵略は日清日露戦争に遡って問うべきだ」と主張したのに対し、石原は「そんなに時代を遡りたいなら、ペリーを呼んで来い」と反論。「かつて鎖国をしていた日本は対外領土など必要なく平和だったのに、ペリーが開国したせいで、列強から対して身を守るため国力を増強し、外国領土も必要になり、戦争もしなければならなかった。ペリーが開国しなければ戦争せずに済んだ。文句があるならペリーを呼んで来い!」と述べた。また「自分がこの戦争を指揮していたら日本は負けなかった」とも主張している。

 戦後は地元山形で農業をする傍ら、戦争によって世界統一を成し遂げるという自らの戦前の構想を自己批判しつつ日本国憲法9条の擁護やアジアの連携などによる平和的な世界統一を主張した。板垣刑死の8ヶ月後、後を追うように膀胱ガンで満60歳で没した。


人物

大日本帝国陸軍きっての奇人・変人であり、その偏屈ぶりを伺わせる逸話が多い。

  1. いつも薄着であり、冬でもよれよれの夏服を着ていた。
  2. 好きな科目の勉強しかしなかったが、成績はいつも一番であった。
  3. 酒をたしなまず、上官にも無愛想であった。飲酒を無理強いしてくる連隊長を怒鳴りつけた。
  4. 昭和19年には、石原の教え子二人が東條英機暗殺を企てる事件が起こっている。石原は東條暗殺に賛成であった。

創作作品においては

 その特殊な立居地から、太平洋戦争期を扱った創作作品では重要人物として登場することが多い。当時の軍内部では、特異な意見を持つ高級将校であり、日本人主人公たちの協力者として非常に都合がよい。東條英機など後の東京裁判で戦犯とされた者達と対立していたことなどもそういった立居地を強力にしているといえる。

関連タグ

日本史 昭和 軍事 軍人 日本軍 満州

ジパング 架空戦記 閃光のナイトレイド

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