概要
正史『三国志』によると、劉備・孫権の連合軍(実質の主力は孫権軍)が赤壁の戦いで曹操に勝利すると、劉備は劉琦を荊州刺史にすると献帝に上表。荊州南部の4郡に攻め込み、武陵太守・金旋、長沙太守・韓玄、桂陽太守・趙範、零陵太守・劉度を次々に降伏させた。また、黄忠は曹操によって、一時韓玄の配下となっていた。
陳寿の言及はこれだけで、裴松之注でも『三輔決録』注に、金旋が劉備に攻め殺されたこと、金禕が息子であること、先祖は匈奴から前漢に帰化した金日磾であること。『趙雲別伝』に、趙範が兄嫁の樊氏を趙雲に嫁がせようとして断られ、その後逃亡したことがわかるだけである。
金旋の出自から推測すると、恐らく他の3人ともども、曹操が荊州を制圧した後に、曹操によって派遣された太守である可能性が高い。しかし赤壁の戦いで曹操が敗れた結果、補給を断たれて各個撃破されたのではないだろうか。
いずれにせよ、『三国志演義』が劉皇叔の勝ち戦を見逃すはずもなかった。
劉皇叔の快進撃を彩るかませ犬として、大々的に荊州四太守のやられっぷりが加筆されたのである。
こうして、金旋は鞏志に、韓玄は魏延に裏切られて死に、趙範・劉度は降伏までに鮑隆・陳応、あるいは邢道栄を失うという、華々しい負け戦が創造された。もちろん、ここに出て来る四太守の部下は、魏延を除くと全て演義の創作人物である。
1985年、光栄(現:コーエーテクモゲームス)『三國志』が発売されると、208年「孔明の出廬」(赤壁の戦い直前)シナリオで君主として登場し、再び劉備のかませ犬として脚光を浴びた。
この時点では4人はNPCだったが、『三國志Ⅱ』以降はプレイヤーキャラクターに昇格。当然の如く高難易度であり(黄忠、魏延のいる韓玄が四英傑の中では抜きんでているが。いかんせん君主の魅力が低いのが致命的)、以降の作品でも上級者向け君主の地位を確立した。
劉備への逆襲はもちろん、圧倒的な勢力を誇る曹操を退ける展開はドラマ性が高く、いつしか「荊州四英傑」と呼ばれるようになった。