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A-5

えーご

1950年代にノースアメリカンで開発された超音速核攻撃機。マッハ2で敵防空網を突破すべく技術の最先端を結集し、のちの世代にも通じる先進的かつ野心的な設計が試みられている。だが代償として汎用性は低く、そのうえ艦上機としては常識はずれの大型機であったため、戦略核攻撃任務がICBMやSLBMに交替された後は偵察機に転換されたが、使い勝手の悪さから速やかに退役させられた。愛称は「ビジランティ(自警団員)」。
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戦略爆撃思想と核戦略論

「核兵器」の発見

そもそも、核兵器とは何だろう。
19世紀末にキュリー夫妻によりラジウムが発見され、世界が鉱石に秘められた「莫大な、しかし見えないエネルギー」の存在に気づかされた。さらに1930年代には核分裂が発見され、アメリカやドイツ、日本でもこの莫大なエネルギー放出をを兵器に転用できないかどうか検討されるようになったことに始める。

というのも、当時のドイツではナチ党が政権を取り、戦争の影が急速に近づきつつあったのだ。画期的な新兵器を貪欲に求めたナチスドイツが、この新兵器を求めたのは当然であり、ヨーロッパ各地に分散していた科学者たちを取り込んでいった。その一方ではナチスの手の及ばないアメリカへも渡り、そんな科学者たちがアメリカで進める(少なくとも日本人にとっては)悪魔のごとき計画、それが『マンハッタン計画』であった。

議員や将軍の誰一人知らぬ間に莫大な予算が組まれ、多くの研究所を動員した。しかしドイツ降伏には間に合わず、完成した核兵器は結局日本に向けられた。ご存じの通り、人口密集地に投入された核兵器は20万人以上を死に至らしめ、その後も様々な意味で不信を残すことになった。いちおう、アメリカ人は「これで結果的に失われたであろう、双方百万にもなる人命を救うことができたのだ。日本人にとってもマシだったのではないか」とは主張しているようだが、年寄り女子供にまで焼夷弾やら機銃掃射やらで殺しておいて今さらナニを抜かす、散々殺しておいて今さら人類愛とか寝言言ってんのか、である。(ただし、重慶爆撃もあったのでそう他人のことも言えない。一応ハシリではある)

戦略爆撃理論と核兵器

では、なぜわざわざ人口密集地を選んだのか。それが「戦略爆撃理論」であった。
本来は、戦線後方を目標にすることによって国民一人ひとりに「目標」であるとの自覚を与え、それによって恐怖を煽って戦争忌避を目指す理論であった。
平時ならばコレで良かったのだろうが、実際に戦争が始まると『とにかく人口密集地を攻撃して人間をたくさん殺す』という部分以外は速やかに忘れ去られた。

核兵器:威力がスゴい
戦略爆撃理論:とりあえずいっぱい殺す

この2つの組み合わせで戦争の「殺戮数スコアアタック」化がますます進行してしまった。
そして1949年、ソビエトも核開発に成功したことにより、核兵器は撃つだけでなく、撃たれる可能性も出てきた。もはや核兵器を使われたら誰も彼も「デッドエンド」。では自分は死なず、相手だけ皆殺しにするにはどうすればいいか。こうして核兵器の使いどころを探る「核戦略」は生まれていった。

50年代の核兵器

とはいえ当初の核兵器は、現代のそれとは大分と様相が違っていた。
まず、核兵器はとかく複雑・大型で、運搬は大型の爆撃機に限定された。ミサイルも無いではなかったが、初期のミサイルは小さく、核兵器など無理な相談だった。

ゆえに大型爆撃機開発は核兵器に直結して進められ、航空機開発技術に優れたアメリカではB-52のような機を開発した。こうなると都合が悪いのはソビエトだった。大型機開発ではアメリカに水をあけられており、開発競争が本格化すれば追いつけなくなる事も考えられた。

そこでソビエトはナチスドイツの科学者を多く取り込んだことを生かし、ロケット技術によって代用することを思いついた。米ソとも、競争が本格化するのは後のことだったが、とにかく50年代は「核攻撃=爆撃機から核爆弾を落とす」という図式であった。そんな訳で、当時のアメリカの核戦略『大量報復戦略』とは、当時まだ圧倒的だった核戦力をタテに、どんな軍事衝突が起ころうと、常に最大限の核攻撃をもって対抗する(用意を見せる)ことで、そもそもソビエト側が軍事行動を起こす気をなくそうとさせたものだった。
A-5開発時の核戦争の想定は、まさしく敵都市に対する絨毯爆撃の延長に過ぎなかったのである。

もっと速く・もっと高く・もっと強くin海軍

そんな訳でA-5(当時はA3J)に求められた性能は、まだ重かった核爆弾の搭載能力とマッハ2以上の巡行能力だった。艦載機の核搭載はA3Dが可能としていたが、なにせF-100のような超音速戦闘機が出回り始めたご時世である。最大980km/hという速度性能では振り切って突破することは不可能だった。

1954年、ノースアメリカンでは超音速攻撃機の研究を行っていたが、それが海軍の目に留まり、A-3の後を継ぐ艦載核攻撃機として採用されることになった。採用は1956年だが、その時点では既に開発に取り掛かっていたこともあり、1958年には初飛行を遂げている。

自(宅)警備団員

その後1960年には実戦仕様機が発注され、1961年に訓練部隊が編成、翌年には実戦部隊への配備が始まった。が、発注した矢先にU-2撃墜事件が起こり、成層圏も安全でないことが明らかになってしまった。

つまり、せっかく完成したA-5が全く実戦にそぐわない事が解ってしまった訳で、一応それからも配備そのものは予定どおり進められたものの、配備はわずかな部隊に限られた。その証拠に、1962年からは偵察機に再設計・改造したRA-5Cが発注されるようになっており、艦載核攻撃機としては暗い未来しか予想できなくなってしまうのだった。

核戦略の変遷

それというのも、ソビエト側も核兵器を配備するようになった事で「どんな軍事衝突にも、最大限の核攻撃で対処する」という『大量報復戦略』が通用しなくなってしまった事が大きい。確かに、核兵器での応酬が確実ならば、正面切っての大戦争はしにくくなる。

しかし、当時アジアやアフリカで頻発していた地域紛争のような場合はどうか。
当然、これら小国も米ソのような大国の影響を受けていないわけではない。むしろ米ソとも自陣営の勢力拡大に取り組んだせいで、頻発している位だった。だが、米ソとも核兵器を持つに至り、お互い大量報復戦略をとってしまった訳だから、おちおち小国の紛争に介入することもできない。

そこで次なる戦略は『柔軟反応戦略』となった。
この戦略では、地域紛争などの規模に応じ、その激烈度に見合った戦力しか投入しないというものである。ケネディ政権のマクナマラ長官が体系化し、そうすると今度は攻撃の「精度(正確さ)」が重要視されるようになった。同じ戦力しか投入できないのなら、より少ない戦力で確実に戦闘力を奪った方が勝てるじゃないか。

これを可能にしたのは、兵器がますます精度を上げていたことにあった。
ICBMはCEP(半数必中界)を上げ、例えばCGM-16E「アトラス」(1961年配備)が3700mだったのに対し、LGM-30A/B「ミニットマンI」(1962年配備)では150mにまで高まっている。こうなれば強固に防備されたミサイル基地でも不安があり、逃げも隠れもできない地上基地への配備は戦略ミサイル原潜へと切り替わっていくことになる。

エージェント夜を往く(偵察専門)

A-5は1964年には核攻撃の任を解かれるようになり、艦載核攻撃機としてはたった2年でその生涯を終えた。その早さたるや、なんとF7Uよりも短い。戦略核攻撃はそれからICBMに任される事とされ、以降は偵察機として使われることになった。60年代初頭でマッハ2を可能にする機は未だ限られていたからだった。

ノースアメリカンは偵察機へ改造するにあたって、やはり空力には心を砕いた。
偵察機材は機体中心線上に小さく突き出した「カヌー」と呼ばれるフェアリングに収められ、元々備わっていた爆撃航法装置と組み合わせて様々な機材を搭載した。垂直・斜め向きの各種カメラはもちろん、赤外線センサーや側方監視レーダーによる連続監視データも収拾でき、消極式電子情報集積機によるオトリ収拾にも対応していた。

実際にはすべてを同時に搭載できる訳ではないが、これでも同時期の偵察機に比べれば精度に勝り、また装備が充実していたので有効な情報収集ができた。

また、前述のようにRA-5Cは偵察機といえども爆撃装備は残してあり、実際にICBMSLBMに任務を交替しても、暫くの間は核攻撃が指令されても良いように用意を残していた。しかし、A-5は野心的な設計が祟ってトラブルも多く(それもよりによって爆弾投下関連に)、67年には完全に核攻撃任務を離れる事になった。

ベトナム戦争に「柔軟に対応」した結果

『故に兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久なるを賭ざるなり。夫れ兵久しくて国利するは未だ之有らざるなり。故に用兵の害を知り尽くさざる者は、則ち用兵の利を知るを尽くすこと能わざるなり』
『故に兵は勝ちを貴び、久しきを貴ばず。故に兵を知るの将は、民の司命、国家安危の主なり』
「戦争が国家経済をいかに圧迫するか、それをよくよく考えてみれば、長期戦は絶対に避けなければなりません(解説)」
・角川ソフィア文庫 ビギナーズクラシックス 中国の古典「孫子・三十六計」湯浅邦弘より

そういった意味では、ベトナム戦争はまったく失敗した戦争であった。
いくら「核戦争への発展を防ぐため」とは言えども、結局は無計画に戦力を小出しにし付け、およそ10年も戦争を続けてしかも勝てなかったアメリカは、アポロ計画も相まって当時『世界の富の半分を独占する』とまで言われた財物を、すっかり浪費してしまった。

その後は米ソとも同等の核戦力を持ったことで、相互破壊確証(MAD)という状態に移行し、また核弾頭の小型化がさらに進んで1発のミサイルに複数の弾頭を装着できるようになり、多目標同時攻撃が可能になった。こうなると、少々の核ミサイルを発射前に潰したとて核攻撃を防ぐことはできず、核戦争に勝者はありえないという結果がますます現実味を増していった。「理性」が多少なりとも残っているうちは、おたがい核攻撃できなくなってしまったのだった。

どんなときも万全に応えられる

もっと高めて果て無く

このA-5「ビジランティ」は、世代でいえば第2世代ジェット戦闘機の頃であるにも関わらず、数々の先見の明によって非常に洗練された設計となっている。

たとえば高速飛行に備え、空気抵抗を最小とするため、機体には余計な凹凸が一切なく、非常に滑らかになっていることが挙げられる。機体表面に突き出したアンテナの類は一切見えず、なんと衝突防止灯まで完全に機内に引き込まれる仕組みになっているのだ。

あなただけが使えるテクニック(=リニア爆弾倉)で

そんな中で、一番の看板になった機構が「リニア爆弾倉」である。

これは核爆弾を機内に収容し、空気抵抗を抑えるためのもので、搭載された2基のJ79ターボジェットエンジン間に設けられたトンネルに、前から核爆弾・燃料タンク1・燃料タンク2(燃料タンクの容量はともに295米ガロン)を数珠つなぎにして搭載している。当然、搭載燃料はこの2つ分だけではなく、他にも搭載しているから帰投にも支障はない。

そして、実際にはこの爆弾倉がよく問題を起こした。
「思ったように落ちない」だの「思ってもいない時に落ちた」だの、調子がイマイチだったようで、さらに専用に開発された爆撃コンピュータも故障が多かったという。

派生型

A-5A

最初の生産型で、主翼ハードポイントは2か所。リニア爆弾倉にMk.27熱核爆弾を装備する。

A-5B

続くRA-5Cのための実験台になった機。
機体上面に燃料タンクを追加して、主翼ハードポイントを4ヵ所に増設。

RA-5C

マッハ2の最大速力を生かした高性能偵察機で、機外に設置されたカヌー状収容部に各種偵察機材を収めている。引き続き核攻撃も可能で、こちらはMk.43熱核爆弾を搭載する。

「使いで」の無さは既に指摘されており、申し訳程度に通常兵装にも対応しているが、結局は偵察以外には使われなかった。リニア爆弾倉も故障続きで頼りにならず、結局は空気抵抗増大覚悟で主翼ハードポイントに熱核爆弾を搭載することが考えられていた。

空中給油機

A-5Aはリニア爆弾倉に燃料タンクを満載し、空中給油機として運用することも出来た。本来は攻撃機型に随伴し、途中で燃料を補給するためだった。もちろん、核攻撃任務から外された後も空母飛行隊全体のための空中給油機にできないか試行されたが、A-5は燃費が悪いために非効率と判定された。

ノットビジー・ビジランティ

しかし、このように革新的な機構を取り入れたA-5であったが、核戦略の変遷は大きかった。
無用になった超音速核攻撃機は偵察機へ改造されて、1979年まで部隊運用が続いたが、交替したハズのA-3は1991年まで運用された。

こうした違いは機体の汎用性の差、つまり「使い勝手の良さ」「潰しの利きやすさ」であり、こうした部分ではA-5は分が悪かった。その上、空母の飛行甲板では大きすぎるせいで常時出しっぱなしにされ、1967年の空母「フォレスタル」の火災事故では、それだけで搭載機の半分が失われてしまうことになった。

性能が良くても、空母ではジャマにも程がある偵察機と、能力イマイチでもジャマにならない偵察機。どちらが良いかといえば、そりゃもうジャマにならない方だった。かくして艦隊の偵察機はRF-8に引き継がれ、ここでも本当の約に立たないA-5はお払い箱行きだった。

いくら性能が良くても、軍の都合により本領を発揮できなくなった航空機。
そんな機はいくらでもいるが、この機の場合「審判の日」に熱核爆弾で都市空襲することが目的だったのだから、果たして発揮できなくて正解だったのだろう。

参考文献:文林道 世界の傑作機 No.112「A-5 ビジランティ」

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