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弩爾哈赤の編集履歴

2012/01/25 12:27:50 版

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弩爾哈赤

ぬるはーちまたはぬるはち

太祖皇帝 清朝の皇祖とされる 后金国汗(君主) 愛親覚羅弩爾哈赤 ゲンギェン・ハン クンドゥレン・ハーン

弩爾哈赤ヌルハチ(天命帝)

世没:1559 - 1626

中国後金の創始者 清の初代皇帝とされる。

  • 称号
満洲語ゲンギェン・ハン
モンゴル語クンドゥレン・ハーン

漢語表記

の文献童奴兒哈赤あるいは佟奴兒哈赤
朝鮮の文献老乙可赤あるいは奴兒哈赤
の文献弩爾哈齊あるいは弩爾哈奇
  • 明の文献では童奴兒哈赤あるいは佟奴兒哈赤、朝鮮の文献では老乙可赤あるいは奴兒哈赤、清の文献では弩爾哈齊あるいは弩爾哈奇と記載されている。

職掌

職掌
王朝后金
在位期間 1616年2月17日 - 1626年9月30日
姓・諱愛新覚羅・弩爾哈赤
諡号高皇帝
廟号太祖
生年1559年2月21日(嘉靖38年正月5日)
没年1626年9月30日(天命11年8月11日)
タクシ
顕祖宣皇后
皇后孝慈高皇后
陵墓福陵
年号天命:1616年 - 1626年

タクシ(塔克世)の子ヌルハチの祖父と父が、李成梁に従って戦ったが、明軍に誤殺された。そのため建州左衛都指揮使を継いだ。李成梁のはからいで明の左都督・龍虎将軍となる、

海西女真の内紛により力をつけ、万暦十七年(1589)には建州女真五部を統一した海西女真のハダ部・ホイファ部・ウラ部を次々と征服した。

万暦四十四年(1616)、ヘトゥアラハーン位に就き、国号を大金とした(後金、アイシン・グルン) サルフの戦いで明軍に大勝 海西女真最強のイェヘ部も平定。

天命六年(1621)には瀋陽・遼陽を落とし、天命十年(1625)には瀋陽に遷都して盛京と改名。寧遠を攻撃して明の将軍の袁崇煥のために敗退し、そのとき受けた砲弾による負傷がもとで死去

女真族の大首長

満州族の愛新覚羅氏出身。

生まれについては諸説あり、はっきりとは不明である。

ヌルハチが生まれた頃の女真族は建州女真五部・海西女真四部・野人女真四部に分かれて、互いに激しく抗争していた。これを利用して明は朝貢の権利を分散させることで飛びぬけて力の強い部族を出さないようにしていた。具体的な方法としては、建州・海西女真の有力者300名に対して勅書を渡していた。

ヌルハチが生まれたときには土木の変でのエセン・ハーン侵攻にあたって勅書が無資格者の手に渡るなど混乱した上期待していた防壁代わりに全くならなかった反省から建州1000通海西女真500通をそれぞれの首長に一括して渡すようになり若干の権力集中が行われるような政策に転換している。

しかしその反面、明も放っておけないほど武力抗争が激しくなっていた。

明の遼東司令官李成梁は、明が制御できるほどの大きな勢力を一つ作り、その後ろ盾になることで女真を治めようとした。これに選ばれたのが建州女真の中のヌルハチである。李成梁の思惑は上手く行き、ヌルハチは女真の中の大勢力となり、1589年(万暦十七年)には建州女真五部を統一した。

李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えたが、これに気を良くしたのか、ヌルハチの統御を怠っていた。

ヌルハチの急激な台頭に危機感を抱いた海西女真は結束してヌルハチに領土割譲を求めたが、ヌルハチはこれをはねつけた。この頃からヌルハチは自らの勢力を満州と呼び始めたとされる。

1593年(万暦二十一年)、ヌルハチ率いる満州軍は海西女真を中心とした九部族連合軍と激突し、完勝した。この戦いはグレの戦いと呼ばれる。これにより、女真の諸部族はヌルハチに従うものが多くなり、明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けた。なお、李成梁はこの2年前に汚職を弾劾され、更迭されている。

明朝が豊臣秀吉による文禄・慶長の役への対応に忙殺されていたこともあり、明による介入は少なかった。そこを衝いて1599年にヌルハチは、敵対した海西女真のハダ部を滅ぼした。

この前年に秀吉軍が撤兵したこともあり、明はようやくヌルハチに危機感を抱き始め、海西女真のイェヘ部の後押しをすることでヌルハチに対抗しようとした。

后金の建国後

1616年(万暦四十四年)、ヌルハチは本拠地ヘトゥアラ(赫図阿拉)でハーン(可汗)の地位に就き、国号を金、元号を天命とした。

前後してヌルハチは女真の民族名を文殊菩薩にちなんだ満州(manju, 満洲)に改め、エルデニ(額爾德尼)と噶盖に命じてモンゴル文字を改良した満州文字(無圏点文字)を定めた。

八旗制という軍事組織を創始した。このことで、満州人が勢力を拡大する基盤が固められた。

1618年(天命三年)、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には、明がイェヘに加担して満州を攻撃すること、祖父と父が明に誤殺されたことなどが書かれている。

明.イェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と号する兵を満州討伐に送り出し、翌年撫順近くのサルフ(薩爾滸)において、10万を号する満州軍と激突した(なお、「号して」とした場合、およそ実数は半分といわれる)。

数の上では満州の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できたことと、戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることができたことなどが幸いし、大勝した(サルフの戦い)。

サルフで明軍に大打撃を与えたヌルハチは、後ろ盾を失ったイェヘを吸収し、完全に女真を統一した。

1621年(天命六年)、勢いに乗ったヌルハチは瀋陽遼陽を相次いで陥落させ、遼陽、次いで瀋陽(盛京)に遷都した。この段階で、後金の勢力圏は遼河の東方全域に及んでいた。

1626年(天命十一年)、連戦連勝のヌルハチは明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとした。

ところがその手前の寧遠城(現在の興城県城)に、将軍袁崇煥がポルトガル製の紅夷大砲を大量に並べて満州軍を迎え撃った。

紅夷大砲の威力に満州軍は散々に討ち減らされ退却した。清の記録ではこの敗北の数日後にヌルハチは病死したとされるが大砲で傷を負いこれが原因で死去したとも推測されている。

遺体は瀋陽の東の郊外の福陵に葬られた。

ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、死後に紛糾したが、第8子ホンタイジ(皇太極)が後を継ぐことになった。

ヌルハチはあくまで明からの独立を目指しただけで、明を征服しようと思ったことはなかったと言われる。後継者を定めなかったのも、それまでの部族合議体制を維持しようとしたことの現われとも見られる。

享年67

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