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満州国

まんしゅうこく

満州(満洲、内満洲)及び南モンゴル(内蒙古)の一部を領土とした帝政国家。国号の正式表記は「大満洲國」。
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概要

満州国とは、現在の中華人民共和国遼寧省、吉林省、黒竜江省(東北三省または内満洲)、そして現内蒙古自治区(南モンゴル)北東部を領土とした国家。日本保護国

清朝最後の皇帝であり、「ラストエンペラー」として知られる
愛新覚羅溥儀が、最初で最後の皇帝を務めた国でもある。

中国から見れば、表向きは中華民国から独立した独立国であったが、実際には関東軍の謀略により作られた国で、日本の傀儡国家であった。現在の中華人民共和国では、このことを強調する意味で「偽満洲国」と呼ばれる。

満洲固有の民族(満洲族とモンゴル族)は、満州国成立当時には既に少数派であり、清代以降に入植してきた漢民族が多数を占めていたが、これに日本人(当時の呼称では内地人)と朝鮮人を加えた五民族の自治による「五族協和」を建前とした。しかし満州国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、法的な意味においては満州国民は存在しなかった。独立国は領土と国民、政府が揃って初めて存在するものだが、満州国は、最後まで国民が誰なのか不明、という奇妙な「国家」であった。

主要五民族のほか、白系ロシア人やユダヤ人も大勢居住していた。中国語官話方言が「満州語」と呼ばれ、モンゴル語、日本語、ロシア語と並んで公用語とされていた(満洲族の言語である「固有満州語」は公用語とされなかった)。

大量の移民を受け入れることが前提として、移民国家として成功したアメリカ合衆国をモデルにアジア初の多民族国家を建設するというのが公式の見解だったそうだが、共和制は採用されずに皇帝を国家元首とする立憲君主制が採用され、どちらかというと日本と似た政治体制が建設された。

pixiv内では主に皇帝・溥儀に関する絵につけられている。

満州国



国歌



満州国国歌(大満州帝国国歌)
歌詞

満語(中国語)
天地內有了新滿洲天地の中に新満洲あり
新滿洲便是新天地新満洲は即ち新天地である
頂天立地無苦無憂天を戴き地に立ちて、苦しみも憂いも無い
造成我國家ここに我が国家を立つ
只有親愛並無怨仇ただ親愛の心があるのみで、怨みは少しも無い
人民三千萬人民三千萬人民は三千万あり人民は三千万あり
縱加十倍也得自由もし十倍に増えても、自由を得るだろう
重仁義尚禮讓仁義を重んじ、礼儀を貴びて
使我身修我が身を修養しよう
家已齊國已治家庭はすでに整い、国家もすでに治まった
此外何求他に何を求めることがあろうか
近之則與世界同化近くにあっては、世界と同化し
遠之則與天地同流遠くにあっては、天地と同流しよう

歴史

 満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)は、
歴史上、おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域であった。
満洲国の建国以前に、女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清朝)がある。

 清朝滅亡(1912年)後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上、軍閥の支配下に置かれた。
昭和6年、柳条湖事件に端を発した満洲事変(満州事変)が勃発、関東軍大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。
関東軍の主導のもと、同地域は中華民国から離脱。
昭和7年、満洲国の建国に至る。
元首(執政、後に皇帝)には清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀が就いた。

満洲国は建国にあたって、自らを満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。

満洲国は建国に寄与した関東軍及び日本国の強い影響下にあり、日本国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。

当時の国際連盟加盟国の多くもまた満洲の地を狙っていたため、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする、中華民国の立場を支持して、日本政府を非難。
昭和8年に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。

しかし、ドイツイタリアタイ王国など、多くの日本の同盟国や友好国が満州国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束するにいたり、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで、安定した状態に置かれた。

だが、太平洋戦争末期の昭和20年8月9日、ソ連軍の侵攻を受け、次いで8月15日の日本降伏により崩壊。
満洲地域はソビエト連邦の支配下に置かれ、次いで中華民国の国民政府に返還された。
更にその後、国共内戦における国民政府の敗北により、現在は中華人民共和国の領土となっている。

現在この地域を統治している中華人民共和国は、同地域について「満洲」という呼称を避け、「東北」と呼称している。
日本においては通常、公の場では「中国東北部」、または注釈として「旧満州」という修飾と共に呼称する。

歴史詳細

前史

 日本満洲に対する関心は、江戸時代後期に既に現れていた。

経世家の佐藤信淵は、文政6年(西暦1823年)に著した『混同秘策』で、「凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き処より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満洲より取り易きはなし」と、満洲領有を説いた。

また、幕末の尊皇攘夷家、吉田松陰は『幽囚録』にて、「北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と、似た主張をしている。

日本帝国の生命線

20世紀初期の日本では、既に「外満州(沿海州など)」を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企画する帝政ロシアの南下政策が、国家安全保障上の最大の脅威とみなされていた。
明治33年、帝政ロシアは義和団の乱に乗じ満洲を占領、権益の独占を画策した。
これに対抗し、日本はアメリカ等と共に満洲の各国への開放を主張、さらに大英帝国と同盟を結んだ(日英同盟)。

日露両国は明治37年から翌年にかけ、日露戦争を満洲の地で戦い、日本は苦戦しながらも優位に展開を進め、戦勝国となる。
これにより、南樺太は日本に割譲され、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位を確保した他、遼東半島の租借権と、東清鉄道南部の経営権を獲得した。
その後、日本は当初の主張とは逆に、ロシアと共同して、満洲における権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていた、アメリカの反発を招くことになった。

この状況について、当時日本に在住していた、ポルトガル外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は、貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとっても、この地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」・・・との自身の予測を祖国の新聞に伝えている。

大正6年、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立。
日本はシベリア出兵を行い、満洲の北にあるロシア極東に内政干渉を行うが失敗。
共産主義の拡大に対する防衛基地として、満洲の重要性が高まり、満洲は日本の生命線と見なされるようになった。

昭和9年10月30日、岡田内閣は朝鮮人の移入によって、失業率の上昇や治安の悪化が進んでいる日本本土を守ろうと、朝鮮人が満洲に向かうよう、満洲国の経済開発を推し進めることを閣議決定している。

満洲における状況

満洲は清朝時代には、帝室の故郷として、漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって、直隷・山東から多くの移民が発生し、急速な漢化と開拓が進んでいた。

これに目をつけたのが清末の有力者・袁世凱である。
彼は満洲の自勢力化を目論むと共に、帝政ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。

しかし、この計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁世凱の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭。
張作霖は、袁世凱が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下、軍閥として独自の勢力を確立した。

満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持し、満洲に於ける日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張作霖の言動に苦しめられた。
さらに中国内地では、蒋介石率いる国民党が戦力をまとめあげ、南京から北上していた。
日本は、国民党の影響力が満洲に及ぶことを恐れた。 

満洲事変

昭和初期から、満洲を対ソ連戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって、長城以東の全満洲を国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。

昭和3年5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が、
国民党軍に敗れ、満洲へ撤退。
田中義一首相ら日本政府は、張作霖支持の方針を継続していたが、高級参謀河本大作ら、現場の関東軍は、日本の権益の阻害になると判断し、独自の判断で張作霖を殺害した(張作霖爆殺事件)。
関東軍は事件を隠蔽するものの、公然の事実となってしまい、張作霖の跡を継いだ一子、張学良は日本の侵略に抵抗する意を鮮明にして、日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。

このような状況を打開するため、関東軍は昭和6年9月18日、満洲事変を起こして満洲全土を占領する。
張学良は国民政府の指示により、まとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。

帝政下日本国内の問題として、昭和恐慌(昭和5年)や世界大恐慌を原因とする、不景気から抜け出せずにいる状況があった。
また、明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村・都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなかった。
明治20年代以後、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によって、
この問題の解消が図られていた。
ところが、大正13年に、アメリカで「排日移民法」が成立。
貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが、急務となっていたのである。

満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ、対外強硬路線を国民世論は強く支持し、これを政府は抑えることができなかった。

満州国建国

柳条湖事件発生から4日後の昭和6年9月22日、関東軍の満州国領有計画は、軍首脳部の反対で独立国家案へと変更された。
参謀本部は石原莞爾らに、「溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと」主張し、石原莞爾は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に、満蒙を独立国家とする解決策を出した。

現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、9月24日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には熙洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足させた。

昭和7年2月に、奉天(関東軍により遼寧より改称)・吉林・黒竜江省の要人が、関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。
2月16日、奉天に張景恵、臧式毅、熙洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。

2月18日に「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、中国国民党政府からの分離独立宣言を発する。

大同元年(昭和7年)3月1日、元首として清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を満洲国執政とし、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞を委員とする東北行政委員会が、満洲国の建国を宣言(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と改名された。
その後康徳元年(昭和9年)3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行(当初は改元に「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更)。
国務総理大臣(首相)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。

満洲国をめぐる国際関係、リットン調査団

 一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、国際連盟理事会はこの問題を討議し、西暦1931年12月に、イギリス人の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする、リットン調査団の派遣を決議した。
1932年3月から6月まで中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、10月2日に至って満洲事変を「日本による中国主権の侵害」と判断し、満洲に対する中華民国の主権を認める一方で、日本の満洲に於ける特殊権益を認め、満洲に中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む、日中新協定の締結を勧告する報告書を提出した。

9月15日に斎藤内閣のもとで、政府としても満洲国の独立を承認、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟に送り、満洲国建国の正当性を訴えたが、報告書は総会において42対1(反対は日本のみ)、棄権1(タイ王国)で適切であるとして採択される。
日本はこれを不服とし、昭和8年3月に国際連盟を脱退する。

西暦1935年、ソビエト連邦は満洲国内に保有する北満鉄路を満州国政府に売却。
なお、隣国かつ仮想敵国でもあったソビエト連邦は、報告書の採決に賛成したものの、
リットン調査団の満州北部の調査活動に対して、便宜を与えなかっただけでなく、建国後には満州国に対して事実的な国家承認を行うなど、満洲事変発生から建国後まで終始一定しない態度を取り続けた。

昭和16年4月13日、日ソ中立条約がソ連と日本の間で締結され、満州国とモンゴル人民共和国の領土保全と、相互不可侵を約束するとした共同声明が出された。

太平洋戦争

 太平洋戦争直前の昭和16年12月4日、日本の大本営政府連絡会議は、「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において、「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に、実質上敵性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止する一方、在満洲の連合国領事館(奉天に米英蘭、ハルビンに米英仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を実施させた。

このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、満洲国軍日本軍に協力して、南方や太平洋方面に進出するということも無かった。

日本国の敗色が濃くなった昭和19年に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)等、重要な工業基地が、連合軍、特にアメリカ軍のB29爆撃機の盛んな空襲を受けるようになった。
工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」たとしている(昭和19年年当時の稼動状況記録文書より)。
特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、昭和19年6月には、平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで低下。
「次の標的になるのでは」という従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招く事になった。

昭和20年

昭和20年2月11日にソビエト連邦・アメリカ・イギリスはヤルタ会談を開き、満州を中華民国へ編入、北満鉄道・南満州鉄道をソビエト・中華民国の共同管理とし、大連をソビエト連邦海軍の租借地とする見返りとして、ソビエト連邦が対日参戦することを、満州国政府に秘密裏に決定した。

昭和20年5月、同盟国のドイツ第三帝国が降伏。
日本はたった一国で、アメリカを筆頭とした連合国との戦いを続けることになった。
太平洋戦線では、前年のフィリピンに続き、3月には硫黄島、6月には沖縄が連合国の手に落ち、日本の敗戦は時間の問題となっていた。

ソビエト連邦侵攻

昭和20年6月、日本は終戦工作の一環として、満洲国の中立化を条件に、未だ日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦に対し、和平調停の斡旋を求めた。
だが、既にヤルタ会談において、連合国首脳により結ばれた秘密協定に基づき、ドイツ降伏から3ヶ月以内の対日参戦を決定していたソビエト連邦が、その提案を取り上げる筈も無かった。

8月8日、ソビエト連邦は昭和21年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄、日本に宣戦布告し、直後に対日参戦した。
この参戦の背景にはスパイのリヒャルト・ゾルゲから得ていた、関東軍特種演習の真意に関する情報もあった。

ソビエト連邦軍満洲国に対して、西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。

ソビエト連邦は参戦にあたり、日本政府に対しては、直前に駐ソ大使に対して宣戦を布告したが、満洲国に対しては、そもそも国家として承認していなかったことから、何の外交的通告も行わなかった。

また、満洲国は満洲国防衛法を発動し戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱等により、最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。

一方、満洲国を防衛する日本の関東軍は、日ソ中立条約をあてにしていた大本営により、昭和17年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかった。
兵力の数的な不足と同時に、精鋭部隊を失ったことによる戦闘力の弱体化、ソ連侵攻に対抗するための陣地防御の準備が不十分であったことなどにより、国境付近で多くの部隊が全滅し、侵攻に対抗できなかった。
そのため、関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者(主に将校の家族、関東軍の上級関係者たち)は、8月10日、いち早く莫大な資金を安全確保の「武器」として乗せた、憲兵の護衛つき特別列車で脱出した。

ソ連軍の侵攻で犠牲となったのが、主に満蒙開拓移民団員をはじめとする、日本人居留民たちであった。
通化への司令部移動の際に、民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から、民間人の大規模な移動は、「全軍的意図の(ソビエト連邦への)暴露」にあたること、更に邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果、彼らは置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。
その為に、ソビエト連邦軍の兵士による、数多くの殺傷・強姦・略奪事件が発生し、8月14日には葛根廟事件が引き起こされた。

また開拓団に恨みを持つ漢族による殺害事件もあり、多くの開拓者が南方へ避難した。
しかし脱出不能との判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼった。
中には、シベリアやモンゴル中央アジア等に連行・抑留された者もいる。
また、この混乱の中、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したり、はぐれたりし、現地の中国人に保護されたり、肉親自身が現地人に預けられるなどされ、その為に戦後も大陸に残された、「中国残留日本人孤児」が数多く発生した。

日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、本国への引き揚げ作業は遅れ、漸く昭和21年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。
その間多くの餓死者・凍死者・病死者を出したとされる。

満州国滅亡

皇帝溥儀をはじめとする、満州国の国家首脳達は、ソビエト連邦の進撃が進むと、新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県の大栗子に避難していたが、8月15日の「玉音放送」で、戦争と自らの帝国の終焉を知る事になった。

2日後の8月17日、国務総理の張景恵が主宰する重臣会議は、満洲国の廃止を決定、翌18日未明には、溥儀が大栗子の地で、退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した。
退位詔書は20日に公布する予定であったが、実施できなかった。

旧満州国政府は「治安維持委員会」に改組したが、8月24日にソビエト連邦軍の指示で解散された。
溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソビエト連邦軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由し、ソビエト連邦チタの収容施設に護送された。
その他、旧政府要人も8月31日に、一斉に逮捕された。

日本兵と日本人入植者 

戦闘終了後、ソビエト連邦軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除し捕虜とし、シベリア中央アジアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課した。
また、18歳から45歳までの民間人男性を、有無を言わさず逮捕・収用。
65万人以上の日本人が、極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされた。
このシベリア抑留によって、帰国できずに命を落とした者が、25万人以上出たといわれる。

一方、逃避行の果てに、ようやく日本へ帰り着いた、入植者を含む日本人(引揚者)もまた、
戦争で経済基盤が破壊された日本国内にあっては居住地もなく、さらに治安も悪化していたため、非常に苦しい生活を強いられた。
政府は引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で、引揚者らは後々まで困窮した。

昭和21年には、中華民国政府に協力した日本人数千名が、中国共産党に虐殺される「通化事件」が引き起こされている。

満州国滅亡後の統治の変遷

満洲はソビエト連邦軍の軍政下に入り、中華民国との中ソ友好同盟条約では、
3ヶ月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌1946年4月まで、ソビエト連邦軍の軍政が続いた。

ソビエト連邦軍は、東ヨーロッパの場合と同様に、工場地帯等から、持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪し、本国に持ち帰ったりした。
1946年5月にはソ連軍は完全に撤退、満州は蒋介石率いる中華民国に返還された。
だが、その頃から農村部を拠点とする「八路軍」による、中華民国軍へのゲリラ戦が活発化し、1948年秋の遼瀋戦役で、ソビエト連邦の全面的な支援を受けた、中国共産党人民解放軍が、都市部も含む満洲全域を制圧した。

中国共産党の指導者、毛沢東は、満洲国がこの地に残した、近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば、抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。

中華民国政府は、満州地域の行政区分を、満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北三省や熱河省に戻したが、その後、後ろ盾であったアメリカからの軍事支援が減った中華民国軍は、
ソビエト連邦からの支援を受け続けていた人民解放軍に敗北、中華民国政府は台湾に遷都した。

1949年に中国共産党中華人民共和国を成立させ、満洲国のあった地域に、新たに「内モンゴル自治区」を設置した。
後、満州国時代に教育を受けた多くのモンゴル人達は、内モンゴル人民革命党に関係するものとして粛清された(内モンゴル人民革命党粛清事件)。

現在

満洲国の消滅後は、満州族も数ある周辺少数民族のひとつと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国中華人民共和国両国内で排除されている(「満洲族」を「満族」と呼ぶ、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど)。
今日、満洲国の残像は、歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中にのみ存在する。

ただし、中華人民共和国による満州の領有と支配を認めない人たちで構成された、満州国臨時政府は存在する。主な活動の拠点は上海、香港、台湾、それと日本。
建国記念日である9月28日には満州国旗を掲げて行進が行われ、建国に尽力した日本軍人に礼をするため靖国神社に参拝する
彼らの主張によると、満州国は23の独立主権国家によって承認された正当な国家だそうである。
その中に日本とドイツ第三帝国が含まれているのは当然だが、逆に強国が植民地支配をするのが当然だった時代、この2国は満州国成立当時は世界を動かせるほどの有力国家でもあった。
ちなみにこの23か国中、正式に満州国の承認を撤回した国家は皆無である(国体を維持したまま降伏したイタリアタイフィンランドを含む)。
でも台湾政府って満州の領有権主張してるんだけどいいのかな。

日本の影響力

 当時複数の国が満洲国を国家として承認していたものの、日本の敗戦とそれに続く極東国際軍事裁判を経て、満洲国は日本の軍事行動により建国され、建国後の国家体制も日本の強い影響下にあったことから、満洲帝国は大日本帝国の傀儡国家であるとする認識が、現在においては一般的である。
実際公務員の約半分が日本人で、高官になるほどその比率が高くなるというありさまだったが、決してほかの民族が高官になる例は少ないが皆無ではなかった。そのため日本人が圧倒的優位に立つ植民国家とされる一方で、五族協和の建前がある程度は効力を発揮していたという評価もある。

中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満」「偽満州国」と表記する。

国名

大同元年(1932年)3月1日の満洲国佈告により、国号は「滿洲國」と定められている。

日本では太平洋戦争後、当用漢字字体表(昭和24年4月28日内閣告示)に従い「満洲国」と表記されるが、「洲」が当用漢字表(昭和21年11月16日内閣告示)に含まれていないため、文部科学省検定済教科書など教育用図書では同音の漢字による書きかえに基づき、音が同じで字体の似た「州」に書き換え「満州国」と表記する。

この国号は、康徳元年(1934年)3月1日、溥儀が皇帝として即位しても変更されなかった。
ただし、同日施行された組織法第1条に「満洲帝国ハ皇帝之ヲ統治ス」(「政府公報日訳」による)とあるのをはじめとして、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用されるようになった。

康徳元年(1934年)4月6日の外交部佈告第5号により、帝政実施後の英称は正称が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称が「Manchoukuo」または 「The Manchou Empire」と定められている。

満州の語源として、後金時代に「五行思想」に基づき、火である明王朝を継承する、水王朝である清王朝を構成する民族名として、女真、蒙古、漢族の統合の象徴として「さんずい」で構成される「満洲」が選ばれた経緯もあり、少なくとも、文化的に満州を使用する場合は、「満洲」と記載されるべきとする立場もある。

満州国の元号

大同【ダー・ほう】(1932年3月1日-1934年2月28日)
康徳【カントー】(1934年3月1日-1945年8月18日)

関連タグ

地域:満州/満洲
国家:満州国軍/満洲国/偽満州国
皇室:愛新覚羅/満州国皇帝
企業:南満州鉄道/満鉄
事変:満洲事変満州事変

関連国(近代以前):(明.または大明)/(清朝)
関連国(近代以後):日本(大日本帝国)/中華民国/中華人民共和国/ソビエト連邦

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