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牟田口廉也の編集履歴

2023-02-09 10:10:30 バージョン

牟田口廉也

むたぐちれんや

牟田口廉也は、大日本帝国陸軍の軍人であり、最終階級は中将。盧溝橋事件とインパール作戦に深く関わり、現在では無能な軍人の代名詞扱いされている。

概要

大日本帝国陸軍中将。

1888年(明治21年)10月7日生まれ、佐賀県佐賀市出身。

陸軍大学校(29期)卒。


満州では盧溝橋事件の当事者となり、のち太平洋戦争では開戦時のマレー作戦、シンガポール攻略戦の指揮を取った。典型的な猪武者タイプで大局観がなく指揮官としては失格以前だが上官の命令に忠実で、最前線に立って敢闘したことから同じような精神性の上層部主流派からはむしら猪突猛進ぶりを評価すらされていた。マレー作戦では苛烈な攻撃精神を「マレーの虎」こと山下奉文将軍に心配されたが、緒戦の勢いに乗ったまま戦果を上げつづけたことから昇進を重ね、昭和19年のインパール作戦を立案。杜撰な作戦により麾下の第15軍を殲滅に追いやり、本人は後方に逃亡。帝国陸軍の愚将の1人として語り継がれている。


なお、元々は皇道派だったが、二・二六事件以降は、保身の為に統制派の首魁である東條英機に擦り寄った事でも、つとに有名。


盧溝橋事件

盧溝橋事件の際に、現場に居た支那駐屯歩兵第1連隊の連隊長であり、部下からの反撃許可要請に対して、すんなり許可を出している。これが日中戦争が始まった直接のきっかけであった


ちなみに、中国側から発砲後、部下を事実確認および交渉の為に中国軍側に軍使として行かせる命令を出しているが、その部下が帰って来ない内に、心変わりして反撃命令を出している。佐賀県出身だけあって、「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり。二つ二つの場にて早く死ぬはうに片づくばかりなり」に忠実なシグルイ精神である。(但し、「早く死ぬはうに片づ」けようとしたのは、自分の命ではなく、部下の命)


なお、牟田口は元々、中央でのデスクワークが長く(注:当時の日本陸軍では陸軍省や参謀本部などのデスクワーク中心の部署に勤務する事も将校の出世コースの1つだった)、また、同郷だった真崎甚三郎の影響で皇道派だったのだが、この前年に起きた二・二六事件のトバッチリで先述の山下と共に満州に左遷されていた。つまり、この時点で、牟田口には前線指揮の経験・スキルは、ほぼ0である


また、牟田口が指揮していた支那駐屯歩兵第1連隊は、盧溝橋事件の前年に大幅増強されてるが、その理由の1つは、「中央の言うことを聞かなくなった関東軍に対する牽制の為」とする説も有る。早い話が、関東軍のお目付け役を期待されてたのに、関東軍と似たような真似をしでかしたのである色々と駄目だろ。日中戦争の原因の1つは、日本陸軍内の内輪もめの解決に失敗した結果と言う見方も可能であろう。


日中戦争が無ければ太平洋戦争も無かった事を考えると、大日本帝国を滅ぼした元凶の一人は、ある意味で、コイツである。


なお、後の牟田口廉也の言動からすると「自分のせいで戦争が始まり、国に迷惑をかけた」と言う自責の念は持っていたようであるが、下手に自責の念を持っていたせいで、償いとして、日本に有利な条件で戦争を終らせる事が可能な程の戦果をあげなければならないと考えるに至り、後のインパール作戦強行に繋る。


インパール作戦

インパール作戦ではビルマ・インド国境の険しい山脈を攻略するにもかかわらず、補給を軽視。現地でを調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」と称する作戦を立案した。(なお、牛用の餌は荷物に含まれていない)


当然、牛が山を越えられるわけもなく、現地の事情を知る南方軍司令官や第15軍の参謀、隷下師団はほぼ全員が、補給が不可能という理由から猛反対するが、牟田口はビルマ方面軍の河辺正三大将(盧溝橋事件時の牟田口の上司)に対し「支那事変はわしの一発で始まった。だからインパール作戦を成功させ、国家に対して申しわけが立つようにせねばならん」と作戦実行を強硬に主張した。


なお、この点に関しては、牟田口廉也にはこれっぽっちも責任が無いが、当時の日本軍は、戦争中でありながら定期の人事異動を行なう、と云うお役所仕事にも程が有る真似を平気で行なっており、インパール作戦の立案や準備に関わっていた者が人事異動で居なくなり、事情をよく知らない者が後任になると云う冗談のような事態も起きてしまった。

もう、この辺りから暗雲が立ち籠め始める


余談ながら、牟田口が第18師団長(=前線で指揮を取らざるを得ない役職)時代にインパール方面への攻撃計画が南方軍および大本営から立案された際(昭和17年立案の第21号作戦)、彼は「補給が困難である」ことを理由に猛反対していた。元部下などの証言から、牟田口は士官時代から補給などの後方支援を理解せず軽視している(もっとも、陸海問わず一部の例外を除いて旧日本軍に共通する傾向である)のだが、自分が最前線に向かうのは無謀すぎることを認識できる程度の理解はあったようだ。


現場の将兵にとって不幸だったのは、東條英機をはじめ無謀な作戦を中止させるべき存在であるはずの軍上層部が、悪化する一方であった戦局の打開をこの作戦に期待して、牟田口を制止するどころか後押ししてしまったことである。


牟田口は作戦が始まると、補給を心配する第一線部隊に対して「ビルマにあって、周囲の山々はこれだけ青々としている。日本人はもともと草食動物なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食糧に困るなどというのは、ありえないことだ」と大真面目に訓示し、第一線部隊を心底呆れさせた。現代でも受験勉強一筋で純粋培養された、いわゆる「エリート」の中には、著しく一般常識を欠く者が少なからず存在するが、当時の陸軍上層部でも事情は同じだったのである。が、逆にここまで常識外れの発言となると逆に清々しい。

ピンとこない人のために捕捉すると、我々が普段食べている植物性の食物は人類の歴史を通して無数の植物の中から食用・栽培に適したものの中から選ばれ、長い時間をかけて作物化と収穫量向上と過食部分の肥大化を目的とした品種改良を重ねたごく一握りのものであり、何万という人間の栄養はそこらへんに生えている草ごときで補えるものではない。まあ、我々が日常生活で野草を採って食べたりしないことを考えると、お判りいただけるだろう。


牛はチンドウィン河の渡河中に半数が溺死し、残りもインパール山中で餌にするべき草が無く次々と倒れた。兵士が携行していた食糧が尽きると、前線ではほとんど食べるものがなくなった。先述の牟田口の非常識な訓示でも、現場では実行せざるを得ず、タケノコ、野イチゴ、キノコ、ミミズなど食べられると判断されたものは何でも口にするようになった。最終的には、戦死した戦友、あるいは死にかけた戦友の肉の売買まで発生した。この間、牟田口自身ははるか400km離れた後方のリゾート地・メイミョウにある指令本部でのんびり過ごしていた。なお、前線のコヒマからメイミョウまでは金沢から仙台もしくは九州の北端と南端くらいの距離(早い話が日本で言うなら県をいくつもまたぐ位の距離)がある。


インパール作戦開始後も、牟田口は、夕方になれば芸者遊びに現をぬかしていた。当地の芸者は性的サービスも伴っており、今日で言うところの風俗嬢のような面も兼ね備えていて、大阪の飛田新地あたりから呼んでいたようだ。当地の兵站病院に勤務していた兵士の証言に「飛田遊郭から来た牟田口専属の芸者が妊娠し、手術を受けた」との旨のものがあり、前線での兵士の苦闘を尻目に本人は相当ハッスルしていたようだ。なお、牟田口の名誉のために言っておくと、安全な後方で遊興していたのは彼だけでなく、第15軍あるいはビルマ方面軍幹部に共通していた。彼らは毎日、定時(17:00)を過ぎると、仕事を放り出して一目散に「清明荘」(メイミョー)あるいは「萃香園」(ラングーン)と呼ばれた料亭に向かい、芸者とハッスルしていたという。インパール作戦での日本軍の行軍・戦闘は夜間が多かった(制空権がない日本軍は昼間にほとんど行動できなかった)ため、まさに現場の兵士がもがき苦しんでいるそのときに、幹部は戦況判断や指示出しもせずに遊興の限りを尽くしていたのである。挙句の果てには、久野村第15軍参謀長のように他の幹部との芸者の取り合いで暴力事件を起こす者まで出る始末。当地の陸軍上層部全体が腐っていたのである。


前線では、補給が途絶し、戦闘以前にマラリアなどの熱帯性伝染病や飢え・激しいスコールで地獄絵図と化していた。これを見かねた前線の指揮官、第31師団長佐藤幸徳中将が何度も撤退を進言するも聞き入れられなかったため独断で部隊を退却させるという前代未聞の事態に発展した。

第33師団長柳田元三陸軍中将、第15師団長山内正文陸軍中将も撤退を進言した。


インパール作戦は誰が見ても失敗すべくして失敗した作戦にもかかわらず、本人は「勝手に退却した佐藤が悪い」と主張。佐藤の独断退却は抗命罪で死刑になることを覚悟しての行為であったが、牟田口は軍法裁判で自らの責任を追及されることを恐れ、佐藤を精神病ということにしてジャワ島送りにした。現場の司令官が師団長を解任する権限はなく、牟田口による解任は大元帥=天皇の権限を犯す行為である。(当時の陸軍では、陸軍省と陸軍参謀本部は同格の機関であり、現場指揮などの「軍令」は陸軍参謀本部の管轄、人事などの「軍政」は陸軍省の管轄であった。つまり、牟田口がやった事は、同じ陸軍とは言え、別の組織の管轄事項を犯す事であった。しかも、師団長を任命したのは、形式的には大元帥陛下=天皇である。なお、牟田口のこの行為が「統帥権干犯」と呼ばれる事が有るが、統帥権は正確には天皇の軍令に関する権限・権能の事であり、牟田口のこの行為は大元帥=天皇の大権への干犯ではあっても、統帥権干犯とは言えない)

※なお、佐藤幸徳も、昭和1桁年代には軍事クーデターを目論んでいた桜会と云う結社の創設に関わり、また、彼自身が書き残した文章を見る限り傲岸不遜で他人を見下す傾向が見られ、前線に慰安所を作ろうとしたり、宴会での猥談があまりに酷過ぎて、部下の宮崎繁三郎と対立していた、と云う説も有る。牟田口と佐藤の対立は、単純な阿呆とマトモ・悪と潔白の対立ではなく、人格的に問題がある佐藤と比較しても、牟田口は最低最悪の愚人と見做さざるを得ない、と解釈すべきかもしれない。


また牟田口は上記の柳田・山内をも更迭。山内はこの作戦中に結核に感染しており、日本に帰る事が出来ないまま病死した。山内は「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」という恨みに満ちあふれた言葉を残している。三師団長の更迭後、後任には牟田口と同じ豪傑タイプの将軍が配置され、これらの将軍の無謀な作戦指導により第一線部隊はさらに苦しむこととなった。新第33師団長となった田中信男少将は、やがて牟田口のガバガバな作戦指導に気づき「わしは長いこと満州におって、あすこにきている日本人どもが情なくて、あいそをつかしておった。今度、南方にきたら、やはり満州にいたと同じ日本人(牟田口のほか花谷正辻政信と思われる)が、同じように情ないことばかりしておる。これじゃ、戦には勝てん。」と嘆いた。


作戦の失敗が確実になると司令部の庭に祭壇を築いて戦勝祈願の儀式を始め、参謀を呆れさせた。

このような状態で人の意見を全く聞かなかったため、第15軍の幕僚や参謀たちはとっくに牟田口を見捨てていた。


このような暴挙が可能になったのも、牟田口が東條英機に上手く取り入っていたため。一応形式的な処罰人事は受けたものの、その後さっさと陸軍予科士官学校長に返り咲いている。(ただし、東條英機は、牟田口更迭直前の1944年7月末に失脚しており、牟田口への処罰が甘いのは、東條による情実人事ではなく、当時の陸軍が将官に甘い処分を下す傾向が有った為である可能性も考えられる。後に特攻隊の部下を見捨てて敵前逃亡した富永恭次に対する処分も予備役編入で済んでいる)


インパール作戦の顛末

インパール作戦の投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人という悲惨な結果となった。すなわち事実上の全滅である(ただし、インパールでの犠牲者数は諸説ありよく分かっていない。作家の林譲治氏は著書『太平洋戦争のロジスティクス』において、この事を自軍の損害を把握する能力を失なったほどの末期的状況と評している)。彼らは、牟田口・東條をはじめとする陸軍上層部によって殲滅されたと言っても過言でない。インパールからビルマに帰る道は日本兵の白骨死体で埋め尽くされ、「白骨街道」と呼ばれた。


なお、インパールの将兵にとってさらに不運だったのは、牟田口が更迭されたあとの後任、木村兵太郎中将も牟田口に匹敵する無能だったことである(早い話が、木村は、東條英機の腰巾着の1人であり、東條内閣時代は陸軍次官→軍事参議官兼兵器行政本部長を勤めていたのだが、1944年7月末の東條英機の失脚に伴ない、前線に飛ばされたのである。似た様な運命を辿った人物としては、東條内閣時代に陸軍人事局長→陸軍次官を勤め、後に特攻隊の部下を見捨てて敵前逃亡した富永恭次が居る)。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、ガタガタと手が震えるほど取り乱し、お抱えの芸者とともに一目散にタイに逃亡してしまう(ちなみに、木村はこの後大将に昇進した)。ビルマに残っていた日本軍やインド国民軍の将兵、在留邦人、傷病兵などは見捨てられた。インパールの生き残りには、イギリス軍に追い立てられ、連合国側に寝返ったビルマ国民軍に襲撃される悲惨な逃避行が待っていた。こうして、ビルマ戦役における日本軍の戦死者は、最終的に14万4千人に達した。


さらに言えば、第15軍は、インパール作戦開始前に、上位組織であるビルマ方面軍および南方軍に対して、補給・輜重・衛生・病院・工兵(補給の為の道路施設など)などの部隊の大幅増設を要請しているが、無い袖は振れる訳もなく、増設された部隊は要求の2割程度となっている(酷いモノだと、自動車中隊が、150個中隊増設の要請に対して、上級司令部からの内示が26、実際に増設されたのが18、輜重兵中隊が、60個中隊増設の要請に対して、上級司令部からの内示が14、実際に増設されたのが12)。つまり、元から補給が間に合わない事が、誰の目にも明らかな状態で強行された作戦だったのだ。


ちなみに、インパール作戦の目的の1つは、中国国民党軍への補給路を絶つと言うものである。つまり、敵の補給路を絶つ為の作戦なのに、肝心の自分達の補給が不十分どころでは無い状態だったのだ。


もっとも、牟田口廉也の上官である河辺正三ビルマ方面軍司令官が作戦中止を考え出してから、実際に作戦中止命令が出るまで(主として政治的ゴタゴタにより)2ヶ月近くかかるなど、インパール作戦の悲惨な状況は、牟田口一人のせいとばかりは言えない。とは言え、それは、牟田口廉也以外にも駄目な奴は山程居た、そもそも、当時の日本の政府・軍部そのものが末期的状況にあった、と言うだけであり、牟田口廉也を免責する理由にはならない。なってたまるか。


戦後

連合国軍から戦犯として一応は逮捕されたものの、あっさり不起訴処分となり、戦時中の責任は問われなかった。これは連合国に対する罪を問うものであり、日本兵をどんなに死なせようが、そのこと自体の責任は問題とはされなかったからである(まあこれは当然と言えば当然)。前述した東條や木村といった東京裁判で裁かれたものを除き、牟田口など無謀な作戦をゴリ押しし自軍に多大な被害を及ぼした軍人の多くは戦後もおとがめなしのまま天寿を全うしている。


牟田口本人もインパール作戦に参戦した兵士達の生き残りやその遺族から恨まれていることは知っており、作戦の失敗を反省するような言葉を一応は口にしていたものの、当然本心では部下のせいであると考えていた。昭和37年にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡を受け取ったことをきっかけに、「自分の作戦は正しかった。部下のせいで失敗した」と主張するようになる。あまつさえ家族に遺言を残し、自分の行動を弁解するパンフレットを葬儀の席で配布させ死んでからも弁解と言いわけに終始した。


ただし、後に戦史研究家の関口高史氏が、当日葬儀に参加された方や牟田口の遺族、葬儀の受付をされた方に確認を取ったところ、少なくとも葬儀でパンフレットを配布した事実はないとのこと。

「戦史叢書の付録冊子に、生前にその種のチラシを自ら配っていたという記述があった」という情報もあり、生前に自己弁護のチラシを配っていた話に尾ひれがついて伝わった可能性が高い


上記の行動から、能力面のみならず人格面でも評価は最低である。


インド国民軍やイギリス軍の一部将兵の評価を根拠に「補給途絶により撤退のやむなきに至ったが、インド独立の礎となった」という評価もあるが、リップサービスを真に受けた結果であることは言うまでもない。


そのリップサービスも、日本に同調しつつ覇権主義を警戒していたマハトマ・ガンディーなどの穏健な非暴力主義者への牽制も考慮すべきである。一例として、ガンディーの運動がイギリス本土でも話題になり、議会に招待して演説させるべしという世論が高まった。その際、イギリス政府はガンディー以外の独立運動家を主義主張や勢力の大小を問わずに数十人招待し、それでもって議会演説の時間を変えずに細分化させることで、ガンディーをその他大勢の一思想家に貶めて政治的に封殺している。戦後も英国(と宗派対立を煽った一部インド人)においてはガンディーの功績を過小に見積もる傾向があり、その代わりとしてインパール作戦やインド国民軍が引っ張り出されている可能性も捨てきれない。


余談ながら、インパール侵攻の政治的見地からの評価はあるものの、先に記述したとおり侵攻作戦を立案したのは大本営と南方軍上層部であり、牟田口は自分が行かなくて済むようになってから賛成しだしたに過ぎないので、これを牟田口の評価と結びつけるのは相当の無理があるだろう。


そんな牟田口も悄然として、参謀を務めていた藤原岩市少佐に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した事がある。これに対し藤原参謀は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません」と返し「誰も止めないから勝手に腹を切って下さい」と公然と見限ったという。実際に牟田口は自決しておらず、本気の発言ではなかったことは明白である。


ただしその藤原岩市も参謀としてインパール作戦の実行を強く推した一人であり、本来なら牟田口を責められた立場ではないのである。藤原は戦後には責任逃れを図るため「インパール作戦失敗は牟田口に反感を持っていた三師団長たちが職責を全うせず個人的な感情を容れて部隊をわざとゆっくり進ませたせい(統制前進説)」と戦史家に偽証しており、戦後しばらくの間はインパール作戦について扱った本でも柳田・山内・佐藤ら3人を批判する内容が書かれていた。上記のエピソードも牟田口の無能さを強調したい藤原による創作が入っているのではないかと疑われるが、牟田口も特に反論してないところを見ると事実なのであろう。


ちなみに、太平洋戦争時の帝国陸軍には、牟田口や木村以外にも規格外れの無能・ダメ軍人(富永恭次や花谷正、立花芳夫など)や、勝手に陰謀をめぐらせ戦争を始めた問題児(辻政信石原莞爾など)の例が大変多い。これらの将官クラスまで出世し、後世に名指しで批判されることとなった将校以外にも、無能/パワハラ/問題児系の現場司令官や参謀はかなり多かったという。このようなダメ将校が量産された要員として、①陸幼→陸士→陸大 と中学生くらいの年代から同質的な環境で純粋培養したこと、②「模範解答」を丸暗記するだけの受験勉強(陸幼・陸士)で将校を登用したこと、③陸幼・陸士・陸大で精神力偏重の教育が展開されており、そこで良い成績を納めた者から順に出世する人事制度 の3点を指摘する著作もある。そのような視点で見ると、牟田口は、陸軍将校のある意味での標準形にしてなのかもしれない。


もちろん、硫黄島の戦いで奮戦してアメリカ軍を苦戦させた栗林忠道中将や、インドネシアやラバウルにて占領統治と防衛指揮で見事な手腕を見せた今村均大将、上層部の無茶な講和条件に翻弄されつつも中国国民党指導部と密接な信頼関係を築き上げて敗戦後に200万人以上の在中日本人帰還を成し遂げた今井武夫少将など、有能かつ真っ当な陸軍将官も存在していた。しかし、真っ当ゆえに自分から部下の不祥事の責任を取って職務を解任されたり、陸軍上層部主流派から疎まれて左遷させられたりと、おおむね冷遇されている者ばかりであった。


日中戦争が始まった時も、牟田口は現場司令官でしかなかったのだが、当時の陸軍が一現場司令官の判断に引っ張り回され、上層部がこれを追認するグダグダな組織になっていたという一例。この陸軍の欠陥をついて確信犯的に暴走し、やりたい放題をしでかしたのが石原莞爾や辻正信である。こんな無能やキチガイが昇進する昭和期の帝国陸軍って一体....。


なお、栗林を始め第二次大戦の将校の何人かは戦後になって死没者追叙の形で勲章が贈られているが、牟田口など多くの存命将校にそのような栄典授与の機会は無かった。

戦後になっても戦前に貰った各種勲章を佩用した牟田口の写真が残されているが、そこには将校として授与されたであろう瑞宝・旭日の星章(勲二等と思われる、首元にも旭日章が掛かっており、首掛けと胸部星章を同時に佩用するのは勲二等のスタイル)が写っている。しかし、キャリア軍人の到達点とも言える勲一等(大綬章)は確認出来ないし、戦功による最高栄誉であろう功一級金鵄勲章もまた叙されていない。

牟田口の叙勲記録、特に戦後はあまり明らかではないが、少なくとも存命の内にその名誉を完全に回復させる気は日本政府にも無かったのは確かであろう。逆に剥奪されなかったのかという意見もあるが、これもまた他の将校との対応の差が出ることを考えると難しいものがあっただろう。


戦時中、現地に口ずさまれた牟田口の評価の一つに「牟田口閣下のお好きなものは、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女)、三に新聞ジャーナリスト」というものがある。無謀な作戦の立案の理由の一つには、どうしても勲一等や功一級が欲しかったからだ、と主張されることもあり、少なくとも我々が確認出来る限りではその野望にだけは至らなかったことが、せめてもの国家からの報いと言うべきなのであろうか。

なお、戦後イギリスのブラックジョークに「牟田口は無謀な作戦を強行し、日本軍三個師団を壊滅に追い込んだから、勲章を与えるべき」というものがある。当然ジョークであり、実際にイギリスから叙勲されたという経歴も無いが、これもまた勲章好きの牟田口にとってこの上無い皮肉となっている、とも言える。


牟田口の息子は父に対して徹底して反発し、その経歴を丸ごと否定する程であったが、「記録」として父・廉也が叙された数々の勲章を捨てずに遺したままにしている。これは後に更にその息子(廉也の孫)によって公開された。


牟田口コピペ

インパール作戦が失敗に終わり、命からがら引き上げてきたズタボロの兵士達に向かって、彼が演説したという内容である。


諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる。毛唐の奴らに日本が負ける物か。絶対に負けやせん。必勝の信念をもってやれ。食物がなくても命のある限りやりぬくんじゃ。神州は不滅であることを忘れちゃいかん…

もはや中身の無さは語るまでもないが、牟田口がこの説教を垂れている間にも、栄養失調や病気でやせ細り疲弊しきった兵士たちはバタバタと倒れていったという。


上記の演説に凝縮される「現場でズタボロになっている実務者達に、後方でラクをしている口だけ人間が偉そうに非現実的な根性論をたれる」構造は、ブラック企業をはじめとする現在の諸問題にも通じるところがある。医療崩壊が問題になった頃はよく医療系、科学系のブログで上記を改変したコピペが出回った。


余談

  • 海軍にも同姓の軍人牟田口格郎がいた。

こちらは軽巡洋艦・大淀の艦長として礼号作戦北号作戦などに参加した歴戦の猛者であり、戦艦伊勢の艦長に就任後、呉軍港空襲にて戦死した。最終階級は大佐で、死後少将に昇進している。

牟田口廉也とは出身地も違い(東京都出身)縁戚関係もないが、同姓で陸軍の牟田口が有名になりすぎたために風評被害を受けている。

  • パワポケ2には彼をモデルにした無能軍人(任月参謀長)が登場し、資材運搬用の豚とともに敵陣地に侵攻する「トンカツ作戦」を主導した。豚の世話の手間や、豚が行軍の邪魔になることを指摘した主人公に対して「わしのすばらしいアイデアに文句をつける気か!」と叱責し、主人公に豚集めを命じた。結局、戦闘開始直後にブタが逃げ出してしまい「トンカツ作戦」は大失敗に終わる。

関連項目

日本軍 大日本帝国陸軍 愚将 無能 無能な働き者

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