概要
本名・織田長益(おだながます)。天文16年(1547年)~元和7年(1622年)
織田信秀の十一男。織田信長の弟。通称は源五。甥で信長の嫡男・織田信忠の補佐を務め、各地で転戦した。
本能寺の変の際は信忠とともに二条御所におり、京都から脱出して岐阜へ逃れた。この際に、甥である織田信忠に自害を勧めておきながら、自分は逃げ延びたという風説が流れ京童に「織田の源五(長益のこと)は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と歌われた。
一説ではこの時、長益は信忠の自害後に本当に自身も自害をしようとしていたが、それを発見した部下達に止められて無理矢理連れ出されたとも言われている。
その後は信長の次男・織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いなどに従軍。信雄が改易されると次に豊臣秀吉に仕え、御伽衆となった。
天正18年(1590年)頃に出家して「有楽斎」と号した。
関ヶ原の戦いでは東軍方に属して参戦し、石田家臣・蒲生頼郷(横山喜内)を負傷しながらも討ち取る。その功で徳川家康から大和三万石(長男・織田長孝とあわせて4万石)を与えられた。この際の逸話で、手柄を立てた長孝の槍を家康に見せたところ、家康の指に傷がついてしまった。その槍を見ると徳川家曰くつきの「村正」であったため、慌てた有楽斎はその槍を叩き割った挙句踏んで粉々にしたという話がある。
その後は豊臣秀頼を補佐し、家康との仲介を務めたが、大阪夏の陣直前に大坂城から逃れた。
その後は京都で隠棲し、茶室「如庵」を建てたり、茶碗を製作した。
千利休から茶の湯を習い、利休の高弟に数えられ、茶道有楽流を創始した。