ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

目次 [非表示]

概要

ウラジーミル・イリイチ・レーニン(ロシア語:Владимир Ильич Ленин、英語:Vladimir Lenin、本名:ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ、Владимир Ильич Ульянов、1870年4月22日 – 1924年1月21日)は、ソビエト連邦の政治家、革命家。「レーニン」は「(シベリアの)レナ川の人」を意味するペンネームであり、優れた演説でロシア国内の革命勢力を纏め上げ、1917年11月に発生したロシア革命で主導的な役割を果たした。同月にソビエト・ロシアを成立させ、1924年1月に死去するまで最高指導者であった。


一方で科学的社会主義理論の研究と普及に尽力し、『帝国主義論』・『国家と革命』などの著作は大きな影響力を持った。後日レーニンの思想はスターリン一派の主導により、マルクス・レーニン主義という体系に纏められた一方で、共産主義が腐敗する基礎を作った人物である。大衆が消費財の不足で貧困に喘いでいる中でも、自分を含めた最高幹部の別荘地への鉄道の開通を命じさせる・愛人に便宜を図ったりと、お世辞にも公明正大とは言えない行いをしていたとされる。


スターリンの粛清が形式的にでも裁判は執行していたのに対し、レーニンは「富農を少なくとも100人を大衆の目の前で絞首刑にしろ。」・「教会の財産没収に反対する聖職者とブルジョワの銃殺者は多ければ多いほど良い。」という発言からも分かる通り、ざっくりとした人数を裁判も無しに殺害していた。レーニン自身は機密文書・暗号で指示しているのみで、公には粛清を行っていない素振りを見せつつ、秘密警察の『チェーカー』(後のKGB)に生殺与奪の権限を与え、部下の独断専行という形を取って大量虐殺を可能としていた。


歴史

1870年4月22日にロシア帝国のシンビルスクにて、学者の功績によって貴族待遇となった家庭に誕生した。幼少時代は神童の誉れが高く、中高等学校時代には全ての生徒の中で1番だったと言われる。1887年5月に兄が皇帝の暗殺を計画したとして処刑され、その後はカール・マルクスの思想に触れて研究を開始し、サンクトペテルブルク大学に入学した後は法律・語学を学ぶ。


1893年8月にサンクトペテルブルクに移り、そこで弁護士の助手として勤務してマルクス主義革命組織の上級職に昇進した。1895年12月に扇動罪で逮捕され、1897年2月にシベリアのシュシェンスコエに3年間追放されて亡命した後は西ヨーロッパに移り、そこでマルクス主義のロシア社会民主労働党の著名な理論家となった。1903年7月に社会民主労働党のイデオロギーの分裂において重要な役割を果たし、ジュリアス・マルトフが率いるメンシェヴィキに対抗するボリシェヴィキ派を率いた。1905年1月に日露戦争での苦戦を背景に発生したロシア第1革命が失敗に終わった後、第1次世界大戦が勃発すると、これをヨーロッパ全土のプロレタリア革命に変えるように行動した。


1917年に大戦の苦戦によって支持を失ったニコライ2世が退位に追い詰められ帝政が崩壊すると(ロシア第2革命、2月革命とも)レーニンは帰国。更に帝政崩壊後に成立した臨時政府が混乱する事態を収拾出来ない中、レーニン率いるボリシェヴィキ派は武装蜂起し政権を奪取した(ロシア第3革命、10月革命とも。単にロシア革命と呼ばれる事も多い)。同年11月にレーニンは最高指導者となり、1918年3月までに新たな共産党に権力を集中させた。ドイツはじめとする中央同盟国に領土を譲歩する条約に署名して第1次世界大戦から撤退し、共産主義インターナショナルを通じて世界革命を推進したが(ドイツ等で革命が起きれば割譲した領土も回復できるという思惑があった)、こちらは期待通りには進まなかった。革命直後から旧帝政支持派や反ボリシェヴィキ諸派、これを支持する諸外国軍などからなる「白軍」との内戦が勃発するもレーニン率いる「赤軍」は人口や工業の集中地を抑えていた上、厳格で統一した軍の指揮と規律を有していたため、数年かけて概ね勝利をおさめた。レーニン政権は農民に土地を再分配し、銀行と大規模な産業を国有化した。1921年2月に新経済政策を通じて経済成長を奨励し、1922年12月にロシア・ウクライナ・ザカフカース(グルジア・アルメニア・アゼルバイジャン)・白ロシア(ベラルーシ)で構成されるソビエト連邦を成立させた。1922年からレーニンは脳卒中の発作を断続的に起こすなど著しく健康を害するようになり、徐々に党内での影響力を失っていった。1924年1月24日にゴーリキーで死去し、ヨシフ・スターリンがソ連政府の傑出した人物(=権力争いの勝者)として後を継いだ。


1991年12月にソ連が崩壊するまで、レーニンはソ連国内に蔓延した個人崇拝の対象となった。マルクス・レーニン主義の背後にあるイデオロギーの代表者となり、ソ連に対する顕著な影響力を持った。非常に意見の分かれる歴史上の人物であるレーニンは、彼の支持者たちからは普遍的な読み書きの能力と医療・女性の平等の権利を制度化した進歩的な政策を持つ社会主義と労働者階級の擁護者と見做されている。一方でレーニンを批判する人々は、レーニンが大量殺人と政治的弾圧を監督する全体主義の独裁政権を樹立したと非難している。


思想など

レーニンの思想に関しては一部はマルクスに影響されているものの、初期の著作を取り入れていないので違う点が存在する。主に以下のものが有名である。

  • 国家独占資本主義

独占資本主義が更に一歩進み、資本主義経済の矛盾が顕在化しだす。そこで国家・政府が積極的に経済に介入するようになるという考え方で、マルクス経済学に取り入れられている。

  • 二段階革命論

完全な資本主義として成立していない国において、まずそれまでのシステムで、例えば絶対君主制・封建制度を革命などによって廃止させ、資本主義を浸透させてから社会主義革命を行うという考え方。

  • 左翼小児病・極左冒険主義

これらは政党に関して述べたものであるが、「左翼小児病」は「共産主義勢力内部で、他の社会民主主義勢力などとの一切の協力を拒否する姿勢」を指し、「極左冒険主義」は「客観的情勢を無視して目的を優先し、無謀な主張・行動を行う勢力」を指す。

  • 革命的祖国敗北主義

革命は祖国の混乱時に行うべきであるが、戦争の敗北は絶好の機会となる。その為戦争への協力を拒否し、その混乱や弱体化に乗じて革命で政権を掌握させるべきとした考え。ただしこの考えは弾圧の原因となるのでかなり危険なものである。また「闘争には多くの犠牲が必要であり、自己を犠牲にしてでも「革命的敗北」を貫徹しなければならない。」という革命的敗北主義(別名:捨て石理論)とは別の考えであり、それは極左冒険主義である。後にスターリンは彼の理論などを統合し、マルクス・レーニン主義を提唱した。


家族

1898年7月にナデジダ・クルプスカヤと結婚し、ジョン・オレストフ司祭は地元の教会で結婚式の秘跡を執行した。シュシェンスコエ村の教会登録簿の記載は、行政から追放された正教会のウリヤノフとクルプスカヤが初めて結婚した事を証言している。前述のように後にレーニンは愛人をつくるも、レーニン自身の子供はいなかった。8人いたレーニンの兄弟姉妹もほとんど子供を残さず、弟で医学者のドミトリーのみ子供がおり、子孫が続いている。


作品など

【イラスト】

Vladimir Lenin


関連タグ

ロシア帝国 ソ連 ロシア帝国

トロツキー 次→スターリン

赤いpixiv


参照

ウィキペディア:ウラジーミル・レーニン

関連記事

親記事

ソ連時代の著名人一覧 それんじだいのちょめいじんいちらん

子記事

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 50857

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました