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島原城の編集履歴

2015-05-05 15:13:10 バージョン

島原城

しまばらじょう

       島原城とは、長崎県島原市城内にあった日本の近世城郭である。    

概要

別名、森岳城、高来城。平城に分類される。

城の一番高い建物である天守閣からは雲仙普賢岳を拝め有明海を一望できる。

  • 歴史

有馬氏に代わって封じられた松倉重政が有馬氏の居城であった日野江城は手狭で治世には不向きとして新たな城を築く事を決意。約6年の年月を掛けて近世風の連郭式平城を完成させた。重政は4万石程度の小大名だったが城は立派な5層5重の白亜の天守と多数の櫓を備え、高い石垣を誇る頑強な城であり、藩の規模を上回るモノだった。そのため、費用をねん出するために重政は苛酷な税の取り立てを行い、人々を苦しめた。更に度々噴火した雲仙普賢岳からの火山灰と溶岩流によって構成された土地での土木作業は難しく、労働に駆り出された人々の負担は大きかった。


2代目である板倉勝家も苛酷な統治を行い、限界を迎えた農民浪人キリシタンと手を組み反乱を起こす(島原の乱)。島原の一揆勢は勢いに任せ島原城に押し寄せ、藩の軍勢と戦闘を繰り広げ追い詰めるが遂に城は落とせず、一揆勢は城を落とす事を諦め天草諸島の一揆勢と合流し原城に立て籠もった。


島原の乱終結後、勝家は苛酷な統治の責任を取らされ斬首刑となり、板倉家は断絶した。その後は高力氏を初め幕府の譜代大名が藩主となり、島原城も藩政の拠点として廃藩置県まで使用された。


明治時代に廃城となり天守閣などの建物は取り壊されていった。戦後になると天守閣や建物の一部がコンクリートで復元された。城内には板倉氏時代のキリシタン弾圧・苛酷な税の取り立てや雲仙普賢岳の噴火による被害を伝える資料館が存在している。

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