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高山右近の編集履歴

2016-07-16 09:15:30 バージョン

高山右近

たかやまうこん

戦国時代のキリシタン武将。

戦国時代から安土桃山時代江戸時代初期の戦国武将。諱は重友(しげとも)。


生涯

天文21年(1552年)、摂津(大阪)で高山友照の嫡男として生まれ、キリシタンだった父により洗礼を受け、「ユスト(ジェスト)」の名を授かった。

友照は三好長慶松永久秀に従っていたが、永禄11年(1568年)に織田信長足利義昭を奉じて上洛し義昭が将軍になると、摂津は池田家や和田家などの地元豪族が争い、さらに荒木村重が侵攻して和田家は破れたが、和田家と高山家が対立となり、高山家が和田家を滅ぼし、高山家は村重に従い、1573年(天正元年)に摂津高槻城主となった。

天正6年(1578年)、村重が信長に反旗を翻し、高山家もどっちに付くか城内で分かれたが、右近は信長の下へ出頭し、高山家とその領地は安堵された。

本能寺の変後では羽柴秀吉につき、賤ヶ岳の戦いで守勢で苦戦を強いられ、小牧・長久手や四国などの戦いにも参戦。

天正13年(1585年)に播磨国明石城主となったが、豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、各地のキリシタン大名は棄教したが、右近だけは棄教せず、それまでの地位や財産を投げ捨てて出奔してしまった。その後は小西行長前田利家の庇護を受け、小田原城攻めでは前田勢に従軍し、関ヶ原の戦いでは東軍に与した。

江戸時代、加賀で暮らしていた右近だったが、慶長19年(1614年)に徳川家康のキリスト禁教令を受け、加賀を去って内藤如安とともにフィリピンのマニラへ向け国外退去した。現地ではスペイン人のフィリピン総督であるファン・デ・シルバ達から厚い歓迎を受けたが船旅の疲労や慣れない気候の為、間も無く病気に罹患して慶長20年1月8日(1615年2月4日)に客死した。享年64歳。


世俗に惑わされずただひたすらに信仰に生きたその姿勢から、死後程なくして列福運動がマニラで始まったが、様々な歴史的事情で長らく列福に至っていなかった。20世紀後半に管轄を日本へ移して調査が進められていたが、2000年代後半にようやく動きが本格化し、「殉教者」扱い可能とのバチカンからの見解提示もあり、2012年夏に殉教者として列聖省に申請された。2015年6月に神学審査委員会の審査を通過、2016年1月19日に枢機卿会議の承認を経て、2日後の1月21日に教皇フランシスコの裁可が降り、福者となることが確定した。列福式は2017年2月7日に大阪城ホールで行われる予定。


人物

非常に真面目で誠実、簡単に志を曲げない性格だったと言われ、領民や各武将から高く評価された。

キリスト教徒として領内で布教していたが、それに伴って神社寺院の破壊も多く、キリスト教徒が領内で多くなりすぎたために寺社の数も減った。

茶人としても茶道に傾倒し、千利休の高弟の一人にも数えられ、名を「南坊」と号した。


戦国大戦

【戦国大戦】重友+α

クソッ、服に泥がっ!!」(撤退時の台詞)

CV:小野大輔


「戦国大戦 1570魔王上洛す」より父・高山友照と共に織田家の武将として参戦。但し、登録名が通称で著名な「高山右近」ではなく、諱(本名)の「高山重友」であり、キリシタン大名という事が相俟って、時代の最先端として南蛮文化に傾倒している印象のイラストとなっている。


スペックはコスト1.5の武力4、統率6(「15XX 五畿七道の雄」にバージョンアップする前は統率7)と、一見するとやや力不足に見えるが、特技として「伏兵」を所持しており、開幕時に相手の出鼻を挫かせる可能性を秘めている上、兵種が数少ない織田家の騎馬隊でもある為、案外貴重な存在とも言える。計略は汎用的な「正兵の構え」(武力・統率を3上げる計略)であり、使う機会というものは全くと言って良い程に無いが、この計略を所持している武将の中では実は最も統率が高い為、ここぞという時の大筒の奪い合いや虎口への突入での活躍を見出す可能性は有り得る。


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