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牟田口廉也の編集履歴

2023-03-26 08:26:43 バージョン

牟田口廉也

むたぐちれんや

牟田口廉也は、大日本帝国陸軍の軍人であり、最終階級は中将。勇猛な司令官として各地で戦功を重ねたが、インパール作戦の敗北とその後の言動により激しく批判され、愚将として評価されている。

概要

大日本帝国陸軍中将。

1888年(明治21年)10月7日生まれ、佐賀県佐賀市出身。

陸軍大学校(29期)卒。


典型的なエリート軍人官僚として昇進を重ねたが、「皇道派」(天皇親政による中央集権的な国家を理想とする大日本帝国陸軍内派閥)に所属していたので二・二六事件への関与を疑われて、満州に左遷され、これ以降は実戦経験が皆無であったのにも関わらず、勇猛な前線指揮官として盧溝橋事件太平洋戦争開戦時のマレー作戦、シンガポール攻略戦、ビルマ攻略戦で戦功を重ねていく。シンガポール攻略戦では同じ「皇道派」であった「マレーの虎」こと山下奉文将軍に信頼されて、重要な戦線を任されるなど、猪突猛進で最前線に立って敢闘するなど、当時の大日本帝国陸軍軍人の理想像であったことから、陸軍上層部の信頼も厚く、軍司令官まで昇り詰める。


しかし、本来の強引で思い込みの強い性格が災いし、インド国境の街インパールを占領して、インドの英国植民地支配を動揺させて、日本側に寝返らせることを究極目的としたインパール作戦を立案。無理に無理を重ねた杜撰な作戦計画で、良識ある参謀らから多数の反対意見があるも、耳を貸すこともなく突っ走り、また牟田口を高く評価していた陸軍上層部の後押しもあって、昭和19年に杜撰な作戦はそのまま実行され、麾下の第15軍は、多大な死傷者を出してを壊滅状態となって、ビルマ戦線崩壊の崩壊の元凶ともなった。この「インパール作戦」の作戦立案から敗北に至るまでの経緯もなかなか酷いもので、帝国陸軍の愚将の1人として語り継がれている。


経歴

エリート軍人官僚として

佐賀県出身、幼少から利発であり、この時代のエリートコースとして軍人の道を歩んだ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校も一発合格し(陸軍大学の入試は難関で数回の受験は当たり前だった。終戦時の陸軍大臣阿南惟幾大将も4回目の受験でようやく合格したほど)、将来が嘱望されたが、陸大卒業の席次は中の下で、配属は作戦や予算といった花形部署ではなく、どちらかというと日陰部署である兵站となった。しかし、これがのちの牟田口の経歴に幸いする。


牟田口が参謀本部の兵站部署に配属されたときは、日本軍はシベリア出兵の泥沼にはまっており、牟田口は兵站任務の調査としてシベリアにスパイとして派遣されて、現地情報の諜報活動に従事した。その後に日本人居留民が赤軍ゲリラに虐殺された尼港事件が発生したが、牟田口はシベリアの状況に詳しかったことから、現地の状況調査と居留民保護のため、部隊を指揮して事件のあったニコラエフスクに向かったが、既に居留民は全員殺害されていた。その後もしばらくは現地で活動を続けて、危険な任務を手際よく行ったと高く評価されることとなった。


さらに同郷だった真崎甚三郎の影響で、陸軍内派閥の「皇道派」に属したことによって、さらに出世街道をばく進していくが、そんな牟田口の軍人人生の岐路となったのが、「皇道派」の青年将校たちが決起した二・二六事件であった。牟田口は計画に直接関与したわけではなかったが、反乱首謀者たちから人望があって親しくしていたことから関与が疑われ、他の山下奉文らの「皇道派」将校と共に左遷されることとなり、陸軍中央の参謀本部から支那駐屯歩兵第1連隊の連隊長に転任となった。これ以降、牟田口には前線指揮の経験・スキルは、ほぼ0だったのにも関わらず、勇猛な前線指揮官としてキャリアを積んでいくこととなった。


盧溝橋事件

牟田口が中国に来たときは、日本軍が戦力増強を進めていることに蒋介石の国民党政府が激しく反発しており、一触即発の状況となっていた。支那派遣軍が大幅増強された理由は、中国軍への対抗ということもあるが、その他に「中央の言うことを聞かなくなった関東軍に対する牽制の為」とする説も有る。

北京にある盧溝橋を挟んで両軍が対峙しており、日本兵が中国兵から暴行を受けるなど小競り合いも怒っていたが、そんなある日、牟田口の上官となる河辺正三旅団長が作戦会議のため、部隊の指揮を牟田口に一任して出張した。


その夜、日本領事館公舎内にある軍官舎で就寝していた牟田口の元に前線指揮官より、演習中に中国軍から発砲されて兵士が一人行方不明になったとの報告があった。(のちにこの兵士はトイレに行っていたということが判明)

牟田口が前線指揮官に調査を命じると共に、現地政府関係者と部下将校に中国側との接触と事情聴取を命じた。やがて盧溝橋付近に展開している中国軍司令部から、自分らは発砲していないとの回答があり、牟田口が訝しがっていると、前線指揮官から再度報告があり、今回は複数回にわたって、日本軍側を狙って射撃してきたため、中国軍側が意図的に攻撃してきていることは明らかだとして反撃の許可要請があった。


牟田口は上官の河辺もいないことから、当初は穏便に済まそうとの思いもあったが、度重なる挑発行為に元来の強気な性格もあって、前線指揮官に反撃を指示した。このときは、上官の河辺が慌てて帰ってきて、牟田口に停戦を命じたため、一旦は戦闘が収束したが、一度、火が付いてしまった牟田口がこれで収まるはずもなく、中国軍が挑発してきたらすぐに反撃できるように戦闘準備を整えさせており、最初の激突から数日後、現地部隊同士で停戦に向けて協議をしていたのにも関わらず、牟田口は再度の交戦を命じた。


自分の意志に反して部下が暴走していることに驚いた河辺は慌てて牟田口の元を訪れたが、牟田口のプライドに配慮して、黙っているだけであったので、牟田口は河辺の考えを察したもののそれをあえて無視して戦闘中止をしなかった。その後に牟田口は前線に出ると、自ら軍刀をかざして敵陣に斬りこんだという。

後のインパール作戦で早々に戦場から離脱し「腰抜けチキン」扱いされることとなる牟田口も、勝ち戦で意気軒昂のときは、佐賀県出身だけあって、「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり。二つ二つの場にて早く死ぬはうに片づくばかりなり」に忠実なシグルイ精神を見せつけて、勇敢な指揮官として連隊将兵に慕われていた。


ちなみに牟田口が連隊将兵に慕われていたのは、勇敢さだけではなく、自分の勘違いを部下将校に頭を下げて謝罪したり(今日の価値観では信じられないが、当時は軍の上官が部下に頭を下げることなどほぼなかった)、連隊将兵が備品を大量に亡失してることを一切咎めることなく、自ら派遣軍司令部に行って「自分が何でも罰を受けるので亡失した備品を補充して欲しい」と要請したりして、「頼りがいのある上官」であったからである。これは、初の部隊指揮官として部下の人心掌握をするために牟田口が意識的に「頼りがいのある上官」を演じたものであるが、この後、軍内で昇進を重ねていくことによって、本来の傲慢な性格によって、部下へのあたりも次第に酷いものとなっていく。


牟田口の独断専行は本来であれば命令違反の重罪であったが、なんやかんや言っても牟田口を高く評価して可愛がっていた河辺は「わしが命令した」と牟田口をかばったため、命令違反は不問となった。


その後、現地軍同士で一旦は休戦協定が結ばれたものの、既に陸軍上層部は中国大陸での戦線拡大を決めており、続々と援軍を送り込むことを決定していた。また、盧溝橋での発砲も、戦後に中国共産党による謀略であったという説も浮上しており、いずれにしても両軍の激突は時間の問題であった。

そのような状況で、牟田口の強気な作戦指揮と河辺の曖昧な部下統制で始まった小競り合いが全面衝突(日中戦争)の引き金となってしまった。日中戦争が無ければ太平洋戦争も無かった事を考えると、大日本帝国を滅ぼした元凶は、結果から見れば、この河辺と牟田口のコンビであったと言っても過言ではないだろう。


なお、後の牟田口廉也の言動からすると「自分のせいで戦争が始まり、国に迷惑をかけた」と言う自責の念は持っていたようであるが、下手に自責の念を持っていたせいで、償いとして、日本に有利な条件で戦争を終らせる事が可能な程の戦果をあげなければならないと考えるに至り、後のインパール作戦強行に繋っていく。


シンガポール攻略戦

連隊長として戦功を積んでから、関東軍での勤務を経て、昭和14年には陸軍予科士官学校長として内地勤務になった。牟田口は前線指揮官よりも、かつての陸軍中央でのエリート官僚としての栄達を望んでおり、校長として学生の教育だけでなく、校舎の改築などの教育設備の充実などに、官僚時代に培った実務能力でテキパキと処理して、陸軍上層部にアピールするが、やはり元「皇道派」というレッテルと連隊長としての武勇伝により、第18師団長として再度の前線勤務を命じられた。


総理大臣兼陸軍大臣の東條英機は太平洋戦争開戦にあたって、最も重要な戦争目的であった南方資源地帯獲得のため、東南アジアの欧米植民地攻略部隊の人事を最優先とするよう、部下で忠実な僕であった富永恭次陸軍人事局長に命じた。

そこで軍司令官として任じられたのが、名将・猛将として陸軍内に名を轟かせていた山下奉文今村均飯田祥二郎本間雅晴の各中将であったが、軍司令部の幕僚や各師団長にも優秀な人材が集められたことから、盧溝橋で活躍した猛将牟田口にも白羽の矢が立ったものである。


牟田口の第18師団は、大英帝国植民地マレーシアシンガポールの攻略を目指す、山下率いる第25軍の隷下となった。シンガポールは巨費を投じて構築されたジブラルタルと並ぶ大英帝国不落の要塞と評されており、この攻略が南方作戦成否の命運を左右すると考えられていた。

山下と牟田口は同じ「皇道派」として、二・二六事件のとばっちりで同じ時期に中国大陸に飛ばされるなど、同じ境遇であったことから懇意にしており、山下は牟田口と精強部隊と評価されていた第18師団に全幅の信頼を置いて、師団の一部をマレー半島コタバルからの奇襲上陸させたのち、師団主力は時期を見て英軍防衛戦の背後に敵前上陸させて、一気にマレー半島の英軍を殲滅させようと計画していた。


第18師団の佗支隊は、山下の期待に応えて見事にコタバル上陸に成功、その後も猛烈な勢いでマレー半島を進撃したことから、皮肉なことに牟田口の師団主力が上陸前にマレー半島の勝敗は決してしまい、牟田口は続くシンガポール攻略作戦から戦闘に加わった。その間、牟田口は実戦経験が乏しい第18師団の将兵に対して「シンガポール要塞を舐めるな」などと、直に演習を指導しており、精強部隊であった第18師団の更なる強化を図っている。


ジョホール水道を渡ってのシンガポール上陸作戦では、師団主力の戦闘に立って部隊を指揮し、上陸直後には敵兵の投げた手榴弾で負傷するも、血まみれになりながら部隊指揮を続けた。その後も応急処置だけで前線に立ち続け、師団を視察にきた第25軍参謀辻政信からその勇敢さを感心されている。

その後も重要軍事拠点ブテキマ高地の攻略や、港湾設備、軍事設備が集中するケッペル港などへ進撃した。特にケッペル港では英軍守備隊が最後の防衛拠点として、激烈な反撃を行っており、砲撃は攻めている日本軍の数倍の砲弾数を第18師団に浴びせ続けていた。


英軍の激しい抵抗を前に、牟田口は自ら2個連隊を率いてケッペル港の夜襲をかけると主張したが、この時は師団参謀と辻が泣きながら制止したためどうにか諦めたという。このように、今日に刷り込まれた「腰抜けチキン」という牟田口の印象からは信じられない武勇伝が続くが、勝ち戦で乗りに乗っているときは気持ちも高まって勇敢になるものの、敗戦で落ち目になると臆病になるというのは、ある意味人間味溢れる(笑)とも言えるだろう。


それからまもなくしてシンガポールは陥落し、ここでも牟田口はマスコミなどから猛将として称えられることとなった。その後第18師団はビルマ(現在のミャンマー)に転戦、ここでも牟田口は最前線に立ち続け、前線指揮官は牟田口が乗馬で先頭を突っ走るのでそれを追うのに必死であったという。第18師団は英軍最後の軍事拠点マンダレーを攻略し、英軍をビルマから完全に駆逐した。ここでも牟田口の武名は高まったが、ここが牟田口の栄誉の頂点となり、これから先は転げ落ちるかのように評価を落としていくこととなる。


インパール作戦

インパール作戦ではビルマ・インド国境の険しい山脈を攻略するにもかかわらず、補給を軽視。現地でを調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」と称する作戦を立案した。(なお、牛用の餌は荷物に含まれていない)


当然、牛が山を越えられるわけもなく、現地の事情を知る南方軍司令官や第15軍の参謀、隷下師団はほぼ全員が、補給が不可能という理由から猛反対するが、牟田口はビルマ方面軍の河辺正三大将(盧溝橋事件時の牟田口の上司)に対し「支那事変はわしの一発で始まった。だからインパール作戦を成功させ、国家に対して申しわけが立つようにせねばならん」と作戦実行を強硬に主張した。


なお、この点に関しては、牟田口廉也にはこれっぽっちも責任が無いが、当時の日本軍は、戦争中でありながら定期の人事異動を行なう、と云うお役所仕事にも程が有る真似を平気で行なっており、インパール作戦の立案や準備に関わっていた者が人事異動で居なくなり、事情をよく知らない者が後任になると云う冗談のような事態も起きてしまった。

もう、この辺りから暗雲が立ち籠め始める


余談ながら、牟田口が第18師団長(=前線で指揮を取らざるを得ない役職)時代にインパール方面への攻撃計画が南方軍および大本営から立案された際(昭和17年立案の第21号作戦)、彼は「補給が困難である」ことを理由に猛反対していた。元部下などの証言から、牟田口は士官時代から補給などの後方支援を理解せず軽視している(もっとも、陸海問わず一部の例外を除いて旧日本軍に共通する傾向である)のだが、自分が最前線に向かうのは無謀すぎることを認識できる程度の理解はあったようだ。


現場の将兵にとって不幸だったのは、東條英機をはじめ無謀な作戦を中止させるべき存在であるはずの軍上層部が、悪化する一方であった戦局の打開をこの作戦に期待して、牟田口を制止するどころか後押ししてしまったことである。


牟田口は作戦が始まると、補給を心配する第一線部隊に対して「ビルマにあって、周囲の山々はこれだけ青々としている。日本人はもともと草食動物なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食糧に困るなどというのは、ありえないことだ」と大真面目に訓示し、第一線部隊を心底呆れさせた。現代でも受験勉強一筋で純粋培養された、いわゆる「エリート」の中には、著しく一般常識を欠く者が少なからず存在するが、当時の陸軍上層部でも事情は同じだったのである。が、逆にここまで常識外れの発言となると逆に清々しい。

ピンとこない人のために捕捉すると、我々が普段食べている植物性の食物は人類の歴史を通して無数の植物の中から食用・栽培に適したものの中から選ばれ、長い時間をかけて作物化と収穫量向上と過食部分の肥大化を目的とした品種改良を重ねたごく一握りのものであり、何万という人間の栄養はそこらへんに生えている草ごときで補えるものではない。まあ、我々が日常生活で野草を採って食べたりしないことを考えると、お判りいただけるだろう。


牛はチンドウィン河の渡河中に半数が溺死し、残りもインパール山中で餌にするべき草が無く次々と倒れた。兵士が携行していた食糧が尽きると、前線ではほとんど食べるものがなくなった。先述の牟田口の非常識な訓示でも、現場では実行せざるを得ず、タケノコ、野イチゴ、キノコ、ミミズなど食べられると判断されたものは何でも口にするようになった。最終的には、戦死した戦友、あるいは死にかけた戦友の肉の売買まで発生した。この間、牟田口自身ははるか400km離れた後方のリゾート地・メイミョウにある指令本部でのんびり過ごしていた。なお、前線のコヒマからメイミョウまでは金沢から仙台もしくは九州の北端と南端くらいの距離(早い話が日本で言うなら県をいくつもまたぐ位の距離)がある。


インパール作戦開始後も、牟田口は、夕方になれば芸者遊びに現をぬかしていた。当地の芸者は性的サービスも伴っており、今日で言うところの風俗嬢のような面も兼ね備えていて、大阪の飛田新地あたりから呼んでいたようだ。当地の兵站病院に勤務していた兵士の証言に「飛田遊郭から来た牟田口専属の芸者が妊娠し、手術を受けた」との旨のものがあり、前線での兵士の苦闘を尻目に本人は相当ハッスルしていたようだ。なお、牟田口の名誉のために言っておくと、安全な後方で遊興していたのは彼だけでなく、第15軍あるいはビルマ方面軍幹部に共通していた。彼らは毎日、定時(17:00)を過ぎると、仕事を放り出して一目散に「清明荘」(メイミョー)あるいは「萃香園」(ラングーン)と呼ばれた料亭に向かい、芸者とハッスルしていたという。インパール作戦での日本軍の行軍・戦闘は夜間が多かった(制空権がない日本軍は昼間にほとんど行動できなかった)ため、まさに現場の兵士がもがき苦しんでいるそのときに、幹部は戦況判断や指示出しもせずに遊興の限りを尽くしていたのである。挙句の果てには、久野村第15軍参謀長のように他の幹部との芸者の取り合いで暴力事件を起こす者まで出る始末。当地の陸軍上層部全体が腐っていたのである。


前線では、補給が途絶し、戦闘以前にマラリアなどの熱帯性伝染病や飢え・激しいスコールで地獄絵図と化していた。これを見かねた前線の指揮官、第31師団長佐藤幸徳中将が何度も撤退を進言するも聞き入れられなかったため独断で部隊を退却させるという前代未聞の事態に発展した。

第33師団長柳田元三陸軍中将、第15師団長山内正文陸軍中将も撤退を進言した。


インパール作戦は誰が見ても失敗すべくして失敗した作戦にもかかわらず、本人は「勝手に退却した佐藤が悪い」と主張。佐藤の独断退却は抗命罪で死刑になることを覚悟しての行為であったが、牟田口は軍法裁判で自らの責任を追及されることを恐れ、佐藤を精神病ということにしてジャワ島送りにした。現場の司令官が師団長を解任する権限はなく、牟田口による解任は大元帥=天皇の権限を犯す行為である。(当時の陸軍では、陸軍省と陸軍参謀本部は同格の機関であり、現場指揮などの「軍令」は陸軍参謀本部の管轄、人事などの「軍政」は陸軍省の管轄であった。つまり、牟田口がやった事は、同じ陸軍とは言え、別の組織の管轄事項を犯す事であった。しかも、師団長を任命したのは、形式的には大元帥陛下=天皇である。なお、牟田口のこの行為が「統帥権干犯」と呼ばれる事が有るが、統帥権は正確には天皇の軍令に関する権限・権能の事であり、牟田口のこの行為は大元帥=天皇の大権への干犯ではあっても、統帥権干犯とは言えない)

※なお、佐藤幸徳も、昭和1桁年代には軍事クーデターを目論んでいた桜会と云う結社の創設に関わり、また、彼自身が書き残した文章を見る限り傲岸不遜で他人を見下す傾向が見られ、前線に慰安所を作ろうとしたり、宴会での猥談があまりに酷過ぎて、部下の宮崎繁三郎と対立していた、と云う説も有る。牟田口と佐藤の対立は、単純な阿呆とマトモ・悪と潔白の対立ではなく、人格的に問題がある佐藤と比較しても、牟田口は最低最悪の愚人と見做さざるを得ない、と解釈すべきかもしれない。


また牟田口は上記の柳田・山内をも更迭。山内はこの作戦中に結核に感染しており、日本に帰る事が出来ないまま病死した。山内は「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」という恨みに満ちあふれた言葉を残している。三師団長の更迭後、後任には牟田口と同じ豪傑タイプの将軍が配置され、これらの将軍の無謀な作戦指導により第一線部隊はさらに苦しむこととなった。新第33師団長となった田中信男少将は、やがて牟田口のガバガバな作戦指導に気づき「わしは長いこと満州におって、あすこにきている日本人どもが情なくて、あいそをつかしておった。今度、南方にきたら、やはり満州にいたと同じ日本人(牟田口のほか花谷正辻政信と思われる)が、同じように情ないことばかりしておる。これじゃ、戦には勝てん。」と嘆いた。


作戦の失敗が確実になると司令部の庭に祭壇を築いて戦勝祈願の儀式を始め、参謀を呆れさせた。

このような状態で人の意見を全く聞かなかったため、第15軍の幕僚や参謀たちはとっくに牟田口を見捨てていた。


インパール作戦の顛末

インパール作戦の投入兵力約9万人に対して、戦死・病死・餓死で約3万人、他にも傷病者が同数以上出ており、まともに戦える将兵はせいぜい2万人程度と、すなわち事実上の全滅である(ただし、インパールでの犠牲者数は諸説ありよく分かっていない。作家の林譲治氏は著書『太平洋戦争のロジスティクス』において、この事を自軍の損害を把握する能力を失なったほどの末期的状況と評している)。彼らは、牟田口・東條をはじめとする陸軍上層部によって殲滅されたと言っても過言でない。インパールからビルマに帰る道は日本兵の白骨死体で埋め尽くされ、「白骨街道」と呼ばれた。


なお、インパールの将兵にとってさらに不運だったのは、牟田口が更迭されたあとの後任、木村兵太郎中将も牟田口に匹敵する無能だったことである(早い話が、木村は、東條英機の腰巾着の1人であり、東條内閣時代は陸軍次官→軍事参議官兼兵器行政本部長を勤めていたのだが、1944年7月末の東條英機の失脚に伴ない、前線に飛ばされたのである。似た様な運命を辿った人物としては、東條内閣時代に陸軍人事局長→陸軍次官を勤め、後に特攻隊の部下を見捨てて敵前逃亡した富永恭次が居る)。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、ガタガタと手が震えるほど取り乱し、お抱えの芸者とともに一目散にタイに逃亡してしまう(ちなみに、木村はこの後大将に昇進した)。ビルマに残っていた日本軍やインド国民軍の将兵、在留邦人、傷病兵などは見捨てられた。インパールの生き残りには、イギリス軍に追い立てられ、連合国側に寝返ったビルマ国民軍に襲撃される悲惨な逃避行が待っていた。こうして、ビルマ戦役における日本軍の戦死者は、最終的に14万4千人に達した。


さらに言えば、第15軍は、インパール作戦開始前に、上位組織であるビルマ方面軍および南方軍に対して、補給・輜重・衛生・病院・工兵(補給の為の道路施設など)などの部隊の大幅増設を要請しているが、無い袖は振れる訳もなく、増設された部隊は要求の2割程度となっている(酷いモノだと、自動車中隊が、150個中隊増設の要請に対して、上級司令部からの内示が26、実際に増設されたのが18、輜重兵中隊が、60個中隊増設の要請に対して、上級司令部からの内示が14、実際に増設されたのが12)。つまり、元から補給が間に合わない事が、誰の目にも明らかな状態で強行された作戦だったのだ。


ちなみに、インパール作戦の目的の1つは、中国国民党軍への補給路を絶つと言うものである。つまり、敵の補給路を絶つ為の作戦なのに、肝心の自分達の補給が不十分どころでは無い状態だったのだ。


もっとも、牟田口廉也の上官である河辺正三ビルマ方面軍司令官が作戦中止を考え出してから、実際に作戦中止命令が出るまで(主として政治的ゴタゴタにより)2ヶ月近くかかるなど、インパール作戦の悲惨な状況は、牟田口一人のせいとばかりは言えない。とは言え、それは、牟田口廉也以外にも駄目な奴は山程居た、そもそも、当時の日本の政府・軍部そのものが末期的状況にあった、と言うだけであり、牟田口廉也を免責する理由にはならない。なってたまるか。


戦後

連合国軍から戦犯として一応は逮捕されたものの、あっさり不起訴処分となり、戦時中の責任は問われなかった。これは連合国に対する罪を問うものであり、日本兵をどんなに死なせようが、そのこと自体の責任は問題とはされなかったからである(まあこれは当然と言えば当然)。前述した東條や木村といった東京裁判で裁かれたものを除き、牟田口など無謀な作戦をゴリ押しし自軍に多大な被害を及ぼした軍人の多くは戦後もおとがめなしのまま天寿を全うしている。


牟田口本人もインパール作戦に参戦した兵士達の生き残りやその遺族から恨まれていることは知っており、作戦の失敗を反省するような言葉を一応は口にしていたものの、当然本心では部下のせいであると考えていた。昭和37年にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡を受け取ったことをきっかけに、「自分の作戦は正しかった。部下のせいで失敗した」と主張するようになる。あまつさえ家族に遺言を残し、自分の行動を弁解するパンフレットを葬儀の席で配布させ死んでからも弁解と言いわけに終始した。


ただし、後に戦史研究家の関口高史氏が、当日葬儀に参加された方や牟田口の遺族、葬儀の受付をされた方に確認を取ったところ、少なくとも葬儀でパンフレットを配布した事実はないとのこと。

「戦史叢書の付録冊子に、生前にその種のチラシを自ら配っていたという記述があった」という情報もあり、生前に自己弁護のチラシを配っていた話に尾ひれがついて伝わった可能性が高い


上記の行動から、能力面のみならず人格面でも評価は最低である。


インド国民軍やイギリス軍の一部将兵の評価を根拠に「補給途絶により撤退のやむなきに至ったが、インド独立の礎となった」という評価もある。リップサービスと評する者もいるが、極東イギリス軍総司令官で日本を嫌っていたイギリス王室の縁戚でもあるルイス・マウントバッテン将軍(戦後に昭和天皇が渡英した際の晩餐会の出席を拒否したぐらいに反日であった)も「ビルマ戦がアジア解放の狼煙となったことは、この忘れられた大戦争のかくれた真の性格であり、もっとも重大な歴史的事実であったのだ」と述べ、スリムなどの軍人やイギリスの歴史研究家の中でもそう評価している人もいるので、完全なリップサービスというわけではないようである。


この意見はインド本国でのそれなりに存在感を示してきているようであるが、国際対立が激化している昨今で、従来のインド独立の原動力として評価されてきたマハトマ・ガンディーなどの穏健な非暴力主義に対して、大英帝国と激しく戦い、最後はインド国民軍を指揮してインパール作戦で日本軍と苦闘した独立運動家スバス・チャンドラ・ボースの武闘主義が再評価されてきたことも関係しているだろう。


2014年に成立したナレンドラ・モディ政権は特にボースの再評価を進めており、アンダマン諸島の1島にボースの名前をつけ、インド門の傍にボースの巨大な銅像も建てられた。そのボースが率いたインド国民軍が、牟田口の杜撰な指揮下であっても勇敢に戦い続けたことはインド人の誇りにもなっており、戦後から今日まで高い人気を誇っている。


とはいっても、インドの独立とインパール作戦は間接的な関係はあっても、先に記述したとおり侵攻作戦を立案したのは大本営と南方軍上層部であった上に、第15軍はインドにどうにか足を踏み入れただけで撃退されており、「インパール作戦がアジアを解放した」などと牟田口の評価に結びつけるのは相当の無理があるだろう。


そんな牟田口も悄然として、参謀を務めていた藤原岩市少佐に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した事がある。これに対し藤原参謀は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません」と返し「誰も止めないから勝手に腹を切って下さい」と公然と見限ったという。実際に牟田口は自決しておらず、本気の発言ではなかったことは明白である。


ただしその藤原岩市も参謀としてインパール作戦の実行を強く推した一人であり、本来なら牟田口を責められた立場ではないのである。藤原は戦後には責任逃れを図るため「インパール作戦失敗は牟田口に反感を持っていた三師団長たちが職責を全うせず個人的な感情を容れて部隊をわざとゆっくり進ませたせい(統制前進説)」と戦史家に偽証しており、戦後しばらくの間はインパール作戦について扱った本でも柳田・山内・佐藤ら3人を批判する内容が書かれていた。上記のエピソードも牟田口の無能さを強調したい藤原による創作が入っているのではないかと疑われる。


この藤原に限らず、戦後になって旧軍人は責任のなすり合いをすることが多く、特に作戦で明らかな失敗をした上官たちに対しては、部下たちは自分の都合のいいような証言を残しているので、それはある程度差し引いて考える必要があるだろう。


これは、戦記や軍人伝記についても同様であり、今日の牟田口の悪評の大部分は、旧日本軍の醜悪さを世に広めんという使命感を抱いていたらしい“戦記作家”の高木俊朗のビルマ戦線渾身作の戦記小説5部作である、いわゆる『インパール5部作』の記述がソースであることが多いが、この高木も、戦時中は従軍記者としていわゆる大本営発表を垂れ流し国民を煽り、従軍記者として軍から特別待遇を受けていたのにも関わらず、戦後になって「わしは戦中から反戦思想」だったと主張しだして、旧軍人に対し、世間体を気にして反論できないことをいいことに、あることないこと書いて徹底的にバッシングし、高木も関係者も全て物故した今日になって、その記述があたかもすべてが史実かのように定着してしまったものも多い。(上記の「牟田口の遺言で自己弁護冊子が自分の葬式の参列者に配布された」というのも高木がソース)


その記述内には明らかに史実にないこともあったりするが、そもそも高木の作品は正確な戦記ではなく、あくまでもエンタメ重視の“ノンフィクション風戦記小説”(司馬遼太郎の歴史小説みたいなもの)であって、そもそもこれを歴史資料とするのが無理があるのだが、もはや、高木の創作によって定着した人物評を覆すのは困難であろう。


なお、栗林を始め第二次大戦の将校の何人かは戦後になって死没者追叙の形で勲章が贈られているが、牟田口など多くの存命将校にそのような栄典授与の機会は無かった。

戦後になっても戦前に貰った各種勲章を佩用した牟田口の写真が残されているが、そこには将校として授与されたであろう瑞宝・旭日の星章(勲二等と思われる、首元にも旭日章が掛かっており、首掛けと胸部星章を同時に佩用するのは勲二等のスタイル)が写っている。しかし、キャリア軍人の到達点とも言える勲一等(大綬章)は確認出来ないし、戦功による最高栄誉であろう功一級金鵄勲章もまた叙されていない。

牟田口の叙勲記録、特に戦後はあまり明らかではないが、少なくとも存命の内にその名誉を完全に回復させる気は日本政府にも無かったのは確かであろう。逆に剥奪されなかったのかという意見もあるが、これもまた他の将校との対応の差が出ることを考えると難しいものがあっただろう。


戦時中、現地に口ずさまれた牟田口の評価の一つに「牟田口閣下のお好きなものは、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女)、三に新聞ジャーナリスト」というものがある。無謀な作戦の立案の理由の一つには、どうしても勲一等や功一級が欲しかったからだ、と主張されることもあり、少なくとも我々が確認出来る限りではその野望にだけは至らなかったことが、せめてもの国家からの報いと言うべきなのであろうか。

なお、今日の日本のネットコピペなどで「牟田口は無謀な作戦を強行し、日本軍三個師団を壊滅に追い込んだから、勲章を与えるべき」というものがある。当然ジョークであり、実際にイギリスから叙勲されたという経歴も無いが、これもまた勲章好きの牟田口にとってこの上無い皮肉となっている、とも言える。


もっとも、敵将スリム中将からもっとも評価(笑)されていたのは第31師団長の佐藤であり、スリムの戦記には「(コヒマ防衛には)敵の師団長(佐藤のこと)の馬鹿さ加減が不可欠だった」「佐藤はチャンスを活かすことなく、コヒマに到着したら進撃を止めて塹壕に潜り込んでしまった」「空軍が敵師団司令部を爆撃して佐藤を殺害すると申し出てきたが、私は最も我々に協力的な将軍であるからとして必死に止めた」と散々な評価である。おそらくこの佐藤への酷評がいつのまにか牟田口の評価にすり替わった可能性が高い。なおスリムの戦記には牟田口は殆ど登場せず、対戦相手としては河辺を強く意識していたようである、つまりスリムからは牟田口はアウトオブ眼中だった。


牟田口の妻は名家の出身であり、軍人をあまり好んでおらず、子供に牟田口の後を追わせて軍人にする気はなかったという。そんな母親の気持ちをくんでか、牟田口の2人の息子は名門大学に入学して文人の道を歩み、企業人や研究家として大成している。なお、牟田口も息子たちが軍人とならないことに反対することもなく、好きなようにさせていた。戦後になって、息子たちは父親の悪評もあってか、反戦争主義となったが、父親の軍に関連する遺品を処分することはできず、それは後に更にその息子(廉也の孫)によって公開された。


牟田口コピペ

インパール作戦が失敗に終わり、命からがら引き上げてきたズタボロの兵士達に向かって、彼が演説したという内容である。


諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる。毛唐の奴らに日本が負ける物か。絶対に負けやせん。必勝の信念をもってやれ。食物がなくても命のある限りやりぬくんじゃ。神州は不滅であることを忘れちゃいかん…

もはや中身の無さは語るまでもないが、牟田口がこの説教を垂れている間にも、栄養失調や病気でやせ細り疲弊しきった兵士たちはバタバタと倒れていったという。

しかし、この牟田口の訓示のソースは高木の小説であり、これとほぼ同じ内容の訓示を第二次アキャブ作戦の際に、第55師団の歩兵団長桜井徳太郎少将が行ったとも高木は著作に記述しており、どちらかもしくは両方とも創作の可能性が指摘されている。


上記の演説の真偽はともかく、旧日本軍の悪癖を表現するものとしては説得性もあり「現場でズタボロになっている実務者達に、後方でラクをしている口だけ人間が偉そうに非現実的な根性論をたれる」構造は、ブラック企業をはじめとする現在の諸問題にも通じるところがある。医療崩壊が問題になった頃はよく医療系、科学系のブログで上記を改変したコピペが出回った。


余談

  • 海軍にも同姓の軍人牟田口格郎がいた。

こちらは軽巡洋艦・大淀の艦長として礼号作戦北号作戦などに参加した歴戦の猛者であり、戦艦伊勢の艦長に就任後、呉軍港空襲にて戦死した。最終階級は大佐で、死後少将に昇進している。

牟田口廉也とは出身地も違い(東京都出身)縁戚関係もないが、同姓で陸軍の牟田口が有名になりすぎたために風評被害を受けている。

  • パワポケ2には彼をモデルにした無能軍人(任月参謀長)が登場し、資材運搬用の豚とともに敵陣地に侵攻する「トンカツ作戦」を主導した。豚の世話の手間や、豚が行軍の邪魔になることを指摘した主人公に対して「わしのすばらしいアイデアに文句をつける気か!」と叱責し、主人公に豚集めを命じた。結局、戦闘開始直後にブタが逃げ出してしまい「トンカツ作戦」は大失敗に終わる。

関連項目

日本軍 大日本帝国陸軍 愚将 無能 無能な働き者

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