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史実

生没年:長保5年(1003年)? - 寛治元年7月7日(1087年8月7日)?)。

父は藤原道長で五女。母は側室の源明子

初名は隆子。※初名について『御堂関白記』や『小右記』に記載があり、婚姻時に夫の姉で尊子の異母兄藤原頼通の正室でもあった隆姫女王(具平親王女)の名前と重なるために改名したと考えられている。


寛弘4年(1007年)4月27日に同母弟の長家とともに着袴の儀式を行う。

長和2年(1013年)9月16日に従四位下を叙され、

長和4年(1015年)9月20日には従三位に昇進。

寛仁元年(1017年)4月26日に長家の元服に合わせて着裳の儀式を行った。


万寿元年(1024年)3月27日、当時右近衛権中将であった頼通の猶子であり、年下である源師房と結婚。

異母姉妹や同母姉の寛子がそれぞれ天皇、皇太子、親王という皇族に嫁いだのに関わらず、臣籍降下された元皇族とはいえ非皇族・非公卿に嫁いだのは道長の娘の中では尊子のみであった。


『大鏡』・『栄花物語』ではこの婚姻に同母兄である頼宗能信は強い不満を抱いたとされている。

だが、当時の皇族や公卿の中に道長の娘婿に相応しい適齢者がおらず、道長にとって師房は「義理の孫」であり、また彼を道長一門の一人として可愛いがっていた道長にとっては身内に嫁がせるの同じであったとされている。


それでも尊子と師房の仲は良好であり、道長姉妹の中で一番多い三男三女の六人の子供に恵まれている。(七人ともいわれているが三女にあたる女子の詳細は不明)。

長女:妧子(頼通長庶子のち嫡子である藤原通房正室)

次女:澄子

三女:詳細不明

長男:源俊房。従一位・左大臣。堀川左大臣。

次男:源顕房。従一位・右大臣、贈正一位。堀河天皇の外祖父。

四女:麗子(藤原師実正室)。兄顕房の娘である賢子(のちの白河天皇中宮、堀河天皇生母)の養母。

三男:仁覚


夫の死後も二人の息子が揃って左大臣と右大臣に並び立ち、孫娘の賢子が白河天皇の寵愛を受け、玄孫の堀河天皇を生むという栄誉にも恵まれている。

彼女の人生は道長姉妹の中で一番幸福なものであったといえるであろう。


承保4年(1077年)に夫の死と自らの病気によって出家をし、10年後に没したといわれているが、晩年の動向は不詳。


今でもその血筋は現代の皇室や冷泉家に繋がっている。


エピソード

『今鏡』では長男俊房が後朱雀天皇の第二皇女である娟子内親王(異母姉妍子の孫娘)との密通事件(実際は勅許を得ずに結婚)を起こし、内親王を正室として俊房邸に迎えたとき、自ら世話役として申し出たとされている。

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