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概要

アメリカ陸軍の軍人。最終階級は元帥


来歴

誕生より

1880年1月26日、リトルロックアーカンソー州)で生まれた。父アーサーは南北戦争に従軍し叙勲を受けた事もある軍人で、幼少時のマッカーサーはインディアンと対峙するためので育った。

1899年の米比戦争で父が義勇軍師団長としてスペイン領のフィリピンを侵略し、初代フィリピン大統領を生け捕りにしたり、先住民族モロ族を絶滅させる(「M1911」の記事参照)など活躍。戦後はフィリピンの植民地総督となる。


1899年にウェストポイント陸軍士官学校首席で入学するが、上級生たちに目をつけれられ「野獣兵舎」で凄惨ないじめを受ける。同期生がいじめで死亡し軍法会議が開かれたが、マッカーサーは最後までいじめた上級生の名を明かさず、全校生徒から尊敬を勝ち取った。


陸軍入り

1903年、陸軍士官学校を首席で卒業し、陸軍に少尉として任官した。第3工兵大隊所属となり、マッカーサー家が利権を持つフィリピンに配属される。


1905年、父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となり、マッカーサーもその副官として東京で勤務。日露戦争で活躍した司令官たちと面談する機会を得た。

1906年、帰国するとセオドア・ルーズベルト大統領の軍事顧問補佐官に任じられた。

1912年、父が脳卒中で死去。体調の良くない母を気遣い異動を申し出ると、陸軍参謀総長レオナルド・ウッド陸軍省にマッカーサーのために新しい部署を作ってくれた。

1913年、メキシコ革命に干渉するためアメリカはフランク・F・フレッチャーベラクルス占領を命じ、マッカーサーも情報収集のため送り込まれた。輸送力不足解消のためメキシコ軍の蒸気機関車を奪取したと主張したが、信頼性に乏しいため議会名誉勲章の授与は見送られた。


第一次世界大戦

1917年、第一次世界大戦へのアメリカ参戦が決まり選抜徴兵法を制定したが、徴兵された兵士が訓練を終えて戦場に出るまでに1年ほどかかるのが問題だった。

マッカーサーは州兵市民軍としてフランスに派遣する案をウッドロウ・ウィルソン大統領に提出して採用され、どの州の州兵を派遣すべきかについては州兵局長ウィリアム・A・マン准将が「全26州の部隊で編成してはどうか」と述べ、マッカーサーも賛成し「虹のように様々な色(風土や性格)を持った兵士が、大西洋を渡りヨーロッパで戦う」と師団を表現した。編成された第42師団はレインボー師団と呼ばれ、マッカーサーが二階級特進して大佐となり、参謀長に就任した。


1918年2月、第42師団は西部戦線に配属され、精鋭部隊歩兵第2師団に次ぐ実績を上げた。マッカーサーは参謀長なのに前線に出たがり、常にヘルメットを被らず軍帽を被り、タートルネックのセーターに母の手編みのマフラー、手には乗馬鞭か杖という伊達者ぶりを発揮し非常に目立った。2回負傷し、国外からも含めて15個の勲章を受章した。

11月11日、第一次世界大戦が終結。


戦間期

1919年、母校である陸軍士官学校の校長に就任。いじめの舞台となっていた「野獣兵舎」を廃止し、スポーツ競技により団結心を養うことに力を入れた。

1922年、フィリピンにマニラ軍管区司令官として着任。元来の社交性を発揮し、フィリピン社会上層部に強い人脈を作る。1925年にはアメリカ陸軍史上最年少の44歳で少将へ昇進し、アメリカ本国へ転属する。

1928年、アムステルダムオリンピックでアメリカ選手団団長を務めたが、その留守に妻ルイーズが複数の男性と浮気をしていたと新聞で報じられる。

1929年に離婚が成立し、在フィリピン・アメリカ陸軍司令官としてフィリピンに赴任し、マニュエル・ケソンらフィリピン人エリートとの友情を深めた。

この年ウォール街株価大暴落が起き、大恐慌の時代となる。


1930年、本国に戻り、ハーバート・フーヴァー大統領によりアメリカ陸軍史上最年少で参謀総長に任ぜられ、階級は一つ飛び級して大将となった。

大恐慌の影響で陸軍の予算は削減され、マッカーサーは議会を「平和主義者とその同衾者」と呼んで敵視し、軍隊の規模を守ることに必死だった。

1932年に、生活に困窮した退役軍人恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座る「ボーナスアーミー事件」が発生した。フーヴァー大統領は退役軍人たちの解散を待ちきれず、警察と軍に排除を命令した。マッカーサーはジョージ・パットン少佐の部隊に丸腰の退役軍人らを追い散らさせ、彼らのテント村に放火したため数名の死者と多数の負傷者が生じた。マッカーサーは「革命のエーテルで鼓舞された暴徒を鎮圧した」と記者会見で述べたが非難の声が高まる。沈静化を図るため記事を書いたジャーナリストに名誉棄損訴訟を起こすが、元愛人への取材でマッカーサーが大統領や陸軍長官などに対して侮辱的な言動をしていたことをつかまれ、訴訟を取り下げて手打ちとした。フーヴァー大統領はボーナスアーミー事件での不手際や、経済政策の不備により大統領選で歴史的大敗を喫して政界を去った。


1933年、フランクリン・デラノ・ルーズベルトが大統領に就任するが、やはり軍事予算削減の方針で、マッカーサーは「共産主義者陰謀」と批判して怒りを買う。しかし、ルーズベルト大統領が進めるニューディール政策には反対だったが協力している。ルーズベルト大統領もまた、マッカーサーの参謀総長の任期を延長している。


1935年、参謀総長を退任し再び少将となったマッカーサーは、破格の条件で大統領予定者マヌエル・ケソンの要請を受け、フィリピンに軍事顧問として赴任する。フィリピンは1946年の独立が決まっており、フィリピン国民による軍が必要であった。

フィリピン到着後、母メアリーが死去した。

1936年、未だ存在しないフィリピン陸軍の元帥に任命されたが、軍事力の整備は資金難により一向に進まなかった。マッカーサー個人はアメリカ資本のフィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。

1937年、陸軍を退官して生活拠点を完全にフィリピンに移し、ジーン・マリー・フェアクロスと結婚した。


第二次世界大戦

1939年、第二次世界大戦が勃発。

1940年、日本軍仏印に進駐したためルーズベルト大統領は日本の在米資産を凍結、石油禁輸を宣言し日米関係は緊張した。戦争になった場合、フィリピンの現戦力では心許ないため、戦力増強が図られる。

1941年、ルーズベルト大統領は東南アジア事情に詳しいマッカーサーの現役復帰を要請。7月26日付で少将として召集、翌日付で中将に昇進し、在フィリピンアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍司令官となった。

マッカーサーの友人であるアメリカ陸軍航空隊司令ヘンリー・アーノルド少将はB-17のフィリピン集中配備を計画し、他にもA-24P-40など207機の増援が約束され、マッカーサーは「日本との戦争が始まれば、アメリカ海軍は大して必要がなくなる。アメリカの爆撃隊は殆ど単独で勝利の攻勢を展開できる」と楽観した。


1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。マッカーサーは真珠湾で日本軍が撃退されるものと考えてその報告を待ち、B-17による台湾攻撃を2度も却下し時間を無駄にした。

翌朝、3回目でようやく許可したが、飛行場に並んだ新鋭機は台湾から飛来した日本軍機の攻撃によりほとんどが地上で破壊された。現場では日本の攻撃を避けるため朝から上空に退避させていたのだが、出撃命令が出て給油のため飛行場に降りたタイミングで日本軍機が飛来したのであった。

マッカーサーは日本人が飛行機を操縦できるとは思っていなかったのでアメリカ本国へ「ドイツ人パイロットが操縦している」という間違った報告を行っていた。

零戦が長大な航続距離を持つ事はまだ知られておらず、アメリカ軍は日本空母がフィリピン近海から攻撃を行ったと考え捜索を続けたが発見できなかった。


12月10日、頼みの航空戦力が序盤で壊滅し、日本軍がルソン島上陸を開始した。12月22日にはリンガエン湾から上陸してきた日本軍2個師団をルソン島防衛軍9個師団が迎え撃ったが、訓練不足で勝負にならず逃げ出した。

アメリカ極東陸軍はマニラ市を放棄し、1942年1月6日までにバターン半島コレヒドール島籠城する。想定外の10万人以上が立て籠ることになり日本軍は攻略に手こずるが、アメリカ極東陸軍も飢餓に苦しんだ。アメリカ軍首脳はフィリピン救出は不可能と判断する。

マッカーサーは安全なコレヒドール要塞に籠って前線に出てこないため兵士たちから「Dugout Doug」と揶揄されていたが、アメリカ本国のメディアにより「2ヶ月にわたって日本陸軍を相手に『善戦』している」と「英雄」に仕立てられ、捕虜になってアメリカ軍の士気が低下する事を恐れたルーズベルト大統領は、マッカーサーにケソン共々オーストラリアへ脱出するよう命じた。

3月11日、マッカーサーはアメリカ海軍の魚雷艇ミンダナオ島に脱出した。

3月16日、マッカーサー一行はデルモンテ飛行場からB-17に乗り込み、オーストラリアに着いた。3月20日、アデレード駅に到着すると、マッカーサーは集まった報道陣に「I shall return(私は必ずここに戻ってくるだろう)」と宣言した。

この敵前逃亡でマッカーサーの軍歴と自尊心に大きな傷がつき、「I shall return」は当時、アメリカ兵の間では「敵前逃亡」の意味で使われていた。

逃げ出すマッカーサー

オーストラリアへ脱出後もマッカーサーは全フィリピン防衛の指揮権を手放さず、現場の状況も分からないまま命令を送り続けた。4月9日にエドワード・P・キング少将、5月6日にジョナサン・ウェインライト少将の部隊が降伏し、マッカーサーは終生彼らを許さなかった。

マッカーサーはアメリカ史上もっとも悲惨な敗北を喫した将にも拘わらず、英雄としてアメリカ人に熱狂的に支持され、ルーズベルト大統領は彼に宣伝価値を見出し、議会名誉勲章を授与した。


4月18日、マッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任したが、ほとんど戦力が無いことに青ざめた。戦争の先行きを悲観したオーストラリアは国土の大部分を放棄し、南東部の人口密集地だけ守ろうという考えに傾いていたため説得して止めさせ、ニューギニア島を盾にオーストラリア大陸を防衛させるようにした。


5月7日、ロサンゼルスウェストレイク・パークにマッカーサーの銅像が建てられ、マッカーサー・パークと改名された。


6月5日、ミッドウェー海戦日本海軍が主力4空母を失って敗れ、アメリカ軍が反攻に転ずる。

マッカーサーは日本軍の守備が固いところは攻撃を避け、補給路を断って無力化するのを待ち、脆弱な所を攻撃するという「蛙飛び作戦」を考案した。ニューギニアの戦いで日本軍はマッカーサーの思惑に嵌り、多くの餓死者・病死者を出す。これはフィリピンで損なわれたマッカーサーへの評価を回復した。


1944年春、アメリカ陸軍も海軍もフィリピンへの反攻作戦は戦略上不要と判断し、沖縄中国本土への攻撃には台湾を拠点とするのが合理的と考えていたが、マッカーサーは自らの面子を守るため国務省参謀本部、ルーズベルト大統領を非難し、共和党寄りのメディアを利用してアメリカ人に「フィリピン奪還こそが一日も早く戦争に勝利するための方策である」と訴えた。海軍ではマッカーサーと個人的に親しいウィリアム・ハルゼー海軍大将がマッカーサーの主張を支持した。

ルーズベルト大統領はマッカーサーとニミッツに直接意見を聞いて方針を決める事とし、7月26日に両名をハワイに召喚したが、マッカーサーが精神論を述べ立ててニミッツを圧倒し、大統領と二人きりとなると大統領選に絡めて恫喝し、自分の案を認めさせた。

フィリピンは台湾の代わりに戦場となり、マッカーサーは174,000名の兵員を用意する。

10月20日、ほとんど抵抗を受けずレイテ島に上陸したが、日本軍はレイテ島を決戦の地として陸海軍が大戦力を投入してきたため、太平洋戦争中でも屈指の激戦となった。

マッカーサーはバターン半島籠城時の「Dugout Doug」という揶揄を気にしていたため最前線で指揮をとる事に拘り、何度も命の危機に曝された。


栗田健男中将率いる第一遊撃部隊(第二艦隊基幹:通称栗田艦隊)がサンベルナルジノ海峡まで迫ったが、「ヤキ1カ」に敵機動部隊という電文を受けて反転し危機は去った。マッカーサーの幕僚たちは日本軍の陽動に引っ掛かったハルゼーに怒りを露わにしたが、ハルゼーと個人的に親しいマッカーサーは「彼は私の中では未だに勇気ある提督なのだ」と怒鳴りつけて黙らせた。


上陸後もなかなか飛行場整備が捗らないアメリカ軍に対して、富永恭次中将率いる第4航空軍が猛攻をかけ、レイテ島のアメリカ軍飛行場は火災により煌々と照らされ、地上で多数のアメリカ軍機が撃破され、大量の物資・弾薬が爆散し、アメリカ軍は一時期補給不足に悩まされた。

マッカーサーの司令部兼官舎も何度も空襲され、官舎に爆弾が落とされ、マッカーサーの寝室の隣の部屋に友軍の高射砲弾が飛び込むなどしたが爆弾や砲弾は全て不発だった。日本軍機の機銃掃射がマッカーサーの頭すれすれを横切ったが、マッカーサーは傷ひとつ負うことなく、運の太さを見せた。


アメリカ軍はレイテ島を確保してフィリピン全土解放の足掛かりとした。日本の軍政の失敗で貧困や飢餓に苦しめられていたフィリピン国民の多くは熱狂的にマッカーサーを歓迎し、積極的に武器を取ってゲリラとなって日本軍と戦った。マッカーサーは回顧録で「日本軍の人的損失と比較すると我が方の損害は少なかった」と述べているが、ゲリラとなったフィリピン人が多数死傷し、また日本軍のゲリラ討伐の巻き添えとなったり、アメリカ軍の砲爆撃の巻き添えになったりとフィリピン民間人の死者は100万人以上にのぼった。

12月、マッカーサーは陸軍元帥に昇進した。


1945年4月12日、ルーズベルト大統領が死去。副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。これにより陸海軍の日本本土進攻の主導権争いが激化し、マッカーサーは南部九州攻略作戦である「オリンピック作戦」を担うこととなったが、原爆投下とソ連の対日参戦で、日本は8月15日にポツダム宣言を受諾したため、「オリンピック作戦」は開始されることはなく終わった。

トルーマン大統領はマッカーサーを嫌っていたが、本国での圧倒的人気を考慮し連合国軍最高司令官として日本占領を任せる事とした。


連合国軍最高司令官

ふたり

8月30日、マッカーサーは厚木海軍飛行場(神奈川県)に降り立つ。略装でネクタイをつけず、第一ボタンは外したままで、勲章の類は付けず、安物のコーンパイプを咥えていた(普段は高級葉巻を吸っていた)。


日本の降伏の受け入れ方には連合軍内でも様々な意見があったが、マッカーサーは東京の地で世界のメディアが注目するなかで降伏調印式をおこなうこととし、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で行われた。


皇居前の第一生命館を接収し、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)とした。

トルーマン大統領からは「天皇と日本政府の統治権はマッカーサーに隷属しており、その権力を思う通りに行使できる」「我々と日本の関係は条件付きのものではなく、無条件降伏に基づいている」「マッカーサーの権力は最高であり、日本側に何の疑念も抱かせてはならぬ」「日本の支配は満足すべき結果が得られれば、日本政府を通じて行われるべきであるが、必要であれば、直接行動してもよい」「出した命令は武力行使も含め必要と思う方法で実施せよ」という空前の権力が与えられていた。


アメリカ議会では昭和天皇を戦争犯罪人として裁く決議案が提出されていたが、昭和天皇と会見したマッカーサーは天皇を日本国民団結の象徴であると考え、「天皇制を廃止して天皇を退位させても占領政策への効果は疑わしい」とし、天皇制維持の方向で国務省に意見を提出している。このため昭和天皇の戦争責任は不問とする方針となった。


最初にマッカーサーが着手したのは日本軍の武装解除だった。内外に700万人の兵力が残存していたが、陸海軍省など既存組織を利用することにより平穏無事に進み、内地の257万名の武装解除は2カ月で完了した。

続いて戦争犯罪人逮捕が行われた。マッカーサーは共産主義勢力の拡大を恐れていたため極東軍事裁判での訴追回避に尽力するなど戦犯に同情的だったが、フィリピン戦に関する訴追には「聖なる義務」と称して熱心で、山下奉文大将と本間雅晴中将については戦争終結前から訴追の準備をし、なるべく屈辱的な手段で殺すことを決めており、明らかな復讐裁判だった。


日本統治においては徹底した報道管制を行い、GHQの発表は全て事実として日本の新聞各紙に報道させ、記事にしなければ発行部数を減らすと脅迫し、アメリカ兵による暴行事件を報じた朝日新聞は2日にわたり発禁とされた。

9月27日、GHQは「支配者=マッカーサー」である事を日本国民に知らしめるため、昭和天皇との会談を行った。この際の略装でリラックスした長身のマッカーサーと、礼服で直立不動の小柄な昭和天皇が写った写真が新聞記事に掲載され、日本国民に敗戦を改めて実感させた。内務大臣山崎巌はこの写真が載った新聞を「畏れ多い」として販売禁止処分にしたが、GHQの反発を招き東久邇宮内閣の退陣の原因となった。これを機にGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」を指令し、日本政府による検閲を停止させ、GHQが検閲を行うこととし、日本の報道を支配下に置いた。


大統領選出馬

この頃からマッカーサーはアメリカ大統領選に興味を持ち、1948年に予定されていた大統領選を見越して準備を進めていた。現役軍人は大統領になれないため、本国に日本統治の安定ぶりをアピールし、統治そのものを早く終わらせようとしていた。

1948年、マッカーサーは共和党から大統領選に出馬することを表明した。この際、日本中の新聞や商店にはマッカーサーの大統領選を応援する広告が掲載され、本国のニューヨーク・タイムズでも有力候補として紹介されるなど、その抜群の知名度により一気に有力候補となった。

だが、選挙になると党代表候補選でトマス・E・デューイに大敗を喫し、大統領への道は絶たれた。ちなみにデューイ候補も本選で現職大統領ハリー・S・トルーマンに破れている。


朝鮮戦争

再び日本統治に専念する事になったマッカーサーだったが、1950年に朝鮮戦争が勃発する。

マッカーサーはCIAなどから朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の不穏な動きを報告されていたにもかかわらず「朝鮮半島で戦争は起きない」と決めつけて策を講じておらず、北朝鮮の南部侵攻の報を受けて大きなショックを受けた。

だが、本国から朝鮮半島に展開するアメリカ軍の指揮権を付与されたにもかかわらず「北朝鮮の侵攻は一時的な勢いであり、すぐに大韓民国韓国)側が盛り返して沈静化する」と判断してまたしてもろくに手を打たず、物資や現地の自国民を救助する船舶や航空機の手配しか行わなかった。その結果、権限付与の翌日には韓国の首都・ソウルが北朝鮮に占領されてしまった。

首都陥落の知らせを聞いたマッカーサーはようやく事の重大さを認識し、直ちに韓国に赴いて韓国大統領李承晩と会見し、前線の兵士達の激励を行った。

窮地に陥った韓国側を救うべく占領された仁川への上陸作戦を計画したが、この作戦はマッカーサーをして「成功率は0.02%」と言わしめるものであった。周囲は作戦に反対し、本国の陸海軍幹部やハワイの太平洋艦隊司令官が東京直談判に現れる程であったが、他に打開策が無かったため作戦を強行し、見事成功させた。この成功により、韓国側はソウル奪還を達成しマッカーサーは高い人気と名声を得た。


ソウル奪還後、トルーマン大統領は「無駄な北上は中華人民共和国中国)を刺激する」として、北上しないよう命令を出していた。しかし、マッカーサーは「中国は戦争に絡んでこない」と考えて勝手に北上を続け、中国との国境線近くまで攻め進んだ。その結果、中国の義勇軍(実際は人民解放軍)が北朝鮮側に参戦する事態となり、朝鮮戦争の泥沼化を招いてしまった。これは、戦闘でインフラも無く荒野と化した朝鮮半島に滞在する事を嫌ったマッカーサーが、事あるごとに住み慣れた東京に帰っていたため、現地の戦況を正確に把握していなかった事が原因とされている。


再び窮地に陥ったマッカーサーは、台湾へ逃れた中華民国政府と連携した中国本土への直接攻撃を主張するようになり、ついには満洲への核兵器の使用、朝鮮半島への放射性物質の散布すら唱えるようになった。

トルーマン大統領は中国への核攻撃によるソ連参戦とそれに伴う第三次世界大戦を危惧し採用せず、マシュー・バンカー・リッジウェイ中将が国連軍を立ち直らせ、1951年3月に現有兵力により中国軍を38度線まで押し返した。

面目を失ったマッカーサーは文民統制を無視し、3月24日に開いた会見で勝手に中国に最後通牒を叩きつけた。

1951年4月11日深夜、トルーマン大統領は記者会見を開き、マッカーサーの解任を発表した。


更迭の報を受けると、日本の新聞にはマッカーサーへの感謝を綴った広告が並び、4月16日、リッジウェイに業務を引き継いで帰国のため車で羽田空港に向かう沿道には見送りの日本人が約20万人も押し寄せた。

しかし、マッカーサーが帰国する頃にはGHQの検閲も有名無実化しており、その神格化を批判する記事が出始め、5月3日からのアメリカ上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会での質疑中の「日本人は12歳」証言などを機に日本国民のマッカーサー熱も冷めていった。


晩年

本国に戻ったマッカーサーは4月19日、上下院の合同会議で退任演説を行い、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と述べた。

4月21日、ニューヨーク・タイムズ紙がウェーク島会談速記録をすっぱ抜き、「中国の参戦はないと自分は言っていない」というマッカーサーの嘘が覆された。

5月3日より上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席。共和党がマッカーサーをアゲるための聴聞会でありマッカーサーも弁舌滑らかであった。しかし、ブライアン・マクマーン上院議員から朝鮮戦争での命令無視についてニューヨーク・タイムズの記事を引き合いに出して突っ込まれ、しどろもどろになって失態をさらし、国民的人気は勢いを失った。

1952年のアメリカ大統領選では再び出馬を模索したが、高齢のため支持を得られず断念してしまった。

その後、事務機器メーカーの会長職や名誉職をいくつか歴任した。


1964年4月5日、老衰によりこの世を去った。葬儀は国葬として執り行われ、日本から代表として吉田茂が参列した。


語録

  • I shall return

日本語訳は「私は必ずここに戻ってくるだろう」。太平洋戦争で日本軍の猛攻によりフィリピンから脱出を余儀なくされた際に言ったとされる言葉である。この後、マッカーサーは実際にフィリピンを奪還した。


  • Old soldiers never die; they just fade away.

日本語訳は「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」。1951年4月19日、退任演説での一言。元ネタが有り、マッカーサーが若い頃に軍で流行していた歌の歌詞を引用したものである。意味合いとしては「老兵は戦地に赴き死ぬ事もできない役立たずである。私は今その立場となったから、大人しく軍から消えよう」や「多くの戦いを生き抜いてきた老兵の魂は死ぬ事は無く、この身が滅びても皆さんと共にあるだろう」など解釈が分かれる。だが、演説した場では非常に好評だったのは確かで、マッカーサーを嫌っていた者ですら、その場では喝采を送ったと言われている。


  • Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.

日本語訳は「彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」第二次世界大戦での日本についての発言であり、1951年4月に、トルーマン大統領に司令官を解任されたマッカーサーは、帰国後の5月3日から5日までの3日間、上院軍事外交合同委員会での公聴会の宣誓証言で、上述の証言を公の場で行った。全文を簡単に纏めると「日本に資源は少ないので資源が輸入できなくなれば工場が稼働しなくなり、労働者が職を失って治安悪化するので、資源確保して国内を安定させるために奇襲攻撃を仕掛けてきた」という意味となり、事実、米国が日本への輸出を断つように努めていたことから、米国が実質的に侵略戦争を起こしたことを主張するものとなっている。

米国にとって不都合な事実を公にしたため、民衆からの人気は落ち、共和党内からも激しく嫌われることとなった。


縁戚関係

スコットランドから移民した貴族を祖先に持ち、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトなどと縁戚関係にある。


関連タグ

アメリカ合衆国 アメリカ軍 元帥 第一次世界大戦 第二次世界大戦 朝鮮戦争 連合国軍最高司令官総司令部 GHQ

ゴールデンカムイ:31巻の加筆部分に登場

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