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マシュー・ペリーの編集履歴

2012-06-21 21:42:36 バージョン

マシュー・ペリー

ましゅーぺりー

ましゅー・ぺりーとは

日本来航まで

ロードアイランド州ニューポートでアメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラの間に三男として生まれる。兄はクリストファー・レイモンド・ペリー、オリバー・ハザード・ペリー。1809年に自身も海軍に入り、1812年からの米英戦争に2人の兄とともに参加する。1833年にブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年にアメリカ海軍2隻目の蒸気フリゲートフルトン号を建造し、同年海軍大佐に昇進した。1840年6月には同海軍工廠の司令官となり、代将の地位を得る。1845年に米墨戦争が勃発すると、後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副指令として参加、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮1]、後には本国艦隊の司令官に昇進した。

蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父とたたえられた。また海軍教育の先駆者とされている。

日本開国任務

詳細は「黒船来航」を参照

1852年11月に東インド艦隊司令長官に就任、日本開国の指令2](ただし発砲は禁止された)を与えられた。同年11月、フィルモア大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はカナリア諸島・ケープタウン・シンガポール・香港・上海・琉球(沖縄)・小笠原諸島を経由した。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀に入港した。7月14日(6月9日)、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄・井戸弘道に大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。

太平天国の乱がおこり、米国での極東事情が変化するなか、1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り条約締結を求め、3月31日(3月3日)に神奈川で日米和親条約を調印した(詳しくは黒船来航参照)。またその後、那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。

晩年

帰国した後は遠征記などを記す。晩年は鬘を着用していた。1858年3月4日ニューヨークで死去、63歳だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にある。

人物 編集]
奴隷の帰国事業に尽力し、リベリアでは有名である。
大変家族思いで、子どもたちが兄弟喧嘩をしないよう強く戒める手紙を書き残している。
水兵や海兵隊員、他の士官たちからペリーの威張った態度、挨拶や合図の声が熊のように大声で聞こえるので「熊おやじ」(Old Bruin)と隠れてあだ名されていた3]。
ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画をウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に提出していた。そこでは、以下の様に述べている4]。 任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう。」
オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。


遺産
ペリー上陸の地である神奈川県横須賀市久里浜の「ペリー公園」には「上陸記念碑」と「ペリー記念館」が建てられている。
浦賀来航の際に幕府に旗を2本贈っているが、旗の種類及び贈った目的は不明であり真偽も不明(白旗だったのではないかと考えられている)。ペリーの交渉態度が高圧的かつ恫喝的と見られたせいか、砲艦外交と呼ばれる。




伝来した機関車模型:嘉永年間渡来蒸気車
幕府へ電信機と模型機関車を献上した。 4分の1の大きさの蒸気機関車の模型は、円形のレールの上を実際に走らせ、人々を驚かせた5]。同模型は、1872年(明治5年)に工部少輔の山尾庸三が京都博覧会で展示するため、正院に払い下げを求め、調査の結果、幕府海軍所が保存していた時代に火災によって失われたことが判ったという6]。
電線を1km程引き、公開実験をおこなった。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。針金を通して一瞬にして言葉を送る機械に、当時の人たちは大変驚いた。このエンボッシングモールス電信機は逓信総合博物館に伝わる。