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坂井三郎の編集履歴

2011-11-29 11:01:41 バージョン

坂井三郎

さかいさぶろう

日本のエースパイロット。この人もまた伝説的な武勇伝もちである。

大日本帝国海軍軍人戦闘機搭乗員(1916年~2000年)。最終階級は中尉。


太平洋戦争ではその大半の期間を前線において過ごし、

エースパイロット(撃墜王)の一人として知られた。

公認撃墜数は64機。

本人は「飛行機を壊さなかったこと」、「僚機を撃墜されなかったこと」の方を誇りにしていたという。


略歴

ラバウル基地所属時代のガダルカナル争奪戦を含め、

零式艦上戦闘機で200回以上出撃している。

ヨーロッパ方面と異なり、

太平洋戦線は日米とも戦場と根拠地(または空母)が離れているため、

撃墜数や出撃回数は控えめになりがちである(1回の出撃がほとんど1日がかり)。


その中でも増槽なしで航続距離が2000kmを超える零戦専門のパイロットとしては最多出撃数で、飛行距離では群を抜くリアルチートの1人である。

日本のエースと呼ばれる人は他にも何人かいるが、一般人にまである程度その名が浸透しているという点では陸軍の加藤建夫とともにツートップだろう。


逸話

輸送機

1942年初頭のインドネシア方面の上空で、

オランダ軍の大型輸送機を撃墜、または基地に誘導するべく接近した。

しかし、コクピット後方に民間人の母娘の乗客を確認し、輸送機はわざと見逃した。

(『敵が雲の中に逃げたので追跡は断念した』と報告。実際その通りだったのだが)

この輸送機の乗客の一人は戦後に再会を果たしている。

本人は軍命に背いた事を恥じており、秘密にしておくつもりだったようだ。


ガダルカナル上空にて

ガダルカナル上空では攻撃機の銃座に撃たれて重傷を負った。

失血で遠のく意識の中、4時間の帰路を操縦して帰投を果たしている。

(この負傷により片目の視力を失い、もう片方も視力が低下している)


現場復帰、本土へ

負傷により片目となった坂井だったが、搭乗員を辞めさせられそうになった。

しかし新しい司令官の理解もあって最前線復帰。

のちに長崎の大村や、横須賀の教育部隊で後進の指導に当たる。


教育部隊にて

後進の指導に当たった坂井であるが、ここに一つの口癖が残っている。

『空戦ではよく見張れ!前が2、後ろが8だ!』

とか

『後ろに目を付けるんだ!』

などである。過激にも思えるかもしれないが、重要な教訓だったのである。


硫黄島防空戦



戦後、印刷会社に務めながら戦記ものや人生論などの本を執筆し、

とくに『大空のサムライ』は世界的ベストセラーとなった。


戦記漫画を描いていた頃の漫画家水木しげるは、坂井氏から「勝った内容じゃなければダメだ」とアドバイスを送られたことがある。

日本軍優勢の時に活躍した坂井氏と、劣勢期の戦場にいた水木では、戦争の捉え方が違っており、水木はアドバイス通りに描けず苦労したという。


関連イラスト

大空のサムライ 坂井三郎中尉


関連タグ

パイロット 零戦 大空のサムライ 坂本美緒ストライクウィッチーズ

ハンス・ウルリッヒ・ルーデル:ドイツ空軍のエースパイロット。

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