清朝のメンツの意地
道光帝
どうこうてい
乾隆47年8月10日(1782年9月16日) - 道光30年1月14日(1850年2月25日)
在位:1820年10月3日 - 1850年2月25日)
- 中国清朝の第8代皇帝。諱ははじめ綿寧(めんねい)、即位後に旻寧(びんねい)と改めた。廟号は宣宗(せんそう)。在世時の元号の道光を取って道光帝と呼ばれる。
webより
概要
- 彼の治世は嘉慶帝とともに動乱の時代として認知されるが、以外にも先帝ほど反乱を起こされておらず、国内の戦乱はそれほど大きなものもなかった。
- 逆にアヘンの蔓延が深刻で、帝室にまで及ぶ始末であり、彼が幾ら取り締まりの強化を命じても役人は私服を肥やすばかりで対処が散漫であった。
- 彼が崩御する年に南方で「太平天国の乱」が発生しており、これは彼の指示・および統制が全国にまで行き届かなかった事を意味するだろう。
- 彼の時代までが皇帝権力の絶頂期であり、絶大な権威・権力をいまだ維持していた。
- 嘉慶帝下皇太子時代に、紫禁城内に侵入した天理教徒を殲滅している
帝のアヘンへの対処 林則徐の活躍
- アヘンの輸入を認めて関税を得たほうが良い"と述べた官僚を一喝、麻薬の中毒性をよく理解し「それだけでは効果が薄い、根絶せねば」として林則徐に麻薬取締りを一任、一定の効果を挙げる。
イギリス艦隊北京に現る 林則徐の解任
- 取り締まりを知った大英帝国は現地のイギリス商人を支援するために派遣されたイギリスの東洋艦隊は、広東ではなく北京に近い天津に現れた。
- 間近に艦隊を迎えた清の上層部は狼狽し、慌てて林則徐を解任し、イギリスの意を迎えることに必死になった。林則徐の後任の琦善はひたすらイギリスに低姿勢で臨み、結果清が大幅に譲歩した南京条約を結ぶ事になった
道光帝の能力
- 彼の行動は、目の前の物事の解決法を探る事には長けていたが、その結果起こりうる"弊害"を正しく認知できていなかったと言える。
- 財政難である事実を認識、竜泉峪に建てられた自らの陵墓は「大きすぎる」として小さな規模に留めさせている。
- 一方でアヘン戦争では終始後手に回り、北京に軍艦が来ていない時は態度を硬化させて現場指揮官の埼善を悩ませている。また、冊封体制の瓦解である事を認識できず、相次いで列強と条約を締結させてしまう。この結果、清の対外的な影響力が低下し頼りない皇帝と見た国内の民衆が再び相次いで戦火を広げる事になるのである。
- 死の直前まで政務を行っていたと言われる、動乱の時代を共に生き抜いた官僚・側近たちへの感謝の念を忘れず、言葉に表すことで彼らの心を掴んでいる。
- 後継者選定も能力よりも臣民に優しい人物を優先して選んだとされ、彼が日々臣下に対してどのように接していたかが判るであろう。