戦略爆撃思想と核戦略論
そもそも、核兵器とは何だろう。
19世紀末にキュリー夫妻によりラジウムが発見され、世界が鉱石に秘められた「莫大な、しかし見えないエネルギー」の存在に気づかされた。1930年代には核分裂が発見され、これを兵器に転用できないかどうか検討されるようになった。
というのも、当時のドイツではナチ党が政権を取り、戦争の影が急速に近づきつつあったからである。ヨーロッパ各地に分散していた科学者たちはナチスの手を逃れ、こぞってアメリカへと渡っていった。そして、そんな科学者たちがアメリカで進める(少なくとも日本人にとっては)悪魔のごとき計画、それが『マンハッタン計画』であった。
議員や将軍の誰一人知らぬ間に莫大な予算が組まれ、多くの研究所を動員した。しかしドイツ降伏には間に合わず、完成した核兵器は結局日本に向けられた。ご存じの通り、人口密集地に投入された核兵器は20万人以上を死に至らしめ、その後も様々な意味で不信を残すことになった。いちおう、アメリカ人は「これで結果的に失われたであろう、双方百万にもなる人命を救うことができたのだ。日本人にとってもマシだったのではないか」とは主張しているようだが、年寄り女子供にまで焼夷弾やら機銃掃射やらで殺しておいて今さらナニを抜かす、散々殺しておいて今さら人類愛とか寝言言ってんのか、である。(ただし、重慶爆撃もあったのでそう他人のことも言えない。一応ハシリではある)
では、なぜわざわざ人口密集地を選んだのか。
それが「戦略爆撃理論」であった。
この理論により、戦争は戦場の軍隊よりも後方の人口密集地を目標にするようになり、戦争はムダに拡大し、ムダに死傷者を積み上げ、ムダに長期化することになった。予測される犠牲により戦争を防ぐと思われた思想は、実際の戦争に突入したことにより、むしろ戦争を拡大する思想になってしまったのだった。
核兵器と戦略爆撃理論。
この2つの組み合わせは、来たるべき戦争を勃発即皆殺しの全面核戦争を予想させるようになった。核兵器を使われたら「デッドエンド」。では自分は死なず、相手だけ皆殺しにするにはどうすればいいか。こうして核戦略は生まれていった。
東西冷戦と大量報復戦略
1953年、朝鮮戦争が停戦となった。
米ソは共に局地戦どころでは済まない、来たるべき軍事衝突を見据えて軍事力拡大と戦争抑止のシーソーゲームに突入していく頃のこと。