2001年のドラフト会議で読売ジャイアンツから寺原隼人の外れ1巡目で指名され入団。
1年目はシーズン序盤からイースタン・リーグで好投し、対日本ハムファイターズ戦では相手のバットを8本折り、「あんなえげつないスライダー(またはシュート)は初めてだ」と言われた[1]。後半戦は一軍の先発ローテーションに定着し、6勝3敗の成績を残し優勝に貢献。シュートを持ち球にしていること、死球を恐れない度胸と投球術を絶賛された。ドラフト制導入後に高卒1年目で6勝以上を挙げたのは球団史上堀内恒夫以来36年ぶりだった。
翌年はプロ初完投なども記録したが先発としては精彩を欠き、開幕以降1ヶ月以上勝てなかった。その後シュートを見込まれリリーフに回るがリリーフ陣が崩壊状態だったため、リード時の中継ぎ、抑えのみならず、ビハインド時にも登板した。監督の原辰徳には「入団当初の球が戻ってきた」と評価されたが、連投の負担から右肩痛を発症すると7月26日に登録抹消され、以降このシーズンの登板はなかった。