コンスル
こんする
CONSVL
ローマ共和国(S.P.Q.R)の最高権力職、共和体制下ローマでの最高職。
統領と訳すことが多い。任期は最初から変わらず定員2名で任期1年で更新された。コンスルが2名必要なのは片方のコンスルが独裁者にならないようにチェックを絶えず行うためだといわれる。コンスルはローマ元首相当の最高職だが実際に共和国の中央政界に影響を及ぼすのは、セナトス(元老院)の終身議員身分の元老議員とされた。ローマ国政府(ローマ帝国政府)は軍司令官インペラートルとして最前線指揮をして、片方がローマ共和国2人の政治活動をトリブルス(護民監)が監視をしているような形で発展してきた。
コミティア(共和国民会)の一つである兵員会で選ばれる、初代のコンスルはM.U.ブルータス。
共和体制の当初では、コンスルはパトリキ(上流層・貴族)のみに限られていたが、前367年以降プレブス階級からもコンスル職に就くことが法により可能となった。コミテア(民会)で選ばれるコンスルは絶えず共和国セナトス(元老院)と協議しながらローマを統治した。
コンスルのやる事は「ローマ軍司令官(インペラトル)として前線までおもむく事」と、「ローマ共和国の政治を主導する事」だった。
コンスルの権限はローマ都市共和国のみの範囲だったが、ローマ共和国が他のギリシアの植民市(コロニー)イタリア全土を掌握するとイタリア全土、帝国主主義的侵略を広めた時期に入るとヨーロッパ地域、アフリカ地域、アナトリア地域(トルコ)などが次第にコンスルと共和国セナトス(元老院)の統治範囲に入っていった。
ここまでくるとコンスルの権限を分担したプロコンスル(総督)が占領地域の統治を任せるようになったが、弾圧的統治に加え担当監の私利私欲によって政治が行われるようになった。
市民軍によって構成されていたローマ軍も、広大な地域を回りきる事は不可能に近くなった。総督の人気取りのために軍兵による略奪も目立ちはじめた、結局のところ古代の兵士はローマほどの規律を誇る場合でも獣にちかい残虐さを持つ、このような『鞘の収まらない粗暴』は近代以前の騎士・武士階層の人間に顕著だと思う。占領地域の統治が不十分になってきてもコンスルの政治決定は共和国セナトス(元老院)が既得権益守るためが前提の政策ばかりを行い、ローマ共和国は機能不全に陥った。
その後、コンスルの政治や元老院を改革するためにグラックス兄弟、G.マリウス、スラ、キケロ、ポンペイウス、G.J.カエサル、アントニウスが登場し最終的にカエサルの養子G.J.C.オクタビヤヌスが、ローマ世界の権力闘争を平定し彼が実質単独の第一人者として(ローマ元首・ローマ帝)がローマ共和国とローマ世界の支柱となった独裁的ローマ共和国に変貌したが、建前共和主義や国号(元老院とローマ市民の共和国連邦)や役職が変わっている訳ではないのが非常に曖昧なところである。
第一人者IMP.C.FI.DVDI.アウグストゥス(G.J.C.オクタビヤヌス)がしたことは、既存のコンスル職2名制度は削除しなかったが彼自身もコンスル権限のみを保有した、しかも彼のコンスル権限は1年更新でまた彼のところに戻ってくるので実質終身のコンスルであった。
結局2名のコンスル+アウグストゥスのローマ元首の構図が現れたが徐々にコンスルであるアウグストスがほか2名のコンスルの権限を監督するようになり、実質コンスル2名は形骸化した。しかし元首政治成立後も建前では『最高政務職』なので、第一人者(ローマ帝)と政務を分担するなどということが行われていたようだ。会議中の書記(幹事)のような立ち回りをしていた可能性が高い。
元首独裁成立後の混乱、五賢帝の時代の超安定時代政治の運営、軍人による元首簒奪合戦時代の政治のローマ中央政界の臨時的主導職、など一応は重要な役職ではあった。しかし四頭政治とよばれる戒厳令による元首と軍部主導の格式ガチガチな乱暴な独裁政治が始まると。共和国セナトスやコンスル(執政監)そして元老議員主が事実上無用になった。
キリスト教がローマ神話に変わり『架空の世界設定』の新機軸として導入され、『ローマ元首』から『ローマ皇帝』に感覚的には変貌した。帝都移転が行われローマから新帝都コンスタンチープルにも元老院が置かれ、コンスルが置かれたが。ここではもはやローマ皇帝を頂点として爵位の一部のような扱われ方をしていた。ここらへんからキリスト教を支柱とした独裁皇帝的ローマ共和国に変貌し、バチカンやコンスタンチノープルの司教が皇帝と政治決定を行うようになり中世ヨーロッパ世界が始まるが、建前共和主義や国号(元老院とローマ市民の共和国連邦)や役職が変わっている訳ではないのが非常に曖昧なところである。