第一の失敗作
1945年1月。
アルデンヌ攻勢で一度は危機に陥ったヨーロッパ戦線も無事に持ち直し、太平洋でもグアム・サイパンといった拠点を抑え、硫黄島も占領して日本本土空襲が順調に進むようになった頃のこと。ジェット戦闘機そのものは、アメリカ海軍も1944年中には各メーカーへ開発を指示したものの、当時出来上がったものは完成度が低くて、実戦ではとても使い物にならないようなものばかりだった。
ボート社でもこの時F6U「パイレート」を完成させていたが、テストの結果『まるで使い物にならない』として生産もわずかな数に留まった。生産機も空母甲板装備の開発で使われた他、予備役航空隊でごく短期間運用されたのちに破棄された。中には解体されるまでに6時間しか飛行していない機もあったという。ジェット化は達成したものの、肝心の性能が悪いのではどうしようもなく、不採用を言い渡されてしまう。
そして結局、海軍初のジェット艦上戦闘機はF9Fが勝ち取ってしまった。
F6Uの評価は散々なもので、かつて海軍主力に採用され、太平洋や大西洋を無尽に荒らしまわったF4Uを生み出したボート社の威信にかけても、このまま負けたままでは終われなかった。
設計図番号:V-346
1945年、次に海軍は国内各メーカーに向けて「高速艦上戦闘機」の開発を指示。要件は『高度12000mで時速970km/hを発揮すること』であった。こうしてボート社でもF7U開発が始まった。F6Uの反省、それは新たな動力源にこれまでのような常識は通用しないということ。そこで、大戦終結後にメッサーシュミット社で押収した数々の研究資料も参考に開発を進め、当時最先端の設計で挑んだ。
一番の特徴は尾翼を持たないことで、当然これは左右一対の尾翼(&補強)分だけ軽量化できる。また空気抵抗も抑えられるため、空力が良くなって高性能を狙えるようになる事も見逃せない。さらに1940年代としては珍しく、機体制御に油圧を取り入れた点も珍しいところである。
こうした数々の先進性も審査の上で有利に働いたようで、V-346は見事採用を勝ち取り、配備されることになった。
根性なしの少尉絶滅機
機体設計には、ヴァルデマー・フォークト博士によるメッサーシュミットP.1110及びP.1112を参考にし、さらに独自研究を足した。先に挙げた2機種は無尾翼ではなかったが、同じくメッサーシュミットにはMe163のような無尾翼もあったから、こちらも参考にしたかもしれない。そして、これに「軍用機界の本田技研」に例えてもいいようなボート社の頭脳集団が関わったのである。タダの戦闘機が出来る筈がない。
F7Uは奇妙な姿だったが、これは飛行性能を最大限引き出すべく導き出された姿でもあったのだ。
実際に先駆けて主力になったF9Fと比較すると、同条件でも最大速度は150km/hも良くなっており、上昇能力では約3倍に向上していた。これだけだったら良かったのだが・・・
機体
空力を良くし、エンジンの効率を高めるため胴体は短くまとめられた。
コクピットは胴体先端に設けられたが、この配置は離発着時の視界の悪さを予め盛り込んだためでもある。主翼にはテーパーが無く、翼端から補助翼兼用のフラップがびっしリ配置されている。しかし、これでも空母運用を考えれば低速での揚力が不足するとして、極端な機首上げ姿勢で離着艦することで補った。このため前脚はかなり長くなり、もちろん視界は悪くなった。
低速での安定が悪く、視界も悪くて操縦しにくい欠点は、最後まで付きまとった。
エンジン
F7U-1に搭載されたウェスティングハウスJ34エンジンは、最大約15KNを発揮し、アフターバーナーも焚くと約22KNまで向上する。しかしこのエンジンは、年ごとに発展著しかった当時において既に時代遅れになりかけていた。補器ならともかく、主機とするには少々貧弱に過ぎたのである。
テストパイロットからは『ウチのトースターよりも貧弱』と言われる始末であり、雨が降るとフレームアウトする事例もあった。このためJ34を搭載する本格生産型F7U-2はすべて発注取りやめにされた上、F7U-3ではエンジンをJ46(J34の拡大設計版)に替えた上でようやく生産される事になった。
そして、こちらのエンジンは予定通りの出力を出せなかった。
一応は動くJ34と違って、J46はどうしようもない失敗作であり、とくにアフターバーナーは機構的にも信頼性が低かった。つくづくF7Uはエンジンに恵まれなかったのだった。
参考までに、F9FではP&W製J42(ロールスロイス「ニーン」のライセンス生産)を搭載していたが、こちらはアフターバーナーを実装しなくても約28KNを出せた。3年も後に開発されたくせに、J34は反則(アフターバーナー)を使わないと並ぶことも出来ない非力なのだった。ちなみに、F7UもJ42搭載が考えられなかった訳でもない様だが、あの胴体ではどう頑張っても収まりようが無かった。
テスト開始
原型機(サンプル品)XF7U-1は1946年6月25日に発注され、1948年9月29日に初飛行した。続いて2機が制作され、揃ってテストに供されたが、程なく全てが事故で全損した。原型機に引き続いてF7U-1の製造が始まっていたが、テストはこれら初期生産機で続けていかねばならなかった。
そして、途中からJ34エンジンの出力不足はやはり危険として、エンジンをJ46に改めたF7U-3が開発されることになった。
初期生産機でテスト継続
実はそう珍しい訳でもなく、冷戦期には開発を早めるため、原型機・試作機に初期生産機まで動員する場合もあった。たとえばF-14もテスト項目を分担して早く戦力化するため、試作機・増加試作機(=初期生産機と同様)を墜落機の補充も含めて13機も投入している。
生まれ変わって、ない!
こうしてエンジンをパワーアップし、装備を整えてすっかり実戦仕様となったF7U-3が完成した。
しかしこのエンジンは前述通りの失敗作で、離着陸はエンジン独特のクセ・無尾翼によくある低速での揚力不足により、かなりの困難となった。
F7U-3は実戦用装備追加のおかげで重量が増し、離着陸ではさらに極端な機首上げ姿勢(25度)を強いられたことも大きい。そのせいで、いくら機首寄りコクピットでも前が見えなくなってしまい、立って操縦するという曲芸まがいを強いられたり、しかもエンジンのクセにより、とっさの立て直しが困難な状態でどうにか安定させなければならなかったりと、なんとも飛行士泣かせの戦闘機になってしまった。さらに前脚も軽量化のために細く、上手く着艦するためにはかなりの習熟を必要とされた。
こうして多くの皺寄せが離着陸に集中し、全般的には全海軍機中で最高の事故率を記録するという憂き目を見ることになった。F7Uの3割は事故で失われたといわれ、中には着艦ミスで複数人を巻き込んだ死亡事故になったこともある。『未亡人製造機』の汚名に甘んじるのも、無理ないところなのだ。こうした研究の未熟からくる安全性の低さは、初期ジェット戦闘機には珍しい事でもなかったが(⇒F-104)、特に安全性が求められる艦上戦闘機にしては致命的と判定されたのであった。
派生型
XF7U-1
3機製造された最初の試作機。
テスト開始後、間もなくすべてが事故で失われた。
F7U-1
続いて14機が製造された初期生産機。
試作機からテストを引き継いだ。
基本的には試作機に近いが、パワー不足もアダとなってやはり事故多発。
F7U-2
F7U-1から発展した生産型。
J34ではパワー不足なので、生産前に計画中止。
F7U-3
エンジンをJ46に改め、アフターバーナーにも対応した。
しかし、こちらはこちらで本来のパワーがまるで出ておらず、実戦用装備で重量化したこともあって、操縦にはますます厳しい操作を要求された。
武装は機首からエアインテイク上部に移設した20mm機銃AN-M3(4挺)に加え、後部胴体にMk.4(Mk.40)FFAR「マイティ・マウス」、主翼に増槽や爆弾など2.5tを装備可能。
152機製造。
F7U-3M
型番末尾のMはミサイルの意。
レーダーFCSを換装し、AAM-N-2「スパロー」を運用できるようになった。
98機製造。
F7U-3P
型番末尾のPはフォトグラフィー(写真)の意。
カメラ搭載のため機首を延長したもの。20mm機銃も夜間照明用40mmフラッシュグレネードランチャーに換装されている。
12機製造されたが不採用。
A2U-1
型番から察するに、F7Uの襲撃機型。
おそらくは空母艦載機として不適なF7Uを、今度は海兵隊向けの支援用機として提案したのだろう。(海兵隊なら陸上基地から運用するので、離着陸性能は空母艦載機ほどの問題にはなりにくい)
確かに搭載力もそこそこあったのだが、朝鮮戦争停戦後に計画は中止され、したがって完成機はない。計画では50機製造、または250機製造される予定であったとも。
ノット・ソーバッド・カットラス
しかし、どこまでもエンジンに足を引っ張られ続けたF7Uであったが、飛行性能は本物であった。
最高速度ではF9F(約970km/h)を大きく引き離し、150km/hも早い1120km/hを記録していたのである。巡行速度でも約770km/hだったのが約910km/hに向上しており、搭載力も約1tが2.5tにまでなっていた。
ロール率にも優れており、テストパイロットも飛行性能に限っては賛辞を惜しんでいない。
しかも、出力面でハズレなエンジンを搭載していて、なお優れていたのである。これは機体の設計そのものは優れていたという訳で、そこはボート社の設計陣を評価すべきだろう。もし、もっと優れたエンジンがあれば、評価は全く変わっていただろう。F7Uはほんの些細な行き違いで、まったくの不名誉に塗れてしまったのである。
しかし海軍軍部やボート社は、F7Uに早々に見切りをつけ、さらなる新型機を設計する。それが後世にも名高い本当の傑作機になるのだが、もしも思い出すのなら、その陰で重要な教訓となった名機(=迷機?)のことも、どうか忘れないで欲しいものである。
50年代は、奇抜な機が日々ゴロゴロと生まれていた時期でもあった。
ほとんどは「どうしようもない凡作」だの「褒めるところのない失敗作」であり、生まれては即忘れ去られていった。そんな中、性能では一際光るものがあったF7Uは幸せな方であった。後の貢献を思えば、F7Uは失敗作でも、(次作のためのダメ出しを一挙に引き受けたという意味で)成功作だった面があるとも考えられただろう。
事故ばかりの「未亡人製造機」でも、たとえ短期間でも一線を張ったという事実は、やはり冷戦あっての事だった。技術は日々進化し続け、高性能化も留まるところがなく、今年の新技術も来年には陳腐化するご時世だった。たとえ危険でも実戦化を急ぎ、研究をさらに進めて後れを取らない努力は、相当のものだったのである。
そんな「未亡人製造機」の生産数は、おおよそ250機である。
現在、これも高い事故率で知られる現役機の生産数が337機であることを考えると、F7Uはやはり控えめな生産数だったのだろう。
参考
世界の傑作機(No.132)「チャンスヴォート F7U カットラス」