円谷英二の孫(円谷皐の息子)で、円谷プロダクション第4、8代目社長。
玉川大学文学部卒業後、1983年、円谷プロダクションに新卒入社。営業課長、営業部長をへて、1995年、円谷皐の死を受けて社長。2003年円谷昌弘に社長を譲り会長に昇進する。
主に平成ウルトラマンの製作や監修を務めたほか、東映のシュシュトリアンとのコラボも実現させた。
しかし円谷プロ以外での仕事を経験せず、父円谷皐から子飼いの役員を受け継いだ結果、ワンマン経営者となりはててしまったという。
[円谷プロダクション]]の項にも書かれている通り、円谷英二氏がもともと経営者ではなく、特撮技術を世に広めた技術者だったということもあり、円谷プロは設立当初から、予算・経営の先行き等を考えず、採算を度外視した制作費で完成度の高い作品を作ろうとする傾向があった、円谷家の人間は経営力が皆無、収支を管理する人間やそれに耳を傾ける経営者がいなかったのである。
初期は著作権管理すらしっかりしていなかった(そのため、ウルトラマンを露骨にネタにしたような漫画が製作されたり、後にタイのチャイヨー・プロダクションと訴訟沙汰に発展してしまうことに繋がった)が、キャラクタービジネスの重要性を理解した70年代に入ってからは採算を度外視した制作費で高いクオリティの特撮映像を作り、玩具売り上げやソフト売り上げでその元をとるという超強引な手法で乗り切ってきた。しかし、特撮番組において制作費を回収するのに必要不可欠な商業を軽蔑し、力をほとんど入れなかった。
しかし従弟の円谷英明が社長を務めていた当時の2004年の『ウルトラマンネクサス』をはじめとする「ULTRA N PROJECT」の大コケによって、史上かつてない大ダメージを被ったことで、事態は急展開を迎える。
視聴率の伸び悩んでいた『ネクサス』は1クール短縮(事実上の打ち切り)が決定する。しかし、この一件が引き金となって、かねてから様々な火種を抱えていた一夫と英明との関係が悪化。
元々大株主でもあったが経営にタッチできないことに不満をもっていた一夫は、番組制作の責任者として打ち切りを主導していた英明に対して表向きは同意しつつも本心ではそれを望んでいなかったことから全ての作業が終わってから態度を豹変させ、近しい人物に「打ち切りは本意ではなかった」と洩らすなど不満を強め、遂にはクーデターを決行。『ネクサス』放送中の2005年4月、英明は「役員会を軽視し、権力独占を画策した」として突如社長職を解任されたお家騒動にまで発展した。
「国民的ヒーローのウルトラマンなら予算オーバーも仕方がない」「金字塔を打ち立てたウルトラマンなのだから困窮してもなんとかなる」といった甘い考えが一族とイエスマン達に浸透しすぎて採算度外視に疑いを持たなかった結果、制作費を回収するために不可欠な商業的側面を軽視しすぎたこと、失敗した場合のことを充分考えなかったため本当の失敗時に対処できずそれまでのツケをまとめて払わねばならなくなった…という面も大きいだろう。
英明の解任後、東宝から派遣された大山茂樹を周囲の取り巻きらとともに解任へと追いやり、まんまと8代目社長(7代目会長と兼任)へと返り咲くも、そのころは円谷プロも赤字が膨れ上がって限界を迎えて子会社化してしまい、結果円谷一族は買収の条件として追放へと追いやられた。
唯一残った彼は名誉会長という名ばかりの職へと祭り上げられ社長と会長の座を追われたが、その名誉会長職も2009年に退任。公の場から姿を消した。
これにより、円谷プロダクションから円谷一族は一掃されることとなった。