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西竹一の編集履歴2015/04/24 19:18:07 版
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西竹一

にしたけいち

西竹一は日本の陸軍軍人にして華族(男爵)、1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。愛称・通称「バロン西(バロン・ニシ)」

1902年、東京市麻布区麻布笄町(現在の港区西麻布)にて生まれた。

1917年(大正6年)9月、広島陸軍地方幼年学校に入校。

1920年(大正9年)、陸軍中央幼年学校本科に進む。同期に辻政信ら。

1921年(大正10年)4月、陸士陸幼の制度改編で中幼本科を半年で修了、新設の陸軍士官学校予科へ第36期で入校。

1924年(大正13年)7月、陸軍士官学校(本科)を第36期生として卒業、見習士官として原隊の騎兵第1連隊附となり同年10月には陸軍騎兵少尉に任官。

1927年(昭和2年)9月、陸軍騎兵学校(乙種学生)を卒業し同年10月には陸軍騎兵中尉に昇進。

乗馬は華族として嗜んでおり、自身もそれを好んでいたことから兵科は帝国陸軍の花形である騎兵を選んだ。

1930年(昭和5年)3月、軍務として欧米出張中の西はイタリアにて、後に終生の友とも言うべき存在となる愛馬ウラヌス(ウラヌス号)と出会い、軍の予算が下りなかった事から自費で購入。

1932年 ウラヌス号と共にロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリストに。

2015年現在、馬術競技ではメダルを獲得した唯一の記録である。

4年後のベルリンオリンピックにも出場したが競技中落馬し棄権。

太平戦争勃発後、戦車兵として戦車第26連隊の連隊長として満州、そして硫黄島へ向かう。

戦車補充で一旦東京に戻った時、馬事公苑で余生を過していたウラヌスに会いに行く。

ウラヌスは西の足音を聞いて狂喜して、首を摺り寄せ、愛咬をしてきたという。

1945年、硫黄島を攻撃したアメリカ軍は「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と投降を連日呼びかけたが、応じることなく戦死。享年42歳。

戦死から1週間後、陸軍獣医学校に居た愛馬ウラヌスも死亡する。

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