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富永恭次

とみながきょうじ

大日本帝国陸軍の軍人。 東條英機の腹心として大日本帝国陸軍の要職を歴任したのち、第4航空軍司令官としてフィリピンの戦いの航空作戦を指揮し、作戦中に前線のフィリピンから台湾に上部組織無許可の無断撤退をして非難された。
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略歴

陸軍軍人として

1892年(明治25年)1月2日 - 1960年(昭和35年)1月14日。長崎県出身。


父親は医者であったが、富永は軍人の道を選んだ。父親は医学部在学時代に友人がおこした暴力事件で、友人に連座して責任を負って退学処分となりながらも、復学して医者となり、後に地域の医師会会長になった程の苦労人であった。


陸軍士官学校では成績優秀で陸軍大学に進学したが、教官に東條英機がおり、このときから東條と親しくなる。

陸軍大学在学中に関東大震災が発生、富永ら生徒は被災者救護や復興支援に従事したが、その献身的な対応が国民に好意的に受け取られ大正デモクラシー以来の国民の反軍の風潮をかなり緩和することができた。

陸軍大学を優秀な成績で卒業すると陸軍少尉として任官し歩兵第23連隊中隊長として配属されたが、この頃に同郷の貞方セツと結婚している。セツの父親は英語教育者として著名な人物であり、富永が語学に長けるきっかけともなり、また産まれた子供たちも英語に親しんでいくこととなる。


昭和に入ると永田鉄山ら陸軍士官学校同期3人と永田らを慕っていた東條が、ドイツの保養地バーデンバーデンに集まり大日本帝国陸軍改革を誓い合い(バーデンバーデンの密約)勉強会(のちの「一夕会」)を立ち上げた。永田らはかねてから目を付けていた山下奉文石原莞爾など若手の優秀な将校に勉強会への参加を呼びかけたが、富永も同期の武藤章らと勧誘を受けている。

バーデンバーデン陸軍わっしょい

やがて「一夕会」のメンバーは陸軍の要職を占めて権力を掌握したが、その後に「一夕会」の中で天皇親政を主張する皇道派と陸軍内の規律統制強化を主張する統制派が対立、「一夕会」は空中分解状態に陥り、両派による陸軍内の派閥争いが激化した。富永は東條と共に、実質的に永田が仕切っていた統制派に参加したが、代表の永田が皇道派将校の相沢三郎に暗殺され(相沢事件)、皇道派が陸軍の実権を一時掌握した。


その頃の富永は、諜報活動で能力を発揮していた。対ソ連スパイ活動として、駐在武官のときには、卓越した語学力を駆使して、ヨーロッパでソ連を亡命した白系ロシア人の支援活動を行ったり、関東軍高級参謀の際も満州で対ソ情報収集活動を指揮した。また、帰国して陸軍省勤務となったときには、それまでと逆の立場で日本陸軍の情報管理体制強化の指揮をとった。


陸軍官僚としても実績を残している。日本陸軍の人事管理は、高級参謀、軍医、それ以外とおおまかに三元管理されていたが、陸軍省がこれを人事課の一元管理にしようとしたことがあった。当時参謀本部庶務課で高級参謀の人事管理をしていた富永は、父親が医者ということもあって、学閥が支配する医者の独特の世界を熟知しており、その事情も知らない軍人が手を出すと大混乱に陥るので、従来通り、軍医の人事管理は衛生課と医事課といった部署に任すべきと強く進言している。結局富永の進言が受け入れられ人事一元管理は白紙となっている。一方で、高級参謀の人事権も参謀本部庶務課に維持されたため、のちの参謀本部の暴走に繋がることにもなった。


また、富永が参謀本部庶務課在籍時に二・二六事件が発生、富永は事件の事後処理として、反乱を扇動していた皇道派の高級将校多数を陸軍から追放することに成功し、永田亡きあと統制派を仕切っていた東條から「永田の仇をとってくれた」とその仕事ぶりを高く評価された。

この後、永田の意志を引き継いだ東條が陸軍の実権を握っていくこととなり、富永も出世街道をばく進していく。


富永が参謀本部の戦史課に所属していた頃、満州モンゴル国境でノモンハン事件が発生、富永は関東軍辻政信中佐らによる越権行為の紛争拡大に批判的であり、満州に飛んで状況を確認すると「司令官の植田謙吉大将は本当は紛争拡大に反対であったが、下からの突き上げで嫌々ながら許可した」という報告をしている。

やがてノモンハンで日本軍が敗北すると、その敗戦処理のため、富永は参謀本部総長の東條から参謀本部第1部長に抜擢され、組織の立て直しを任せられると同時に、日本陸軍装備近代化の促進や、ソ連国境の防備強化の指揮をとった。


ノモンハンの戦後処理が一段落すると、敗戦で委縮する日本陸軍を勢いづけるべく、積極的な進攻作戦を計画した。

富永は、日中戦争で交戦中の蒋介石政権が、アメリカイギリスからの支援物資を輸送するルート(いわゆる援蒋ルート)の重要拠点であった広西省南寧の攻略作戦を計画、今村均中将率いる第5師団に作戦を命じ、重要拠点南寧を攻略した。

重要拠点を失った中国軍は慌てて第5師団の数倍の十数万人の兵力で反撃を行い、今村は窮地に陥ったが、富永は現地に飛ぶと、第21軍に救援を命じ、増援を得た今村は数倍の中国軍を撃破して南寧を守り切っている。

結局、この南寧作戦は大成功に終わり、中国軍に多大な損害を与えて、南寧も確保できたが、中国は援蒋ルートをさらに中国奥地を拠点とするルートに変更し、引き続きアメリカなどは支援を継続した。


援蒋ルートを完全に無効化するためには、仏印領内にある物流拠点との連絡路を遮断する必要があるため、日本政府はヴィシー政権下のフランスに圧力をかけたが、援蒋ルートは拡大する一方であり、日本軍の爆撃でフランス軍に死傷者が出るなど、仏印は一触即発の状況となり、小競り合いが絶えなかった。

日本政府はヴィシーフランスに日本軍による北部仏印への平和的進駐を求め、富永は仏印の植民地政府と交渉のため現地に飛んだが、植民地政府が本国の方針に反してアメリカやイギリスに軍事支援を要請したり、植民地軍が日本軍に対して挑発的な軍事行動を行ったため、業を煮やした富永は平和的進駐という方針を破って、独断専行で現地軍の軍司令官や師団長を招集して武力行使を煽った。軍司令官は富永の扇動に呼応して、北部仏印への武力進駐を断行した。

日本側の全権として仏印植民地政府と交渉を続け平和的進駐の同意を取り付けていた西原一策少将は、武力進駐を知って「統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ」と富永らを批判している。


富永は現地軍が武力進駐を開始したときには仏印を離れており、直接武力進駐を指揮したわけではなかったが、結果的に昭和天皇の意向に反して武力進駐を煽ったことを重く見て、軍紀には厳格であった東條は富永を参謀本部第一部長から更迭した。同時に直接の当事者となった軍司令官や師団長らも更迭している。


東條英機の右腕として

花冠

一旦は更迭された富永ではあったが、自分を慕う取り巻きを重用した東條は、自分が陸軍大臣にまで昇り詰めると、また富永を陸軍中央に呼び戻し、まずは陸軍省人事局長に任じ、次いでは陸軍次官に昇進させて、自分の右腕とした。

富永も東條の期待に応えて的確に補佐するとともに、裏では東條の権力基盤確立のために恣意的な人事を行うなど暗躍した。


そのあと総理大臣にもなり太平洋戦争の開戦を主導した東條は、戦争の主な目的でもあった南方資源地帯獲得のため、南方作戦に従軍する部隊の人事強化を富永に指示したが、富永はそれに応えて、日本陸軍内でも名将と評価が高かった山下奉文中将、今村均中将、飯田祥二郎中将、本間雅晴中将を軍司令官に任じ、参謀にも優秀な人材を配した。特に大英帝国の難攻不落の要塞シンガポールを攻略するマレー作戦に従軍する第25軍には、「作戦の神様」こと辻政信中佐など特に優秀な人材を集め、太平洋戦争中で最強の軍司令部とも呼ばれることとなった。第25軍はその高い評価通り、兵力で勝るイギリス軍をたちまちシンガポールまで追い詰めると、「大英帝国最大の敗北」とも言われたシンガポールの戦いに勝利している。

太平洋戦争緒戦の快進撃で戦争を主導した東條の名声は頂点に達し、それを陰で支えた富永の評価も高まった。


しかし、ミッドウェー海戦ガダルカナル島の戦いで日本軍は破れて、戦局が悪化してくると、東條は戦争指導の強化を図るため、自分に陸軍の権限を集中させるべきと考えて、総理大臣、陸軍大臣、参謀総長を兼務すると主張した。

陸軍の軍政と作戦指導の権限を集中することは、統帥権を脅かし東條による独裁にも繋がるため、当然軍内外から反対されたが、富永は裏で暗躍し反対意見を封殺していき、最後には参謀総長であった杉山元元帥を東條との直接交渉の席に引きずり出すことに成功し、昭和天皇の同意を取り付けていた東條は杉山に辞任を承諾させて、目論見通り空前の権力を手中にできた。

強力な権力を手中にした東條は言論統制を強め、東條の方針に批判的な記事を書いた毎日新聞の海軍系の記者を、39歳という年齢にもかかわらず懲罰のために徴兵するよう富永に命じた。海軍は富永に対して、本来徴兵対象ではない高齢のその記者だけを徴兵するのは恣意的な運用ではないかと強く抗議してきたので、富永は海軍からの抗議を回避するため、本来なら徴兵対象ではない同世代の250人をその記者と同時に徴兵招集している(竹槍事件)。結局、その記者は海軍の庇護のもとで特別待遇を受けたうえ、従軍記者として海軍に引き抜かれて、3ヶ月で徴兵解除となったが、同時に徴兵された250人の老兵は、東條や富永が失脚したのちに、なぜか硫黄島に送られて全員戦死している。


このような富永の暗躍と恣意的な人事は、特に反東條派からヘイトを集め、また、東條と懇意なことを笠に着て威張り散らしていたので、「東條の腰巾着」や「東條の茶坊主」などと揶揄されることとなり、後の富永の人物評を悪化させる原因ともなった。

その一方で、オランダの植民地蘭印(今のインドネシア)を攻略した軍司令官今村均中将が、現地人を積極的に行政に参加させるなど寛容な占領政策を行っていたことに対して、陸軍内では「今村は手ぬるい、もっと強圧的にやるべきだ」との批判が今村に対して向けられており、富永は今村更迭の指示を受け、現地に飛んで今村と面談したが、今村の「皇軍の本義は無辜の住民を愛護することだ」との強い信念に同意して、「ジャワ(インドネシア)軍政には、改変を加うる要なし」という報告をおこない、今村の留任と蘭印の寛容な占領政策の継続を東條に認めさせるなど、合理的な人事判断も行っている。


また、人事関係の業務に永年携わっていたため、人心掌握には定評があり、部下を信用して重要な仕事を任せるなどして、部下からの信頼は厚かった。

富永が部下の進言を採用してその実現を一任したこととしては、「陸海軍一体化構想」や「松代大本営の建設」などがあった。重要な仕事を一任された部下の参謀は「親近感と尊敬の気持ちを持ち何でも気軽に話せた」という印象を持ったという。なかでも、日本陸軍最後の人事局長となった額田坦は、陸軍の人事局で富永の部下として働いたことで啓蒙を受けて、のちのキャリアに大いに役立ったと述べている。ちなみにガダルカナル島の戦いで失態をしでかした「作戦の神様」こと辻大本営高級参謀の辻について、富永と額田が協議の結果、参謀を罷免して閑職に更迭している。


他にも、戦死者の遺族対策に熱心であり、日本軍は建軍以来、戦死者の遺体を収容し、荼毘に付して遺骨を遺族の元に返していたが、太平洋戦争では戦局の悪化によって遺体の回収が不可能となっていた。そこで富永は、可能な限りの遺体の収容と、それができない場合は戦地の土など代わるものを遺骨箱に入れて遺族に返し、できうる限りの遺族への丁寧な対応をするような指示を出している。また戦死者の未亡人への支援について、富永が東條に「事情が気の毒で同情に値する未亡人もいる」などと窮状を報告し、支援策の拡充を進言して実現にこぎつけている。


富永の暗躍により、陸軍要職は東條の息のかかった者で占められ、東條一派は空前の権力を掌握し絶頂期を迎えたが、東條に権力を集中させても戦局は悪化する一方であった。やがてサイパンが陥落し、日本本土が危険に曝されるようになると、その責任論が沸き上がり、空前の権力を手中にしていた東條へのバッシングが激化、退陣に追い込まれた。富永は東條の地位を守るため、元老を脅迫するなど暗躍したが、流れに抗することは最早不可能であり、東條を守ることはできなかった。


東條に失脚させられていた杉山ら陸軍の有力者が中枢に返り咲くと、東條一派への粛清人事が断行されたが、富永に屈辱を味わされていた杉山は、報復のためにその人事を富永に命じた。富永は杉山らの指示に従って陸軍中枢にいた東條一派を次々と外地の閑職に更迭した。そのなかには東條の側近中の側近木村兵太郎大将もおり、木村をインパール作戦の失敗で大打撃を被っていたビルマ方面軍司令官に放逐したが、前ビルマ方面軍司令官河辺正三大将の更迭と一緒に、東條の意向もあってインパール作戦を断行した第15軍司令官牟田口廉也中将も同時に軍司令官を罷免する人事案を杉山に進言して承認されている。


やがて、陸軍中枢から東條一派が一掃されると、最後に富永本人も更迭され、フィリピンに展開する第4航空軍の司令官に任じられた。富永は歩兵連隊指揮官の経験はあったが航空には素人であってこの人事は昭和天皇も心配したほどであったが、この人事を主導した杉山は、ニューギニアから敗戦続きでフィリピンまで敗走してきた第4航空軍を立て直すためには、陸軍中央や海軍ともパイプが強い富永が適任であると主張し「これは名人事」と自画自賛していたという。

しかし、本音はアメリカ軍侵攻が迫るフィリピンで第4航空軍に死守を命じ、富永に軍と運命を共にさせようという意図があったとされる。


第4航空軍司令官として

第4航空軍の司令官としてフィリピンに着任。

第4航空軍参謀たちは敗戦続きで士気もモラルも低下しており、夜な夜なマニラ市内の料亭やクラブで入り浸っていた。日本内地では、富永が陸軍次官をしていた1944年2月に「高級享楽停止に関する具体策要綱」が定められて、料亭などの高級享楽は全面的に停止されており、また富永自身は下戸で酒は飲まず煙草も吸わなかったので、危機感のない参謀たちの様子を見て愕然とし、着任早々「自分は毎日早朝5:30に司令部に出勤する」と告げている。

富永が5:30に出勤するということは参謀はその前には準備していないといけないことから、当然に夜遊びはできなくなるため、参謀は「戦闘が始まれば夜も昼もなくなります。まだごゆっくりなされててください」と申し出た。フィリピン近隣のパラオ諸島には既にアメリカ軍が侵攻し、フィリピンにも空襲が開始されていたのに、あまりの参謀の危機感のなさに激怒した富永は「お前らはたるんでいる。こんなことだから負け続けるんだ」と一喝し、参謀に危機感を植え付けた。


1944年10月17日にアメリカ軍艦隊がフィリピン近海に現れたが、日本軍は台湾沖航空戦での大勝利の虚報によって、大損害を受けたアメリカ軍がこうも早く攻勢に転じることができるはずがないと考えて、これがアメリカ軍の本格的反攻なのか判断できなかった。

しかし、第4航空軍は緻密な偵察を行っていたことから、富永はこの艦隊が本格的なフィリピンへの上陸艦隊であると判断し、大本営の命令が出る前に富永の独断で攻撃隊を出撃させている。


10月20日にはアメリカ軍がレイテ島に上陸を開始し、レイテ島の戦いが開始されたが、富永は最前線の基地に赴くと、軍司令官自ら作戦指揮を行った。

敵機による空襲中でも構わずに前線の基地に訪れ、航空兵たちを激励し、指揮所で作戦指揮をとり、時には高射砲陣地に飛び込んで、敵機の銃爆撃のなかで対空射撃の陣頭指揮をとったり、空襲直後で不発弾が転がっている中でも、自ら飛行場の被害を視察するなどしていたので、富永は航空隊の将兵らから身の安全を心配されるほどであった。

四式戦闘機 疾風

富永は航空作戦については素人同然であったが、積極果敢な攻めの作戦指揮を行い、レイテ島上陸直後、飛行場の整備に手間取っていたアメリカ軍は第4航空軍の攻撃で大損害を被った。


アメリカ軍の飛行場は、毎夜来襲する第4航空軍攻撃機の空襲による大火災で赤々と照らされ、ときには一夜で100機以上の航空機が撃破されることもあった。他の日には、未明に出撃直前で滑走路に並んでいた戦闘機や爆撃機を機銃掃射と爆撃で41機撃破し、パイロット100人以上を殺傷したこともあった。また、レイテ島のアメリカ軍揚陸基地にも執拗に夜襲をかけ、1週間の間に揚陸したばかりの約4,000トンもの燃料・弾薬を焼失させて、アメリカ軍は深刻な補給問題に直面することとなった。


総司令官のダグラス・マッカーサー元帥が居住する司令部兼住居も空襲し、何度もマッカーサーは命の危険に曝された。

第4航空軍の急降下爆撃機は高い操縦技術で、低空での爆撃を行っていたので、アメリカ軍の高射砲も射高を低くせざるを得ず、発射された砲弾がマッカーサーが就寝している隣の部屋の外壁をぶち抜いて室内に飛び込んできたこともあった。その砲弾は不発でマッカーサーは九死に一生を得たが、のちにマッカーサーは高射砲部隊の指揮官に「もっと照準器を上に上げるよう兵士に命令してくれ」と苦言を呈している。それでも第4航空軍の航空機は果敢にマッカーサー司令部への攻撃を続け、超低空飛行でマッカーサーの部屋に機銃掃射を浴びせ、マッカーサーの頭上数十cmのところを機銃弾がかすめていったこともあった。

第4航空軍の猛攻に対抗するため、アメリカ陸軍第5空軍司令官ジョージ・ケニー少将はトーマス・マクガイアリチャード・ボングといったアメリカ軍の撃墜王をレイテ島にかき集めたが、激しい空戦のうえでたちまち半数が撃墜されてしまった。


また富永は、軍司令官拝命時の昭和天皇や軍中央の期待通り、海軍との連携を重視していた。フィリピンで海軍の航空作戦を指揮していた、第1航空艦隊司令長官大西瀧次郎中将とは良好な関係を構築しており、互いの司令部で往来があっていた。あるとき、大西が海軍には高性能の偵察機がなく、偵察や戦果確認に苦労していたことから、直接富永に協力を要請、富永は大西の要請を快諾し、百式司偵を海軍の作戦に協力させている。


他にも、期待されていた地上部隊との連携も重視しており、レイテ島への大規模な増援の海上輸送作戦『多号作戦』の護衛任務にも積極的に協力した。作戦初期には第4航空軍の護衛戦闘機がアメリカ軍攻撃機を何度も撃退し、レイテ島に第一師団(玉兵団)などの戦力や戦略物資を送り込むことに成功している。


やがてレイテ島の戦況が悪化してくると、レイテ島山中で孤立している地上部隊に向けて補給物資を空中から補給をして、地上部隊に感謝されている。

この空輸作戦については、富永自ら航空部隊の指揮官に地図で投下地点を指示するなど強い拘りを持っていたが、空輸を担当していた飛行師団の師団長が、作戦機を地上部隊の空輸に使用するのは勿体ないので、通常作戦に使用させてくれという申し出をしたことがあった。富永はそれを却下しているが、その師団長は命令に背き、空輸予定機を通常作戦に投入して未帰還機まで出したので、富永は激怒してその師団長を更迭するといった徹底ぶりであった。

なお、この更迭劇については、師団長の人事は天皇の直轄で軍司令官にその権限はないため富永の越権行為となり、のちに騒動となっている。


やがてレイテの戦況がかなり不利となると、戦局挽回のため、富永はフィリピンを護る第14方面軍の司令官山下奉文大将に、指揮下にある空挺部隊をアメリカ軍飛行場に降下させて制圧し、同時にレイテ島の陸上部隊がアメリカ軍の背後を叩くという『義号作戦』を提案、山下も富永の進言を了承し、第4航空軍は残存兵力総力を持って、2回にわたって空挺作戦を実施した。

戦況優勢な軍が行うことが多い空挺作戦を、戦況不利な日本軍が行うといった野心的な作戦となり、特に2回目の空挺作戦はアメリカ軍が油断していたこともあって、パラシュート降下したり、アメリカ軍飛行場に強行着陸した輸送機から飛び出した空挺兵が、滑走路上に並んでいた多くのアメリカ軍航空機を撃破し、一部の飛行場では守備隊を撃破して飛行場の制圧に成功し、一時的にアメリカ軍を混乱させたが、数百人規模の空挺兵では戦況に与える影響は限定的であった。

このときに行われた敵飛行場への強行着陸という戦術は、のちの義烈空挺隊に引き継がれ、沖縄戦で同様に敵飛行場への強行着陸に成功している。


富永は前線で戦う将兵たちには細やかな気遣いをしており、戦傷で入院している航空兵を見舞ったり、功績を自分の目で確認すると大盤振る舞いで階級を特進させたり、ルソン壺などのプレゼントを送ったり、自分の弁当を将兵に食べさせる代わりに、自分は不味い兵食を兵士らと一緒に食べ談笑したりと、優しく接していた。

上官への絶対服従を強要され階級格差が激しかった当時の大日本帝国陸軍で、富永の様な遥か雲の上の存在であった軍司令官の将軍が末端の兵士に直接優しく接することなどは稀であったので、富永は多くの兵士たちから慕われていた。

しかし、古式ゆかしい儀式を重んじた富永は、空気を読まずにいきなり勲功あった将兵の表彰式を行ったり、長い訓示を始めたりと、本来であれば部隊指揮官がすべき将兵の士気向上を軍司令官が横取りしてしまう形となったため、煙たがる部隊指揮官もいた。


一方で、参謀には、今日でいうことろのパワハラなどと言い表せないレベルで厳しく接しており、司令部の空気は陰鬱を極めていた。しかし参謀のなかでも、自ら作戦機に搭乗して、艦船攻撃を指揮し、敵機に撃墜されて戦死した参謀の石川康知中佐に対しては、「高潔、慧敏、春風人に接して内秋霜の気節を包み、航空界稀に見る逸材」と称賛して感状を授与するなど、参謀ら高級士官に対しても、単に厳しく接しただけでなく、航空兵ら将兵と同様に、軍人として相応しい行動に対してはきちんと評価している。


特攻隊指揮官として

海軍の開始した神風特攻隊に続いて、陸軍もついに航空特攻作戦を開始した。

陸軍は海軍より先に航空特攻隊の「万朶隊」と「富嶽隊」を日本内地で編成し、前線のフィリピンに送り込もうとしていたが、到着前に関行雄大尉率いる「敷島隊」などの神風特攻隊が敵艦隊への突入に成功し、大戦果を挙げることになった。

紫魂

フィリピンに到着した「万朶隊」と「富嶽隊」は現地の第4航空軍の指揮下に入れられた。

海軍の大戦果に煽られた陸軍中央は両隊を早急に出撃させるよう富永に促したが、富永はその催促に応じることはなく、両隊の隊員に「早まって犬死にをしてくれるな」「目標が見つかるまでは何度でも引き返してかまわない」「それまでは身体を大事にせよ」と言い聞かせ、戦機を見計らっていた。


そんなある日に「万朶隊」の指揮官岩本益臣大尉から出撃の打ち合わせをするために、富永のいるマニラの司令部に出頭したいとの申し出があったため、第4航空軍参謀は敵戦闘機を警戒して「必ず車で来るように」と指示したが、岩本はなぜかその指示に従わず、作戦機に「万朶隊」士官全員を搭乗させてマニラに向かい、参謀の懸念通り、アメリカ軍戦闘機に撃墜されて、岩本以下「万朶隊」の士官が全員戦死してしまった。岩本が第4航空軍司令部の指示に従わなかった理由は不明であるが、出撃前の悲報に富永ら第4航空軍司令部は悲嘆に暮れることとなった。


この岩本らの悲劇については、岩本の方から出撃協議のために第4航空軍司令部に出頭したいと申し出てきたと戦後に参謀や記者らの多くの関係者が語っているが、根拠は不明ながら一部の戦記小説などで、富永が岩本らをマニラの料亭『廣松』で歓待するため危険を承知でマニラに呼びつけたなどと書かれている。

また、富永が岩本らを呼びつけたという憶測が飛躍して、戦闘時に呑気に宴会に呼びつける富永に対し“当てこすり”の意味合いで、岩本が敢えて危険性が高い空路での移動を選択し、無駄死にすることによって富永へ無言の抗議をしたなどと突飛な妄想をする意見もある。

しかし、それはフェイクニュースであり、富永は特攻隊員を歓待するときには料亭ではなく、軍司令官官舎を使用しており(詳細後述)、実際に岩本ら士官を失って意気消沈していた「万朶隊」の隊員を元気づけるため、後日、富永は軍司令官官舎に「万朶隊」隊員を招待し歓待している。


1944年11月12日に敵機動部隊発見の報告を聞いた富永は戦機到来と見て「万朶隊」に出撃を命じた。しかし、出撃した「万朶隊」のなかで佐々木友次伍長が特攻することなく生還してきたが、富永は自分の裁量で佐々木の帰還を許すと喜んで迎えて、「よく帰ってきた」と褒めプレゼントを渡して佐々木を感激させている。

富永が帰還して佐々木ら特攻隊員を「腰抜けめ」や「命が惜しいのか」などと罵倒していたとする資料もあるが、これは部隊長や参謀と富永を混同していた可能性が高く、富永は帰還してきた特攻隊員にも優しく接していた。

「万朶隊」の佐々木も特攻出撃しながら帰還を繰り返したが(一説には9回)富永はその都度、「無駄死にはするな」「がんばれ、がんばれ」と激励し、結局佐々木は戦死することなく、終戦を迎えて「不死身の特攻兵」として有名になった。


その後も、日本本土で編成された特攻隊が次々とフィリピンに送られてきたが、富永は特に特攻隊員には気を使っており、特攻隊員がフィリピンに到着すると、一人一人に労いの言葉をかけ、軍司令官官舎に宿泊させて歓待していた。

補給も途絶えて軍司令部にもまともな食料がなく、海藻野菜でご飯をかさ上げしたかて飯を主食としているなかで、特攻隊員には豪勢な食事を準備させた。特に、日本内地ではあまり目にしないバナナパパイヤといった南方系のフルーツや、最前線では珍しい刺身が特攻隊員を喜ばせた。

軍司令官官舎は、アメリカ人富豪の豪邸を接収して使用していたものであり、特攻隊員は置いてあったピアノを弾いたり、広大な庭園でパーティを楽しんだり思い思いに過ごしていた。


富永は、特攻機が出撃時には、たとえ雨が降っていてもずぶ濡れになるのも構わずに見送りに来て、いつも司令官車に積んである日本酒をふるまって、涙を浮かべ「後から自分も続く」と約束しながら一人一人の手を固く握って送り出した。

同じく海軍で特攻作戦を指揮していた第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将は、規律厳正化として特攻隊員を特別扱いにすることなく、また出撃の見送りもしていなかったのとは対照的であった。

特攻隊員たちは富永の気持ちを感じて、新聞記者と宴会すると口々に「参謀は信用できんが富永司令官は俺たちのことをわかってくれる」と話していたという。「不死身の特攻兵」こと佐々木も軍司令官に気にかけてもらっていると感じ、富永を慕っていた。


富永は自分の特攻隊員への想いを、親しくしていた新聞記者に語ったことがあるが、それによると「自分は若い兵士たちを死地に送り込むことが任務である」「死んでから感謝して何になる、兵士が生きているうちに励まさないと」「しかし任務とはいえ若い兵士たちを死なせるのは本当につらい」と涙を浮かべながら述べていたという。やがて特攻隊員を送り出す精神的な負担が富永の心身を蝕んでいくこととなる。

100式重爆 呑龍

精神を病んだ富永はヒステリックになり、部隊指揮官を罵倒し参謀たちを鞭打つなど、さらにパワハラが激化するとともに作戦指揮も強引となった。

アメリカ軍に攻略されたレイテ島から大艦隊が出港したとの報告を受けた富永は、次のアメリカ軍の目標が陸軍航空基地が多数存在している「航空要塞」ネグロス島であると判断し、手持ちの兵力による総力での特攻を命じている。(実際はミンドロ島への侵攻であった)

なかでも、反跳爆撃の訓練を積んでフィリピンに投入されながらも、実戦で通用することなく損害を重ねていた一〇〇式重爆撃機隊については、早朝6:30の出撃が命じられたため、陽が昇っているなかでの鈍重な重爆の特攻は無駄死になると、参謀や重爆隊指揮官は反対意見を述べたが、富永の命令により出撃が断行された。

重爆隊指揮官は富永の命令に反発して「必要最低限の搭乗員で出撃」「反跳爆撃して帰還せよ」と重爆搭乗員に指示をしたが、重爆搭乗員は戦果が挙がらない反跳爆撃ではなく、特攻を覚悟しており、指揮官の指示に従うことなく全員が重爆に搭乗し、二度と帰らない覚悟で出撃している。

富永は9機の重爆特攻隊「菊水隊」に50機以上の護衛機をつけるようにも命令していたが、現地部隊の連携不足により実際についた護衛機は12機、それもほとんどははぐれてしまい、最後まで護衛についたのは2機になるという不手際も重なり、「菊水隊」は敵艦隊に近づく前に2機の護衛機ともにアメリカ軍戦闘機に全滅させられてしまった。


しかし、ミンドロ島に向かっていた艦隊を捕捉した他の特攻機は、マッカーサーが気に入って旗艦としていた軽巡洋艦「ナッシュビル」に突入し、マッカーサーはこのとき不在であったが、ミンドロ島攻略部隊指揮官や参謀ら330名が死傷するという大損害を与えた他、ディーゼル油と航空燃料を満載したタンカーを撃沈したり、揚陸したばかりの大量の航空燃料を爆撃で炎上させたりと大戦果を挙げて、アメリカ軍の作戦計画を大きく狂わせている。


フィリピンの戦いで富永は202機の特攻機の出撃を見送り、出撃した特攻隊員251名が帰らぬ人となったが、挙げた戦果も大きなものとなり、アメリカ軍を主力とする連合軍艦船22隻を撃沈110隻を撃破し、死傷者7,000名以上という特攻戦死者の数倍にも上る大量の人的損害を与え(含海軍の戦果)、連合軍を苦しめたが、やがて、第4航空軍は航空機の損失に補充が追い付かなくなり、またレイテ島上で複数の飛行場を整備したアメリカ軍は大量の航空機を展開して、第4航空軍を圧倒し、フィリピンの制空権はアメリカ軍の手に堕ちた。


前線からの無断撤退

フィリピンの戦いで第4航空軍は地上攻撃や特攻でアメリカ軍に大損害を与えるも、航空機を使い果たしてしまった。

レイテ島を攻略したマッカーサーは、マニラを奪還するためルソン島に大艦隊を率いて侵攻してきたが、富永は「後から自分も続く」と特攻隊員に約束しており、マニラを死守して玉砕する覚悟であった。しかし、ルソン島山中にアメリカ軍を引き込んで持久戦をしようという作戦を立てていた第14方面軍の司令官山下は、マニラの放棄を決めて、富永にマニラを捨ててルソン島北部山中のエチアゲに撤退するよう指示してきた。

昔の日本軍の偉い人~その4 山下奉文

富永は山下の命令に激昂し、マニラ近郊にある多数の飛行場を抵抗もせずにアメリカ軍に引き渡すのは、後の戦局に大きな悪影響を及ぼすといった戦略的な理由の他、「レイテで決戦をやるというから特攻隊を見送ってきた。国の興亡がかかっていると言われたから泣く泣く特攻隊を出してきた」「それなのに今さら沢山の特攻隊員を見送ってきたマニラを捨てて持久戦と言われても、これでは今まで何のために特攻隊を犠牲にしたのかわからなくなる。特攻隊員たちに会わせる顔がない」「絶対に富永はマニラから退かんぞ」という精神的な理由もあって、頑なにマニラからの撤退を拒否した。

富永のマニラ死守という決心は、マニラに駐屯していた第二次上海事変でドイツ軍式装備をした数倍の精鋭中国軍を撃破したという戦功を誇り市街戦に絶対的自信を持つ海軍特別陸戦隊や、マニラに在住していた多くの日本人にも強く支持された。


困った山下は、富永と陸軍士官学校の同期生で親しかった第14方面軍参謀長武藤章中将を説得に向かわせ、また南方軍総司令官寺内寿一大将も撤退を懇願するような無電を打電してきたり、幕僚を富永の説得に向かわせたが、富永の態度は変わらなかった。しかし、この際に武藤や南方軍幕僚らから、「第4航空軍はエチアゲではなく台湾まで撤退して戦力を立て直すべき」とする提案もあって、のちの富永の行動に大きな影響を及ぼすことになった(詳細後述)。


富永はルソン島のリンガエン湾を目指して航行中のマッカーサーが率いる大艦隊に残存機による全力特攻を命じると共に、機体不足で出撃できない搭乗員を地上戦で無駄死にさせないために台湾に脱出させた。

山下は再度武藤を富永の説得に送ったが、このときには富永は心身の限界に達して寝込んでおり、前回とは打って変わって弱気になって、涙を浮かべながら武藤の手を握って、まずはエチアゲへの撤退を承諾した。しかし、富永と第4航空軍司令部の参謀たちは、エチアゲからさらに台湾に向けて敵前逃亡に等しい無断撤退をすることになるのだが、それは以下の経過によるものであった。


  1. 大本営など陸軍中央は富永と第4航空軍をフィリピンで玉砕させようと考えていた。
  2. しかし、現地の南方軍や第14方面軍などからは富永に対し、前線のフィリピンから撤退し、後方の台湾で戦力を立て直した方がいいとする助言が寄せられていた。
  3. この頃の富永は、特攻隊を送り出す精神的な負担ですっかり精神に変調をきたしており「鳥の鳴き声がうるさいから全部打ち落とせ」などと無茶振りをするような有り様で、またデング熱を発症して40°の高熱に苦しめられていたなど心身ともに限界に達していた。
  4. 心身ともに限界であった富永は、何度も大本営や南方軍に健康を理由に軍司令官の辞任を申し出ていたが、受理されることはなかった。そのようななかで、次第に富永も弱気となり、航空機もない航空兵を慣れない地上戦で無駄死にさせるよりは、台湾に撤退し軍を再編成して航空作戦を継続した方がいいという考えに変わってきていた。
  5. マニラの陣地構築が全く進んでおらず、このまま戦えば大した抵抗もできずに全滅するのは確実という状況であった。
  6. マニラで玉砕覚悟の自分をエチアゲまで撤退させたのは第14方面軍ではあるが、それを大本営は認可しており、台湾への撤退もエチアゲへの撤退と同じように承認されると考えた。
  7. この頃、日本海軍は司令官や艦長といった将官が、自決したり艦と運命を共にすることが増えて、戦闘指揮経験のある将官が不足していたので、自決や安易な玉砕を自省するよう通知しており、富永と同様にフィリピン戦での航空作戦を指揮してきた海軍の第一航空艦隊と第二航空艦隊の司令部は海軍中央の命令によって既に台湾に撤退していた。
  8. 参謀たちも、航空軍が航空機もなく山に籠って抗戦しても無駄死にであって、台湾に一度撤退して戦力を立て直すべきと考えていた。そこで軍司令官を騙して台湾に出張名目で送り出して既成事実を作り、その後に自分たちも脱出して大本営などから撤退の追認をもらえばいいという結論に至った。
  9. 参謀たちは弱っている富永なら容易に丸め込めるし、もし富永が脱出飛行中に敵機に撃墜されても、それはそれで構わないとも考えた。

以上の通り、結果的に富永と参謀は台湾に撤退して戦力を立て直すという同じ結論に達していた。

そこで、参謀長は富永に台湾行きを納得させるため、大本営に富永の台湾への一時的な出張の許可をとりながら、富永には「大本営から台湾への後退の命令が来た」という虚偽報告をし、富永もその命令が本物であるのか敢えて確認はせずに鵜呑みにして撤退した

……というのが真相である。


参謀長は日本に帰国後「第4航空軍の不評は全く私のいたらぬためです。殊にあの立派な、しかも当時、心身ともに過労の極にあった富永軍司令官に対して、とかくケチをつける者があると聞き深く呵責の念に堪えない」「司令官は自ら最終的にレイテに突入することを決めておられた。ところがそれを妨げて、軍司令官に生き恥をかかせたのは実にこの私です」と人事局に報告しており、虚偽報告をしたことを認めている。

その後、参謀長は終戦の日に責任を取って家族を道連れにして自決している。


フィリピンからの脱出のため参謀は百式司偵二式複座戦闘機という証言もあり)を準備した。高熱でフラフラしていた富永は1人で搭乗することができず、参謀らが富永の身体を支えて、後部席に押し込んでいる。しかし百式司偵は離陸に失敗して大破したため、急遽九九式襲撃機が2機準備され、またもや富永は参謀らに後部席に押し込まれた。もう1機には副官が乗り込んだが、軍司令官の脱出であるのに、護衛機はわずか一式戦闘機2機だけであった。


4機の編隊は台湾に向けて飛行したが、途中のバシー海峡で天候が悪化したため、一旦フィリピンに引き返した。翌日に護衛を4機に増やしてフィリピンを発ち、無事に台湾に到着した。富永は護衛の航空兵に涙を流しながら感謝の握手をしたが、あまりにもやつれはててしょぼくれた富永の姿を見て航空兵は愕然としている。


その後

台湾への撤退は、大本営や直属の第14方面軍から簡単に追認されるという富永らの目論見が外れて大問題となり「敵前逃亡」扱いされてしまうことになった。

第4航空軍が属する第14方面軍司令官の山下は、富永ら無断撤退の一報を聞くと激怒した。参謀長の武藤は自分が台湾への撤退を提案した手前、富永を擁護したが、山下は合理的には第4航空軍の台湾への撤退はやむを得ないと考えていたものの、正式な許可も取らずに独断専行し、部下を置き去りにした富永に激怒したのであって、武藤の擁護を受け入れなかった。

南方軍の寺内も山下と同様に第4航空軍の撤退の是非というよりは、富永らの独断専行に激怒し戸惑っていたが、一番困惑したのは富永ら第4航空軍をフィリピンで玉砕させようと目論んでいた大本営であり、富永ら第4航空軍司令部は各方面への弁明に追われることとなった。


弁明に追われながらも、富永はフィリピンに置き去りにした将兵のうち、航空兵や整備兵など専門技術を持った第4航空軍の将兵を救出するため、太平洋戦争でも最大規模の空輸作戦を命じ、あらゆる作戦機を投入して多数の将兵がフィリピンから救出された。

さらに富永と同じくフィリピンから撤退していた海軍の第1航空艦隊司令官の大西に、第4航空軍将兵救出のために海軍艦艇の派遣を要請し、大西も富永の要請に従い、駆逐艦から小型帆船に至るまで多くの艦船をフィリピンに派遣したが、制空・制海権を失っている状況で殆ど失敗に終わり、無事に将兵を輸送できたのは潜水艦1隻に過ぎなかった。

富永は、やむなく残された将兵に、第14方面軍の指揮下に入って地上戦を戦うよう命じ、地上要員を中心とした1万の将兵が慣れない地上戦を戦うこととなった。取り残された将兵たちは、密かに替え歌を作るなどして富永を蔑んだが、終戦までに戦闘や飢餓や病気で多数が帰らぬ人となっている。


台湾で富永ら第4航空軍の司令部幕僚らは、一時台湾の温泉地の旅館を接収した兵舎に宿泊していたことから、前線から逃げ帰ってきたのに温泉でゆっくりしていると現地の将兵から呆れられて、富永ら第4航空軍幕僚を見かけても敬礼すらしなかったという。

富永も戦死した特攻隊員や残してきた将兵に負い目があったのか、毎夜、位牌を前にして一心不乱に祈っていた。


富永は静養したこともあって心身ともに回復したが、今さら富永をフィリピンに戻しても仕方がないという陸軍中央の判断もあって、敵前逃亡に等しい独断での撤退は追認されたものの、さすがに現役にはとどまれず、予備役行きとなり、第4航空軍も解体された。


富永が日本本土に帰還するや落ち着く暇もなく、B-29による東京大空襲にみまわれて自宅が焼失してしまう。それに前後して長男富永靖が特攻出撃して戦死したという悲報がもたらされた。悲しんでいる暇もなく、本土決戦準備による根こそぎ動員の師団濫造で師団長ができる階級の将官が不足したために急遽現役復帰させられ、根こそぎ動員師団の第139師団(不屈)師団長に任命された(軍司令官から根こそぎ動員師団師団長であり明確な降格)。


富永の師団は満州の在留邦人を急遽徴兵した師団であり、弱兵や老兵ばかりで装備も十分でなく、第4航空軍司令官に任命されたときと同様に玉砕前提の任命であったが、富永は配置されていた敦化を終戦までソ連軍侵攻から守り抜くとともに、終戦後も暴徒化した満州人などから居留民を守って、市内の治安を維持していた。やがて敦化にもソ連軍が進駐し、第139師団は武装解除されて、師団長の富永以下シベリアに抑留されることとなったが、第139師団やその他の部隊が敦化を去ると、ソ連兵による居留民への暴虐が開始され、凌辱を拒んだ邦人女性による集団自決という悲劇が起こっている(敦化事件)。


捕虜となった富永は陸軍中央で対ソ連謀略に関わっていたこともあり、モスクワに連行されて6年間も厳しく尋問された。

軍事裁判で死刑が求刑されたが、強制労働75年の判決が出て、シベリア強制収容所に送られた。富永が送られた収容所はもっとも過酷なところであり、厳しい労働で多数の死者が出たが、富永は将官であったのにもかかわらず、一般の兵士と全く同じ強制労働をさせられ、看守のソ連軍兵士から暴行を受けることもあったという。

あまりにも過酷な状況であったので、富永は脳溢血を発症、一命はとりとめたが労働は困難になったので、釈放されることとなった。


シベリアから日本に向かう復員船に乗り込んだときには満足に歩行できないほど衰弱していたが、日本では多くの支援者にあたたかく迎えられた。しかし、帰国後は敵前逃亡に等しい無断撤退などでマスコミや第4航空軍生存者たちから激しいバッシングを受けた。一方で、陸軍兵学校の同期などの軍関係者や可愛がっていた特攻隊員の生き残りや遺族などからは擁護する声も多く論争を巻き起こした。

本人はそんな論争をよそに、シベリアに残された抑留者の開放を各方面に呼びかける運動をしたのちは「敗軍の将は兵を語らず」として積極的に反論することもなく、5年後に心臓衰弱のため死去した。


評価

人物評

戦闘中の前線からの無断撤退という大スキャンダルを起こしたせいもあって、とにかく評価の低い人物である。太平洋戦争期の大日本帝国陸軍軍人は全般的に評価が低いが、そのなかでも、南方軍総司令官寺内寿一大将とインパール作戦での牟田口とあわせて「陸の三馬鹿」と揶揄されるなど、最低レベルの評価となっている。


しかし、その評価の元になったソースの多くが、富永の死後に出版された、軍に批判的だった作家高木俊朗フィクション交じりの戦記小説群とそれを元ネタにした孫引きの書籍や漫画などで、フィクションの記述がそのまま史実として定着してしまっており(中には台湾で航空基地内の将校数十人分の食料を富永が1人で全部食べてしまったので、富永は太ったが、将校たちは飢えてしまったなどというどうみてもフェイクくさい記述もあり)、その記述が面白おかしく誇張されて広まってしまったことから、実像以上に悪者にされている気の毒な人でもある。


実際に富永を知っている人の富永に対する人物評としては、昭和天皇が富永のことを「兎角評判の良くない且部下の抑えのきかない者」と酷評していたなど厳しい評価もある一方で、フィリピンで富永の指揮下で戦った第16飛行団長新藤常右衛門中佐は「カミソリという異名を持つほど頭脳明晰ではあるが癇癪持ち」という噂を聞いていたものの、実際に指揮下になってみると「人懐っこい好々爺といった感じで親しみやすい」と感じ、陸軍次官であった富永に仕え、のちに宮城事件にも関わった井田正孝少佐は「親近感と尊敬の気持ちを持つようになり、この人になら何でも気安く話せる」という評価であった。第4航空軍の参謀たちには厳しく接したこともあって、人間関係は最悪であったが、それでも参謀は富永の能力は認めており「富永閣下は、決断の早い人だ、今のフィリピンには決断の速さが必要なのだ」と評している。


また、フィリピン戦では特に航空兵を手厚く処遇したことから、特攻隊員を始めとする多くの航空兵に慕われていた。富永は敵機の空襲にも構わずに基地を激励に回っていたことから、航空兵たちが心配して富永の副官に「なるべく危険がない時間に回るように」と富永に進言してはどうか?と投げかけたが、富永はその進言を聞いても、「司令部にいるより前線基地の指揮所にいる方が気が休まる」と言い前線基地巡りを止めずに激励を続けて航空兵たちを感激させている。

そして、現地部隊では持参した軍司令官用弁当(といってもご飯が銀シャリ(白米)というだけでおかずは粗末なものであったが)を将兵に与えて、自分は将兵たちと一緒に雑穀交じりのご飯に、地元で採集した泥臭い川魚がおかずの昼食を食べながら交流を深めた。


ある日、富永が激励に訪れていた基地に敵機の空襲があったが、敵機が去ったのち、地上で待機していた四式戦闘機が撃破されてしまったことを咎めることもなく指揮官に「戦闘だからこういうこともある、機体は補充してやるから心配するな」と優しく語りかけて指揮官を感動させている。

戦死と公告された航空兵が生還したときには、富永は喜んで迎えて、補給難で貴重品となっていた煙草を褒美として与えるとともに「戦死ではないから2階級特進は取り消しとなるが、改めて自分が2階級特進させる」と生還した航空兵に申し渡している。その航空兵は「閣下ともなる人は、なんと優しく親切で、立派な人柄なんだろう」と感激したという。このような、将兵との交流に対しては、富永による人心掌握術だと批判する者もいるが、実際に多くの将兵に慕われていたのは事実である。


終戦後も、生き残った特攻隊員の中には富永を慕っていた者もおり、「万朶隊」と並んで陸軍初の特攻隊となった「富嶽隊」の生還者梨子田実曹長は、富永がシベリア抑留から解放されて帰国するというニュースを知ると、遠路はるばる出迎えに行っている。梨子田が到着すると富永は多くの出迎えの人たちに囲まれており、梨子田は人混みをかき分けながら富永に近づき「ご苦労様でした。フィリピンではお世話になりました」と声をかけると、富永は笑顔で「やあ、ありがとう。貴官もご苦労だった」と返事をし、梨子田を感激させている。

また、「万朶隊」の不死身の特攻兵こと佐々木も、生前の取材で富永に対して「悪い印象はない、握手もしている」「逃げたことは卑怯とは思っていない」と答えている。


富永は歴史や文学などへの知識も深かったことから、富永と親交のあった新聞記者は「元来繊細な、軍人というより文化人的な神経の持ち主」と評している。また、流ちょうな英語フランス語を話すことができ、戦後のソ連における捕虜生活では収容所で各国のスパイと情報交換をしている。


このような富永の人間性を熟知していた新聞記者は、戦後に面白おかしく誇張された事象でバッシングされている富永を見て「真相というものは大方あやふやなものであって、必ずしも事実そのものではない」と指摘して、当時の詳しい状況を雑誌に寄稿したこともあった。


軍人としての評価

航空作戦の指揮能力についても、敵前逃亡事件や人物面での悪評に引っ張られて、特に根拠もなく、軍司令官拝命時に「航空には素人同然であった」という事実をもって、なぜか具体的な検証がなされることもなく「無能」とのレッテルを貼られている。また、富永は参謀をあまり信用しておらずに「幕僚統率はやらぬ」として、司令官自ら作戦指揮をしていたことも、否定的に捉えられて酷評に拍車をかけている。


富永は実戦での航空作戦指揮の経験はなかったが、陸軍次官のときには、陸軍大臣であった東條の方針もあり、航空戦力強化のためには、航空兵育成が最重要課題の一つと認識しており、自ら率先して訓練飛行場を視察するなどして、訓練や教育環境の充実を図っている。

訓練学校においては、事故が絶えず負傷者が多く出ていたが、訓練飛行場には満足に軍医が配置されていないのを富永は問題視すると、全訓練飛行場に軍医の大幅な増員を指示した。

ほかにも、航空兵の食事内容を改善させたり、航空兵が飛行中に口にできる機能食品や栄養補助食品などの開発も指示しているなど、航空戦力の増強についてきめ細やかな施策を実行しており、航空の用兵面に対する理解は深かった。


第4航空軍司令官としても、海軍の台湾沖航空戦の莫大な戦果報告を鵜呑みにすることなく、過大戦果報告と評価し、近いうちにレイテ島にアメリカ軍が侵攻してくると正しい判断をして、配下の航空隊に作戦準備を命じている。

ダグラス・マッカーサー

レイテ戦の初期には戦力的には劣勢であったにもかかわらず、富永の積極的な作戦指導により第4航空軍は一時的ではあったがレイテ島の制空権を確保していた。海軍が特攻を主体としてアメリカ軍艦隊に攻撃を集中させて、激烈な迎撃で戦力を消耗させていたのに対して、富永はアメリカ軍が飛行場整備に苦労していると分析し、艦船、飛行場、地上部隊など巧みにアメリカ軍の弱点を攻撃した。


アメリカ軍の飛行場は昼夜を問わずに執拗に攻撃し続け、地上で大量のアメリカ軍機や航空燃料を爆砕して、多くの人的損害を被らせた。また、地上部隊援護のため、アメリカ軍が構築したばかりの揚陸基地にも攻撃を集中し、大量の燃料・弾薬を焼失させた。補給が滞ることとなったアメリカ軍上陸部隊は、司令官のマッカーサーに、第4航空軍の猛攻に対抗するための航空戦力の強化を何度も訴えている。


しかしマッカーサーのいたアメリカ軍司令部も執拗な空襲を受けており、命の危機に晒されたマッカーサーは「連合軍の拠点がこれほど激しく、継続的に、効果的な日本軍の空襲にさらされたことはかつてなかった」と第4航空軍の作戦を評価し、またその副官チャールズ・ウィロビー准将も「構想において素晴らしく、規模において雄大なものであり、マッカーサーの軍が最大の危機に瀕した」と評している。アメリカ陸軍の公式戦史でも「太平洋における連合軍の反攻開始以来、こんなに多く、しかも長期間に渡り、アメリカ軍が空からの攻撃にさらされたのはこの時が初めてであった」と総括し、高く評価していた。また、アメリカ海軍でも、レイテ沖海戦勝利の立役者トーマス・キンケイド中将が「敵航空兵力(第4航空軍)は驚くほど立ち直っており、上陸拠点に対する航空攻撃は事実上歯止めがきかず、陸軍の命運を握る補給線を締め上げる危険がある」「アメリカ陸軍航空隊の強力な影響力を確立するのが遅れれば、(レイテ)作戦全体が危機に瀕する」と第4航空軍がレイテ作戦の命運を握る存在になっていると指摘していた。


一方で、現代日本においては富永の人物面での悪評が先行するあまり、富永率いる第4航空軍がかなりの戦果を挙げ善戦していたにもかかわらず、その功績が顧みられることは殆どないと言っても過言ではないだろう。富永の人物面を酷評し、第4航空軍司令官任命に懐疑的であった昭和天皇ですらも、レイテ戦初期の富永の采配を「第4航空軍はよく奮闘している」と褒めていたこともスルーされている。


富永は敵機の空襲のなかでも前線の基地に出向き、航空兵を激励し自ら陣頭指揮をとっていた。これを「軍司令官のすることではない」「後方で作戦指揮をとるべきであった」と批判されることもある。しかし、航空兵の当時の証言では、軍司令官が直接激励してくれ、ときには活躍に応じて階級の特進や贈り物をしてくれるので大変に士気が上がったという証言も多い。

また、アメリカ軍のフィリピン戦での空の戦いを指揮し、富永と対決した第5空軍司令官ジョージ・ケニー少将も、最高指揮官のマッカーサーが最前線で指揮することを好んでいたので、同じように自ら最前線の飛行場に常駐して、飛行場整備の陣頭指揮をとるなど、富永と同様に最前線で指揮をとり続け、アメリカ軍を勝利に導き、マッカーサーからも「ケニーはよくやっている」と信頼を勝ち得ており、この富永への批判は後付けで的はずれと言える。


しかし、派手なパフォーマンスを好み、古式ゆかしい儀式も重んじていた富永は、前線で大げさな命令授与式を行ったり、即興で勲功あった将兵の表彰式を行ったり、長い訓示を始めたりするので、一部の部隊指揮官からは煙たがられていた。


富永は前線での作戦指揮の他にも、毎日の航空戦力の消耗や補充を軍司令官自らで検証していた。そして、具体的な根拠を示しつつも、政治力も駆使して戦力の優先的な補充を陸軍中央にはたらきかけており、富永の指示を受けた軍参謀などが日本内地で陸軍航空本部や大本営とかけあって、航空機補充の上積みにも成功している。


特攻については、特攻という作戦自体に対して否定的・批判的な意見が多いことから、特攻に対する批判がそのまま富永に向けられ、なかにはあたかも富永が率先して特攻を推進していたかのような批判もある。しかし、フィリピン戦時点の陸軍の特攻隊は、日本内地の鉾田教導飛行師団明野教導飛行師団といった、陸軍航空隊航空兵の教育や航空作戦の研究をしている部隊から特攻隊として編成されフィリピンに送られてきたものであって、富永ら第4航空軍には送られてきた特攻隊を出撃させるだけの権限しかなかった。


それでも富永は陸軍中央に反発し、日本内地から贈られてきた飛行学校の教官ばかりで編成された特攻隊「進襲隊」をすぐに特攻に出撃させることなく、ミンドロ島のアメリカ軍飛行場爆撃に投入している。「進襲隊」は富永の起用に応えて、飛行場に備蓄してあった大量の航空燃料を焼失させてアメリカ軍の作戦を大きく狂わすことに成功した。「進襲隊」はその後に出撃した特攻でも大型タンカー1隻撃沈、駆逐艦2隻、魚雷艇母艦1隻を大破させる大戦果を挙げたので、富永の命令違反が特に問題となることはなかった。

第4航空軍主力は前述の通り、敵飛行場攻撃や制空戦闘などの通常任務を行っていたが、レイテの戦い末期には、第4航空軍も特攻が主戦術となり、所属の航空隊から特攻隊員を募ったこともあった。しかし、その人数は日本内地から送られてきた特攻隊員に比べると少なかった。


富永や海軍の大西が指揮したフィリピン戦における特攻の評価については、痛撃を被ったアメリカ軍の評価は総じて高く、マッカーサーやチェスター・ニミッツといった軍の高官や軍の公式戦史などは「日本軍は特攻機という恐るべき兵器を開発した。日本航空部隊がその消耗に耐えられる限り、アメリカ海軍が日本に近づくにつれて大損害を予期せねばならない」「特攻機という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」「カミカゼが本格的に姿を現した。この恐るべき出現は、連合軍の海軍指揮官たちをかなりの不安に陥れ、連合国海軍の艦艇が至るところで撃破された」とフィリピン戦での特攻作戦を評価している。


無断撤退についての評価

敵前逃亡に等しい無断撤退については当然ながら厳しい評価が多い。

富永バッシングの急先鋒である作家の高木俊明は「富永軍司令官は詭計をもって逃げ去った」「はじめに美名あり、終りは無恥と無責任であった。これが富永軍司令官の正体であった」と酷評している。

また同じ軍人である第14方面軍司令官山下大将は「部下を見捨てて自分だけが逃げ出すような奴に何ができるか!」と激怒したとされ、第6飛行師団神直道中佐も「世界戦史上稀に見る怯懦の史実であり未曾有の喜劇であろう」富永を含む第4航空軍司令部を激しく批判している。

他にも軍事評論家の重鎮であった伊藤正徳から「今度の戦争ほど、上級軍人が汚名をさらしたこともめずらしい」「脱出して後から諒解を求めようとしたのであろうが、それがいかに参謀が考えたことであっても、司令官の富永に全責任がある」と批判している。


当然ながら、フィリピンに取り残されて死線を彷徨った第4航空軍地上要員の生存者からの評価は最悪であり、富永に次いでフィリピンを脱出した第4航空軍幕僚を乗せた航空機が、台湾で海軍の高角砲に同士討ちで撃墜され、参謀ら幕僚多数が死亡したが、その知らせを聞いた将兵たちは「ざまぁ見ろ」と歓声をあげたという。また、将兵たちは「若鷹の歌(予科練の歌)」の歌詞を変えて「命惜しさに、富永が台湾に逃げた。その後にゃ今日も飛ぶ飛ぶロッキード、でっかい爆弾に 身が縮む」という替え歌を作って富永を侮蔑した。またどうにか生き残り日本に帰れた生存者たちは戦友会などで集まると「富永を連れてきて殺そうか」などと物騒なことを言って気勢をあげていたという。


また、レイテ戦初期から中期で意気軒高なときは、最前線で敵の空襲に臆することなく陣頭指揮し、時には自ら高射砲陣地にまで乗り込んでいたぐらいで、逆に南方軍から「最前線に出すぎ」と苦言を呈されるほどの勇猛さであった富永も、その強気さが一転し、部下を置き去りで前線を無断撤退してしまったことによって「腰抜け」「弱虫」「卑怯」など評価が定着してしまったのも、結果責任を負わなければならない軍司令官として、仕方がないだろう。


しかし、当時の富永が心身的に病んでいたことを知っていた軍や報道関係者からは同情する意見もあり、富永と陸軍士官学校から同期生で、富永にフィリピンからの撤退を提案し、後の東京裁判で死刑となった第14方面軍参謀長武藤章中将は「当時の戦況でことに燃料、弾薬の乏しかったカガヤン河谷に、航空軍司令部が固着しているのは意味がない。速やかに台湾に移って作戦の自由を得る方が適当であり、私が富永に勧めた」と擁護している。また作家の山岡荘八「富永中将だけを責めようとは思わない。中将は病気のために判断を誤ったのか、一時でも早く空軍を再建しなければとするあせりと病気が重なって、参謀たちに無理に台湾行きの機体に担ぎ込まれた」と著書に記述している。当時第4航空軍を取材していた記者たちは「当時の四空軍の参謀は航空軍の特権意識が強かった。彼らは自分たちが後退するのに、軍司令官を置き去りにはできないので、心身ともに病んでいた富永に強請して、台湾行きを納得させたと、自分たち記者は一致して考えていた」と参謀らが主導したと述べている。


富永は当時のことを振り返り「戦場における勘の鋭さがなく」「幼稚な観察眼だと笑われても一言もない」「私の不徳、私の連携の不十分の致すところ」と自分には指揮能力はなかったとするとともに、無断撤退については、参謀長から虚偽の報告があったとしながらも、「皆、私の不徳不敏のいたすところでございまして、私としては、この敗軍の将たる私が、別に私から御説明申すことは一言もなく、ただすべて私の不徳不敏のいたすところ」「みな私の至らぬ不敏不徳の結果でございまして、いかなる悪評をこうむりましても、私としては何の申し上げようもございません」「私は一身をもってこの責任を負いまして、すべての悪評はすべて一身に存することを覚悟いたしております」「周囲の者に何らの罪もなければ、何らの責任もなく、すべて私が負うべき責任でございます」と述べており、すべての責任は自分にあったとしている。


余談

女性関係について

ダメ軍人との評価を強調するためか、富永が芸者を愛人にしていたとか、慰安婦をいつも側に置いていたとか、女性にだらしなかったと叩かれることが多い。

これは、富永叩きの急先鋒であった高木俊朗が著書の戦記小説で書いたことが主な元ネタであるが、高木はいわゆる「インパール5部作」で作戦中で部下将兵が苦闘しているのに、軍司令官の牟田口が芸者に現を抜かしていたと糾弾していたように、女性関係ネタの記述によって批判対象の人物の人格攻撃を行うことがあった。


牟田口については、ビルマ方面軍司令部の風紀が乱れていたとか、牟田口個人についても、お気に入りの若い芸者がおり、その女性に堕胎の手術を行ったという軍医の証言など、高木の著作以外での証言などもあって、ある程度は事実であったと言われているが、こと富永については、高木の著作もしくはその著作の孫引き以外に、女性にだらしなかったという記述はほぼ見られない(台湾撤退後に、富永の軍司令官軍用車に芸者らしき女性が同乗しているのを目撃したという証言はある)。高木も取材で、富永の女性関係に関する証言を殆ど得られなかったようで、著作においても、牟田口と比較すると富永の女性に関する記述は遥かに少なく、具体性に欠けている。


実際に、フィリピンで第四航空軍を取材し、富永の軍司令官官舎で寝起きを共にしていた読売新聞辻本芳雄記者(のちに同新聞社会部長として、太平洋戦争回顧の長期連載企画「昭和史の天皇」を主幹)によれば、煙草も酒もやらず、夜を一人で静かに過ごすことが多かった富永は、毎晩辻本を呼んで話し込んでいたということで、愛人や慰安婦と過ごしていたという事実は確認できない。

オリキャラ2

このような濡れ衣を着せられたのは、富永が健康を害したのち、看護をしていた日本赤十字社従軍看護婦慰安婦と勘違いした兵士がデマを広げたことも原因と思われる。

心身ともに衰弱して寝込むことが多くなった富永に、参謀たちが配慮して3人もの日本赤十字社の正規の従軍看護婦を看護につけていたが、彼女らは富永を献身的に看護したので、富永も彼女らには優しく接していた。富永の看護は台湾に脱出する前日まで行われており、富永は今までの献身的な看護への感謝の気持ちとして、自分たちのフィリピンからの脱出への同行を提案したが、彼女らは同僚の看護婦がまだ前線にいるので自分たちだけ脱出できないと提案を断っている。富永は彼女らの覚悟に感動して、3人にそれぞれ贈り物を贈っている。

フィリピンに派遣された日本赤十字社の従軍看護婦は半数が帰らぬ人となったが、富永を看護した3人はどうにか日本に生還し、なかでも一番若かった入野看護婦は、富永から贈られた富永直筆の漢詩が書かれた扇子を終生大事にしていた。

このような事情を知らない一部の兵士などが、戦場に似つかわしくない若い女性が富永の近くにいるのを見て、富永が慰安婦を看護婦扱いにしていつも近くに置いているなどとのデマを広めている。このデマは第14方面軍司令部まで達し、参謀長の武藤が調査を命じたこともあったが、最終的に事実無根であったことが判明している。


また、マニラで営業していた陸軍ご用達の料亭『廣松』が、第4航空軍専属の料亭で、富永らが芸者を愛人として囲っていたと高木の戦記小説に書かれて、それが検証なしに広められたことも原因の一つと思われる。

しかし、フィリピンからどうにか日本に生還した料亭『廣松』の女将(源氏名は雛千代)が戦後に語ったことによれば、料亭『廣松』は第4航空軍ではなく第14方面軍の管理下であった。

マニラの『廣松』は、第14方面軍の要請によって、台湾にあった料亭『廣松』の二号店として出店したもので、軍の資金的な支援もあって、極めて豪華絢爛な作りであり、戦局が悪化するまでは連日、軍高官や政府要人などの上客で盛況であったという。

その後に戦局が悪化してくると、第14方面軍の指示によって、負傷兵に対する慰問活動などもおこなっており、最後には兵舎替わりに使われていた。

兵舎替わりとなってからは、特攻隊員も宿泊に来ることもあったが、女将を始め芸者たちは、自分ら同世代で若くして死んでいく特攻隊員たちに同情し、司令部の年寄たちが特攻すればいいと非難していたなど、富永ら第4航空軍司令部には批判的であり、特別に親密な関係ではなかったとしている。


富永は家族を大事にしており、妻女も戦後に富永がシベリアから帰ってくるのを待ち続け、ようやく帰国が決まると、マスコミの取材に「喜びの乾杯をあげたい」と喜んで答えている。しかし、マスコミにマッチポンプで「軍の高官の家族として反省が足りない」とバッシングされた。妻女はそれにめげることなく富永を迎えて、富永の晩年には二人で仲良く会合に出席する姿も見られ、富永の最期も看取っている。

富永の娘も、富永に対するマスコミのバッシングに対して抗議の投書を新聞社に送り付けるなど、父親を慕っていたが、逆に富永から「余計なことはしなくていい」とたしなめられている。


フィリピン脱出時の航空機について

IJA 独立第49飛行隊 キ51九九式襲撃機

脱出時に富永は自分が乗る航空機から部下をわざわざ下ろして代わりに芸者を乗せ、さらにウイスキーを大量に積み込んだなどと面白おかしく言われることがあるが、これもフェイク・ニュースであり、ダメ軍人ぶりを強調する目的で流布されたと思われる。

このようなフェイク・ニュースでは書かれることがない富永がフィリピン脱出時に搭乗した機体であるが、実際に富永が搭乗した機体は単発復座の小型機である九九式襲撃機であり、芸者を何人も詰め込むことはできない。

さらに、デング熱で弱って満足に航空機に搭乗できなかった富永を、参謀たちが寄ってたかって、着の身着のままでどうにか後部座席に押し込んで出発させており、同行したのは九九式襲撃機の操縦士と、別の機に搭乗していた副官の内藤准尉とその機の操縦士のみであった。この光景は多くの軍関係者や従軍記者に見られており、のちに多くの新聞記事や手記に記述されている。

ウィスキーの件については、富永ら第4航空軍司令部がフィリピンから脱出した後に、現地行政の要人も続いて脱出しているが、その様子を記述した戦後の朝日新聞の記事で、ツゲガラオ地区司政長官の増田という人物が重爆いっぱいに秘蔵のウイスキーを満載して脱出したというエピソードが記述されており、このエピソードがいつの間にか富永のものにすり替わってしまった可能性が高い。そもそも富永自身は酒を好んでは口にしない下戸であり、わざわざ飲めないウィスキーを持っていくとは思われない。

芸者についても、マニラの日本陸軍ご用達の料亭『廣松』の芸者たちは、ルソン島に残った第14方面軍の管理下にあって、富永らが脱出後もルソン島に残り、第14方面軍とルソン島山中を終戦まで彷徨って経営者や芸者で死亡者ま出ており、一緒に逃げたという事実はない。


長男について

長男の富永靖少尉は父親の汚名を返上しようと特攻に志願し、そのあまりに堂々とした態度に「あれは誰か」と参謀が尋ねると「富永閣下の息子さんです」という答えが返ってきたとされる。その手には富永から贈られた日章旗を握りしめていたとか。

靖は母側の祖父が著名な英語の教育者であった関係で幼少のころから英語に親しみ、旧制中学校では親友と日本における英語普及のため、学生による英語弁論大会を開催しようと誓い合っている。

やがて靖は慶應義塾大学に進学して英語の勉強を続けたが、学徒出陣によって在学中に徴兵されることとなり、航空兵を目指すこととなった。靖が訓練中に父の富永が台湾へ無断撤退し、陸軍内で激しく批判されていたため、靖は富永家の汚名返上のため特攻を志願することとした。出撃直前に靖は英語弁論大会開催を誓い合った親友に「出撃のときは父から贈られた日の丸で鉢巻し、母から頂いた千人針を身につけて行きます。敵艦に突入するとき、君の名を叫びながら。さようなら」という遺書を送っている。

1945年5月25日に第58振武隊として、尾翼に釜茹で髑髏のマーキングをした四式戦闘機「疾風」で沖縄方面に出撃した靖はそのまま還らぬ人となり親友との誓いを果たすことができなかったが、靖と誓い合った同級生の親友は、その約束を実現するため多くの労苦を乗り越えて英語弁論大会の開催にこぎつけた。その英語弁論大会とは、今日も続いている高円宮杯全日本中学校英語弁論大会であり、日本における学生への英語普及に大きく貢献することとなった。

なお、高木は自分の著作で、靖は成績不振のため航空兵にはなれそうもなかったのを、父親の富永が裏から手をまわして合格させたと主張しているが、詳細は不明である。


諜報の専門家

第4航空軍司令官時代と「東條の腰巾着」時代の印象が強すぎて、それ以外の軍人としてのキャリアについて語られることが少ない富永であるが、永年に渡って色んな部署で対ソ連の諜報活動に携わっており「諜報活動の専門家」とも言える。

語学力に優れていた富永は、若かりし頃に参謀本部付でフランスの駐在武官に派遣されているが、そのときの任務は、ヨーロッパ内で対ソ連共産党活動をしていた亡命ロシア人組織との連絡役であった。その後関東軍の高級参謀時代も満州で対ソ諜報活動に従事している。

自分が諜報活動に従事してきた経験で参謀本部の庶務課にいたときには、日本陸軍の情報管理の杜撰さを指摘し、その強化に乗り出して大本営に第8課謀略課を立ち上げている。また、参謀本部作戦部長のときには、独ソ戦で苦戦するソ連軍の背後をついて極東のソ連領内に侵攻する作戦計画関東軍特別演習の作成にも関与した。

陸軍次官のときに、ソ連の大物スパイリヒャルト・ゾルゲが逮捕されたので、富永はソ連大使館に赴いて、ゾルゲとソ連国内で逮捕抑留されていた日本人との捕虜交換交渉も行っているが、これはソ連から拒否されている。

ゾルゲ国際諜報団首魁 リヒャルト・ゾルゲと不愉快な仲間たち

戦後、富永はそのような経歴を熟知していたソ連当局によって、悪名高いモスクワのルビャンカの監獄に入れられ激しい尋問を受けている。

さらに富永はモスクワ近郊の森の中に極秘に設置されていた『ダーチャ』と呼ばれる監獄に移送されて、厳しい尋問を受けているが、その特別監獄で尋問されていたのが、ヨーロッパにおけるスパイ活動でナチスドイツに恐れられる程の活躍をしながらも、スターリンに二重スパイの濡れ衣を着せられて闇に葬り去られようとしてしていたスパイ組織「赤いオーケストラ」の伝説的スパイレオポルド・トレッペルたちであったことからも、ソ連が富永を如何に警戒していたか判るであろう。

ちなみに、このときに富永は、優れた語学能力を駆使して、監獄の所長に「食餌療法をしているので、毎日バナナを支給してほしい」などと自分の待遇改善を交渉しているが、モスクワに潤沢にバナナがあるはずもなく、所長からは「北極オレンジを探すようなもの」と拒否されている。しかし、他の収容者とは違う特別食を支給することを認めさせている。

所長を含めて監獄の幹部は富永が他の収容者と情報交換することを警戒していたが、富永は看守らに気づかれることなく、その語学力を駆使して他の収容者たちと様々な情報交換を行っている。


作品への登場

  • 激動の昭和史 軍閥(1970年8月11日に公開の東宝製作の映画)

俳優富田浩太郎が演じている。史実の「竹槍事件」で加山雄三演じる新聞記者を無理やり徴兵したり、東條内閣崩壊時には、元老の口封じをやりましょうなどと物騒な提案を小林桂樹演じる東條英機に行う憎まれ役で登場。あまりにもひどい扱いなので、東條ら主要な登場人物が実名のなか、「陸軍次官富本」として偽名で登場している。

  • 不死身の特攻兵(原作鴻上尚史、のちに東直輝が「不死身の特攻兵 生キトシ生ケル者タチヘ」との表題でコミカライズ)

作家高木俊朗のノンフィクション風戦記小説「陸軍特別攻撃隊」を元ネタにした作品。原作、コミカライズともに元ネタのフィクション交じりの高木の記述に忠実に、徹底的に無能非道無情のダメ軍人として描かれている。特にコミカライズでは作画の東の画力の高さも相まって、主役の「不死身の特攻兵」こと佐々木友次伍長を食うような活躍? を見せており、作品内でのヘイトを一身に集めている。「激動の昭和史 軍閥」よりひどい扱いながら偽名にするなどの配慮はなし。

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