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崇徳上皇

すとくじょうこう

平安時代の第75代天皇、及び譲位した上皇。没後、平将門と菅原道真と共に「日本三大怨霊」として後世の人々から恐れられた。
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平安時代日本の第75代天皇。諱を顕仁(あきひと)。

元永2年5月28日(1119年7月7日)~長寛2年8月26日(1164年9月14日)、在位1123年~1142年。


生涯

元永2年(1119年)に鳥羽天皇待賢門院との長男として生まれる。保安4年(1123年)正月に曾祖父の白河法皇の命により、5歳で皇太子に、即日で即位した。

院政を敷いた父の鳥羽法皇に彼は疎んじられ、異母弟の近衛天皇に譲位させられ、久寿2年(1155年)の近衛帝崩御後は弟の後白河天皇、次には後白河帝の皇子の二条天皇が即位。崇徳院の皇子・重仁親王への皇位継承は絶たれ、崇徳院には実権がないままとなった。


実は崇徳院は鳥羽院の子ではなく、待賢門院と白河院との子であったという説がある。そのため鳥羽院は崇徳院を嫌い、「叔父子」と呼んだとされる。これとは別に崇徳院は白河院の孫という考え方もある。待賢門院は幼少時に父の藤原公実を喪い、それを不憫に思った公実の従弟である白河院を養女として引き取って育てた経緯があるからである。待賢門院に対する白河院の視線を父娘の情とみるか恋愛感情によるものとみるかによってもこの問題の解釈は大きく分かれることになるだろう。


保元元年(1156年)5月、鳥羽院が崩御したが崇徳院は遺言により見舞いすら許されず、実権を手にするべく挙兵を決断。ついに後白河帝側と崇徳院側に藤原氏源氏平家が分かれた保元の乱が勃発。しかし、一晩で敵の夜襲を受けて即日で崇徳院側が敗れ、崇徳院は讃岐国(現在の香川県)へ配流された。


配流先の讃岐では、府中(現在の坂出市国府町)の鼓岡に設えられた木ノ丸御所(現在の鼓岡神社)に在した。世話役であった現地国府の娘と子を成したとも伝わり、その高貴と智恵より讃岐の民たちからは讃岐の天皇さまとして心より慕われた。この呼称は後世において後述の事情から香川県内の関連地域(鼓岡から八十場までの)一帯を指す呼称へと転じるようになる。


現地で反省の意味を込めて写経をして京都に送るが、後白河院から呪いを疑われ送り返され憤慨。『保元物語』によれば、怒り苦しんで舌を噛み切ってその血を混ぜた墨で五部大乗経を筆写する。そして生きながらにして天狗の姿となり、「この大乗経の善の力を全て悪道に投げ堕として日本国の大魔縁となり、皇を取って民にし、民を皇となさん」と宣言。長寛2年(1164年)、現地で没した。


ただ、都を追われた哀しみはあっても後白河帝らへの憎しみは無かったと伝える資料もあり(山田雄司『崇徳院怨霊の研究』)、実際にどのような思いで晩年を過ごしたかわかってはいない。


没後の崇徳上皇の遺体は、その処遇の詮議について京からの通達を待つ間、上皇を慕う讃岐の人々によって府中に近い八十場に運ばれ、同地において瀕死の魂も気力を取り戻し蘇ると伝えられた霊水「八十蘇場(やそば)の清水」によって清められ至近の仏庵である摩尼珠院に安置された。摩尼珠院は配流生活に入った崇徳上皇が好んだ場所と言われる。すると上皇の遺体は蘇る事こそなかったものの21日を過ぎてなお生前の生気を保ち続けたかのごとく腐食もせず艶やかなままで、夜の間は神光に輝き讃岐の民たちを優しく照らし続けたという。


御陵は讃岐国の白峯寺(四国八十八箇所第81番)に隣接する白峯陵である。

また、上皇の遺体が一時安置された場所には隣地に崇徳上皇を祀る白峰宮が創建され摩尼珠院はその別当寺となった。しかし明治時代の御霊帰還と神仏分離により、白峰宮と摩尼珠院は分離され、さらには廃仏毀釈によって摩尼珠院側は一時廃寺となる。しかし明治20年、摩尼珠院の筆頭末寺である高照院が摩尼珠院の跡地に移転して燈明を継承し天皇寺(四国八十八箇所第79番)として復興した。


没後

その後、安元年間(1175年~1177年)に後白河院政を揺るがす大事件が次々に起こる。後白河院の寵姫で政治顧問も兼ねていた平滋子が死去し、これは崇徳上皇を見限った平家にとっても後白河院との調停役を失う大打撃となる。続いて後白河方の大将を務めた藤原忠通の養女にして近衛天皇の中宮九条院呈子も死去する等、後白河・忠通所縁の人々が立て続けに死去する。また後白河院の参謀信西が精魂込めて再建した内裏も京の市街もろとも大火で焼け落ちた(太郎焼亡)。さらには鹿ケ谷事件によって、後白河院の側近西光が斬首され、俊寛薩摩喜界島藤原成親備後国に流罪されるなどの事態が起きた。こうして保元物語に描かれた崇徳上皇の伝説が都にて噂になったという(山田雄司『崇徳院怨霊の研究』)。実際にこの頃、崇徳上皇に最後まで従っていた側近の藤原教長が、崇徳上皇と藤原頼長の悪霊を神霊として祀ることを唱えている。さらには源平合戦が起こり、政治の実権は皇室貴族朝廷から武家に移った。かくして崇徳院の宣言が現実のものになったことで人々は崇徳院の怨霊と恐れ、「讃岐院」、次に「崇徳院」と院号が送られた。ちなみに、崇徳院は譲位後は鳥羽離宮田中殿を住居としており、この当時の諡号は居住地名を充てる事になってた事から、もし大過なく生涯を終えていたら、死後は「田中天皇」と呼ばれていた可能性がある。


後世、皇室が二つに分かれて全国を巻き込んで数十年にわたって争い続けた南北朝の動乱でも崇徳上皇が出現する。『太平記』巻二十七「雲景未来記」では、淳仁天皇後醍醐天皇といった悲運の帝、源為朝のような恐るべき武士、真済頼豪といった不遇の僧侶が天狗となって魔王となった崇徳上皇の周りに集い、この魔界の宴を訪れた雲景という山伏は肝を潰した上に観応の擾乱勃発の予言を授かっている。


江戸時代には文学でも怨霊としての崇徳院が描かれ、『雨月物語』「白峯」では西行と対峙し、『椿説弓張月』では危機に陥る源為朝を眷属の天狗を遣わして何度も助ける。

幕末明治天皇は即位の時に讃岐へ勅使を送って崇徳院の霊を京都に帰還させて白峯神宮を創建して祀り、戊辰戦争の時は崇徳院が旧幕府軍と奥羽越列藩同盟の味方にならぬように、怨霊鎮撫の祈祷をしている。


その一方で、「守り神」となった逸話も多々ある。承久の乱により、父・後鳥羽上皇(崇徳上皇の大甥にあたる)、弟・順徳上皇と同じく流罪となった土御門上皇が、配流先である土佐国(現在の高知県)に赴く途中、前述にもある崇徳上皇の陵…讃岐の白峯陵に立ち寄り、慰霊のため琵琶を奏で、その晩に土御門院の夢に崇徳上皇が現れ、京に残した自身の皇子らの無事を約束する旨を述べ、その皇子が後に後嵯峨天皇として即位することになる。


他にも戦国時代に讃岐を本領とした三好氏も崇徳上皇を守神として篤く信仰していたといわれている。


さらには東京オリンピックの際に昭和天皇は崇徳天皇陵に勅使を派遣し、式年祭を催した。その際、水不足に悩んでいた香川県内に大雨が降ったという。


短歌

歌人としても優れた才能を持っていたようで『久安百首』『詞花和歌集』といった和歌集の選定にも積極的に携わっている。


特に『百人一首』では77番に院の歌である

「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」

が選ばれている。


この歌を題材に恋煩いに悩む男女とそれに巻き込まれた幼馴染の噺、上方落語の「崇徳院」は有名。

以降、多くの創作作品で題材とされており、漫画『はいからさんが通る』(大和和紀)におけるモチーフのひとつとしても有名である。


皇統

重仁親王

・覚恵

  • 女房:烏丸局

関連イラスト

崇徳上皇【浮世絵】霊異百怪記:崇徳院/白峰 相模坊【幽霊・妖怪画】

【新暦命日】崇徳天皇顕仁尊


デジタル・デビル・ストーリー

続編の『新・デジタル・デビル・ストーリー』単行本第四巻『怒りの妖帝』から登場する。

当初は敵役であったが、作者の史実の崇徳上皇への思い入れが強まり、やがて第二の主人公のような立ち位置になり、最終盤では最も派手な立ち回りを行う。

また、本作の事実上のラスボス

日本を守護する大和神族によって黄泉に封じられていた日本最強の怨霊であり、死去してから20世紀末までの800年間に渡って神と日本を呪い続けていた。古風な話し方をする。

本作では元々は清らかで意志の強い人物であったが、それが転落して強い恨みの感情を持ったことで比類なき霊力を得たという設定である。

作中では日本神話に登場する天之御中主神がキリスト教の唯一神や道教の天帝と同一存在で別々な信仰をなされているという設定であり、彼は自らの呪わしい運命を定めた最高神に復讐するため、配下の源為朝藤原頼長と共に人間の赤子として現世に転生する。

転生後は唯一神と陣営を違える魔族ルシファーの庇護を受け丁重な扱いを受けるも独自の目的のために動く。

また、魔力によって通常よりも速い速度であっという間に端正な容姿を持つ10歳程度の少年にまで成長する。

崇徳の神への復讐とは現世を破滅させることであったが、転生後に自身が生きていた時代から800年も後の現世の情勢を収集するため図書館で歴史やノンフィクションを渉猟し、中世の魔女狩りやナチスの人種政策、アジアのホロコーストと呼ばれる大日本帝国軍が世界各地で戦中に行った数々の凄惨極まりない虐殺行為・戦争犯罪を知る。

その結果、彼は自らのような怨霊が日本人に本気で恐れられていた間は日本人が祟りを恐れて過剰な残虐行為を自制していた(残酷と言われる武士であっても世界の残酷さと比べると相対的に控えめであった)が、近代以降合理化で祟りが忘れられて最悪の過ちを犯したと理解する。

そして、自分が日本を呪うこととなった命運にも意味があったのだと天命を解し、本作の主人公北明日香にそれを伝えるために戦中の生々しい虐殺の光景をビジョンとして見せる。

崇徳は呪いと祟りを忘れて狂った日本を許すことができず、かつて日本の王であったにもかかわらず日本を滅ぼすことを決意する。

その動機は異種族のルシファーでは理解に苦しむほどの、彼の責務と深い苦悩の歴史から生まれたものであった。

最終的に崇徳は中国各地の日本軍による虐殺で亡くなった人民や現地の米国籍を含む兵士の怨霊を大地から呼び起こし、それらを引き連れて核兵器を日本で使用する。

常人であればたった一人の悪霊の祟りですら取り殺されてしまうところを、「ジャップ」「日本鬼」と呪いを吐く数十万の怨霊に対して堂々と日本国王を名乗って、その恨みを平然と引き受けながら香港から東京へと飛翔し、核を落とされたくないルシファーと壮絶な死闘を繰り広げた。

この核投下によって事前に核を落としてはならないと警告していた唯一神は裁きとして地球を隕石で粛清する。


イケメン源氏伝

藤の香

CV.岩永徹也

イケシリの一つ「イケメン源氏伝」の登場キャラ。

死んだはずの上皇だが伊吹と『契り』を交わし、朝廷に不穏な影を落とす存在として出現。

優美に微笑していても、どこか底知れない色香を漂わせる。

生まれた時から呪いの力を持ち、日ノ本のすべてを恨んでいる言われる。


関連タグ

天皇 崇徳帝 崇徳院

日本史 創作歴史 平安時代 源平 百人一首 井浦新

人神 怨霊 魔王 天狗 菅原道真 平将門 日本三大怨霊 怨霊系男子 藤原頼長 源為朝 早良親王


十一面観音:生前持念仏。天皇寺本尊。白峯寺持念仏。合祀先。

金毘羅権現:合祀先。


水曜どうでしょう 四国八十八ヶ所天皇寺でトラブルを起こした

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