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平清盛の編集履歴

2015-02-03 21:05:38 バージョン

平清盛

たいらのきよもり

平安時代末期の武将、政治家。桓武天皇を祖とする伊勢平氏の棟梁。皇族の内乱(保元の乱)や源氏との対決(平治の乱)に勝利し、自らも武士で最初の太政大臣に就くなど、平氏一門の権勢と栄光を築きあげた。

平安時代末期の武将公卿政治家

もしくは、上記の人物が登場する作品タイトル。

同名のNHK大河ドラマは →平清盛(大河ドラマ)参照


概要

 伊勢平氏棟梁平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。

 保元の乱後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士で初の太政大臣に任ぜられる。出家して入道相国(出家した宰相の意味)と呼ばれ、またその京都に築いた壮大な館が鴨川東岸六波羅の地にあったことから、六波羅殿と呼ばれた。


青少年時代の彼の姿については『平家物語』での西光の痛罵に描かれている。朝廷に出仕もせず、院近臣の藤原家成邸に、漆黒の高下駄を履いて乗って出入りし、「ああ、今日も高平太(高下駄の平家嫡男野郎)がやって来たぜ」と京都の者達に噂されたというのだ。もちろん『平家物語』は鎌倉時代に源氏側の立場から平家を成り上がり者として罵倒する立場から描かれた通俗文学であって、そのまま史実とは言えない。記述通りなら、京都在住とはいえ公家ではなくたくましい武士としての清盛の姿が浮かび上がってくるといえよう。『中右記』によると、弱冠12歳にして従五位下左兵衛佐という高位に上り、人々は驚き嫉妬したという。後に武家でありながら太政大臣にまでなったことも含め、白河法皇の落胤であるという説が当時からささやかれていたらしい。


 保元の乱では、義母池禅尼崇徳上皇の子である重仁親王の乳母であったにもかかわらず、後白河天皇に味方した。乱の後に恩賞として播磨守、次いで大宰大弐となった。平治の乱が起こって藤原信頼源義朝らが信西を殺害した時は、熊野詣に出ていた。朝廷をクーデター側に牛耳られた窮地に西国に落ち延びようとしたという説もある。しかし帰洛して、しばらくは兵を集めながら事態を見守っていたようだ。この間に権力を握った信頼と二条天皇親政派(藤原経宗藤原惟方ら)の対立が生じ、また信西に近かった内大臣三条公教が信頼を倒すべく清盛と二条親政派との連携を図る。清盛は二条親政派の支援で二条天皇を確保し、信頼・義朝追討の宣旨を得る。こうして平重盛平頼盛が率いる軍勢が信頼方が立てこもる内裏に攻め込むが、彼らの目的は敵方を内裏から誘い出すことにあった。また源光保ら信頼に従う理由のない二条帝の直臣たちを内応させている。源義朝は逆転を狙って六波羅に攻め込むが、清盛はこれを自ら六条河原で打ち破る。信頼は処刑され、義朝も敗走した尾張国で落命した。


 乱後に権力を握った二条親政派は後白河上皇を幽閉してしまう。上皇が清盛に支援を求めると、清盛は経宗と惟方を逮捕して上皇の復権に協力している。その後は二条天皇と後白河上皇の双方から重用され、関白近衛基実(藤原忠通の嫡男)に娘の盛子を嫁がせて大納言に上った。清盛の強大化は後白河上皇の警戒を呼んだらしい。清盛は内大臣から太政大臣へと急昇進するが、これには実質的な権力のない名誉職である太政大臣に祭り上げようという上皇の思惑があったともされる。清盛は太政大臣を僅か百日で退いて福原に引退する。しかし、長子の重盛が東海・東山・山陽・南海道の山賊海賊追討宣旨(つまり諸国での軍事警察権を認める宣旨)を得て軍権を握り、また義妹の滋子が上皇の寵姫・皇太子(後の高倉天皇)の母として朝廷の主導権を握っていた。


 かくして藤原摂関家をもしのぐ力を手に入れた清盛は、一門の子弟を高い官職につけると同時に、日宋貿易に力を入れていた父・忠盛の政策を受け継ぎ新たな貿易港として大輪田泊(神戸港)の建設に着手した。港の完成とともに清盛は福原遷都を強行するが、これは守旧派公家の反対だけでなく一門の反対にもあい失敗した。これとは別に清盛は娘の平徳子建礼門院)を高倉天皇の御所に中宮として入内させ、彼女が天皇との間に安徳天皇を産むことでこれまで藤原摂関家が独占していた天皇外戚となり、平家一門の知行国は日本全国の半数を超える三十余国(『平家物語』)となった。さらに関白藤原基房すら廃して24歳の若さで没した女婿・近衛基実の嫡男・近衛基通を関白とした。基実の妻の盛子は基実の嫡男・基通が成人するまで摂関家の遺領を管理することになり、これも盛子の父たる清盛が実質管理することになった。


 清盛は一代で平氏の権勢を高めたが、反発した後白河法皇と対立はより深刻なものとなった。安元3年(1177年)鹿ケ谷の陰謀が多田行綱の密告により発覚する。この事件により、後白河院近臣の藤原成親は備後(岡山)に配流後に餓死(清盛の追手に殺されたとの説もある)、西光は斬首、俊寛は鬼界ヶ島に流罪と首謀者と目される人々はいずれも死罪、配流となった。治承3年(1179年)、摂関家の所領を管理していた盛子と嫡男・平重盛が相次いで亡くなった。後白河院は盛子の管理していた所領を基房に、重盛の所領・越前を没収し自らの院分国とした。後白河院の強引な措置に激怒した清盛は後白河法皇を幽閉して北面の武士も壊滅させる強硬策をとった(『玉葉』)。いわゆる「治承3年の政変」である。こうして徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握る。しかし、平氏の独裁は貴族寺社・他の武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、原因不明の熱病で没した。


評価

 後世の鎌倉時代に成立した『平家物語』においては四つに及ぶ罪業の描写がある(樋口大祐『変貌する清盛』)。まずは関白松殿基房の車が一族の平資盛の車と道を争い、基房の下人が無礼な車として資盛主従に暴行を加えた殿下乗合事件への対処。後日、清盛は資盛の父重盛には無断で外出中の基房を襲って従者の髻を切るといった暴行を加えたので、貴人たる関白への暴行は許されないと悪行その一に挙がっている。また治承三年のクーデターにて後白河法皇を幽閉したことがその二。その三は臣下の身でありながら祖先桓武天皇が立てた平安京を捨てて福原に都を遷したこと。その四は興福寺の悪僧たちの反乱に際して奈良の街や諸寺社を焼くよう命じたことである。その後まもなく清盛が熱病で死去したことも奈良が焼け落ちた天罰とされ、平時子の見た悪夢として閻魔大王の使いである燃える車が無間地獄へと清盛を迎えに来た云々という挿話を描いている。『玉葉』も「刑罰や処刑を専らにして仁義を衰退させ天下の災いを招いた(治承四年九月三日)」「清盛は人望を失い、誰もがその凶運を願って噂した(治承四年九月二十三日)」とその治世を酷評する。こうして、平清盛は古来成り上がり者の暴君、という評価が定着していた。

 が、同時代の史書である『愚管抄』によれば殿下乗合事件の報復を行ったのは明らかに重盛である。後白河法皇の幽閉に際しては、『平家物語』自体において清盛が後白河院の非を列挙し、院の使者はそれらに反論もできず「それでも臣下が逆らうべきではない」と述べるだけであった(樋口大祐『変貌する清盛』)。遷都についても『平家物語』内で京都は延暦寺や興福寺等の悪僧が始終襲って政治どころではない都であることが述べられている。また奈良炎上も清盛が焼くように命じたのは悪僧たちの房舎だけであって、町や寺社まで焼失したのは事故であったという(五味文彦『平清盛』)。

 さらに、実際の清盛の人物像は温厚で情け深いものだったともいわれている。史書というより鎌倉時代の少年向け教訓書ではあるが、『十訓抄』に若き日の清盛の逸話としてそのような記述がある。まず、嫌なことをするものがあっても戯れであると許し、誰かが過ちを犯しても荒々しく怒ることはなかったとする。また、寒い冬には奉公人たちに自らの衣のすその下で寝かせてやり、彼らが寝坊しても起こさないようにそっと寝床を出たという。身分の低い召使もその家族や知人の前では一人前として扱ったとのこと。そしてこのように情け深い人物であったゆえに、多くの者が清盛を慕ったというのだ。『平家物語』においても、大輪田泊を築いて海上交通を発達させ、またその築造に当たって人柱を捧げようした人々を「罪業である」と制して一切経を彫った石をそれに代えたといった肯定的な記載がある。後年の清盛専制には批判的な『愚管抄』も、平治の乱において源氏が六波羅に攻め寄せてきて怯える公家たちに「外が騒がしいようですので見てまいりましょう」と堂々と言い放って出撃し、義朝らを撃破して凱旋した清盛の頼もしさを絶賛している。『玉葉』ですら、後白河法皇幽閉以前は清盛の病に際して「彼が倒れたならば天下は乱れるであろう(仁安三年二月十七日)」と心配している。『十訓抄』にある通りならば、後世の残虐な清盛像はずっと情け深い人物に修正すべきであろうし、また同時代の公家たちも信頼できる武将として清盛を頼っていたことは確かであろう。



関連文献

平家物語 吾妻鏡 玉葉 愚管抄 源平盛衰記 十訓抄 百錬抄 平治物語 保元物語


平清盛が登場する作品


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