ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
道光帝の編集履歴2013/12/12 13:14:17 版
編集内容:微調整します。

道光帝

どうこうてい

清朝八代の皇帝 宣統帝の大叔父に当たる。 アヘン戦争で大英帝国に敗北した上、太平天国の反乱軍にも敗北した。 在位 1820年 - 1850〈68歳〉

生死:1782年9月16日 - 1850年2月25日〈68歳〉

在位:1820年10月3日 - 1850年2月25日〈30年〉

中国清朝の第8代皇帝。諱ははじめ綿寧、と改めた。廟号は宣宗(せんそう)。在世時の元号の道光を取って道光帝と呼ばれる。彼の治世は嘉慶帝とともに動乱の時代として認知される。

アヘンとの戦い

アヘン中毒の蔓延が深刻で清朝帝室にまで及ぶ始末であり、紫禁城政府が幾ら取り締まりの強化を命じても役人は私服を肥やすばかりで対処が散漫であり、アヘン中毒は紫禁城の高級官僚・皇族の間にも蔓延しており。〈アヘンの輸入を認めて関税を得たほうが良い〉と述べた枢機大臣(軍機処大臣)を処罰。道光帝自身は麻薬の中毒性をよく理解しとして林則徐に麻薬取締りを一任、一定の効果を挙げる。取り締まりを知った大英帝国は現地のイギリス商人を支援するために派遣されたイギリスの東洋艦隊は、広東ではなく北京に近い天津に現れた。間近に艦隊を迎えた紫禁城政府は狼狽し慌てて林則徐を解任し、イギリスの意を迎えることに必死になった。林則徐の後任の琦善はひたすらイギリスに低姿勢で臨み結果清が大幅に譲歩した南京条約を結ぶ事になった。

大変天国国の乱

清朝のイギリス帝国への屈辱的対応や、政治の腐敗による行政の劣化は。洪秀全一派による「太平天国」の建国につながり、軍機処の命を受けた八旗緑営軍が鎮圧に赴く。しかし八旗緑営軍が太平天国軍に敗北する事態となってしまった。これにより紫禁城政府は混乱、ひどい解決法を実践した。皇帝がイギリス帝国軍にお願いをして清・イギリス連合軍として防戦を展開、なんとか太平天国を鎮圧するが。中世の軍備と変わらない清朝の軍団ももはや使い物にならないことが国内外に知れ渡り、諸外国を圧迫をさらに許す結果となった。

道光帝の肖像画にも残るように道光帝の風貌や顔は痩せ衰えてしまっていて。帝国の困難を如実に表していることの比喩にもなった。

後々アヘンが強大な清朝を滅ぼしたということが。人々の記憶に残った。その結果中華人民共和国では薬物罪については極刑で臨んでいる。

関連タグ

清朝 愛新覚羅

宣統帝・・・道光帝の家系の子孫。最期の皇帝。

キリスト教・・・太平天国の上帝洪秀全は国境をキリスト教と定めた。(彼独自のキリスト教)

(七代皇帝)嘉慶帝← →咸豊帝 (九代皇帝)

関連記事

道光帝の編集履歴2013/12/12 13:14:17 版
編集内容:微調整します。
道光帝の編集履歴2013/12/12 13:14:17 版