新選組諸士調役兼監察。
文久3年末頃、新撰組に入隊、元治元年頃から隊士の動向調査や情報探索の任につく。非常に有能であり、入隊後数ヶ月で上役を任され後に隊内では異例の諸士調役・監察を掛け持ちするようになる。
禁門の変や第一次長州征討、第二次長州征討などの重要な戦いでも戦況の推移や状況報告に能力を発揮し、近藤勇や会津藩に正確な情報をもたらした。
慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いの最中、重傷を負う。1月13日江戸へ撤退の際、富士山丸の船上で死亡、紀州沖で水葬されたとされているが、一説では鳥羽・伏見の戦いで銃で撃たれ死亡したともいわれ、陸上で埋葬された可能性もあるなど、その死ははっきりとせず謎に包まれている。