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超大和型戦艦の編集履歴

2015-07-03 20:40:08 バージョン

超大和型戦艦

ちょうやまとがたせんかん

大日本帝国海軍が計画した、大和型戦艦の派生型に位置する、建造計画では最後の戦艦。だが、高額な建設費などで計画自体が消滅した。

概要

大日本帝国海軍が計画した戦艦で、大和型戦艦の強化発展型に位置づけられる、日本最大最強の戦艦の艦型。


その艦型は、大和型をベースに51cm砲登載可能なように大型化されたとされている。計画の背景には、アメリカのモンタナ級戦艦が深く関係しており、実戦で同級を圧倒するために計画されたとされる。しかし、その資材はミッドウェー海戦の大敗北で雲龍型空母の建造に回されてしまい、建造計画は中止に追い込まれた。



建造計画的には、1930年代末期には構想され、第五次補充計画によって計画された戦艦2隻、第七九八号艦及び第七九九号艦(あるいは七九九号艦のみ)である。アメリカが46cm砲を搭載した新型戦艦を建造するという、艦政本部の懸念と、遅かれ早かれ46cm砲登載艦がアメリカに現れる事へ対抗心を抱いたことから、それをさらに打ち破るため、46cm砲よりも大口径砲の51cm砲を搭載することが計画された。計画時の時間の都合上、完全な新規設計は見送られ、先に設計された大和型戦艦の攻防力を中心に強化させた発展型であると伝えられている。構想された案で最も大型の案では、基準排水量85,000トン(満載排水量10万トン以上)、51cm砲3連装3基又は連装4基、速力30ノットというものであった。当初はこの案に乗り気であった軍令部と艦政本部だが、空前の巨砲である51cm三連装砲の設計・製造自体が困難であるだけでなく、三連装砲を搭載する場合には基準排水力が90,000tを超えると試算されドックや補給施設・港湾設備などの問題からも実現不可能であった。(10,0000トン級艦艇の建造が可能となったのは戦後のことである)このため、超大和型では重量削減のために、連装砲が採用される事となり、当初は連装砲4基8門を搭載するとされたが、この案でも基準排水量が85,000tに達すると試算され、大型化しすぎて運用上問題があるため、この案も採用される事は無かった。最終的に超大和型は51cm砲連装3基を大和型に近い規模の75,000トン級の艦体(元の船体のままでは、51cm砲の反動でひっくり返ってしまうため、多少の大型化は避けられなかった)に搭載し、速力も艦隊運用の都合上、大和型と同じ27ktとするという案が艦政本部より提案され、基本計画番号としてA-150が与えられる事となった。当時建造が開始された110号・111号艦と共に建造するため、大分県大神に工廠を新設、そこに新ドックを建造し、第七九八号艦は呉工廠での111号艦(一説によれば、「甲斐」か「三河」だったと伝えられるが、日本軍の艦名決定の慣例からすると、あくまで候補案の一つでしかなかったが)の完成が終わった後で、第七九九号艦は大分県の新ドックでの建造がされることとなっていたという。(大神がその予定地だったとされ、工廠の完成予定は1947年頃との見積もりもされていた)


超大和型は搭載砲塔の設計と製造については、ほぼ終わっていたが、船体の設計は終わっておらず、途中で計画が破棄された影響で、関連資料自体も殆ど残されていないため、数多くの説が存在する。

その内の有力な説をいくつか挙げると、合計4隻建造する計画だったという説、51cm砲搭載である都合上、排水量は大和型よりも2万トン以上大きくなるという説、時勢を鑑みて、対空能力と防御力を重視して副砲を搭載せず、対空用高角砲を増設する予定だったとする説など様々な説が存在している。高角砲自体も長10cm砲より危害半径に優れた五式12.7cm高角砲(八九式より長砲身)が搭載された可能性が存在する。


艦名

計画時に中止されたため不明であるが、ある海軍学者によれば、「駿河」と「近江」だったとも、「紀伊」、「尾張」だったともされる。しかしながら、当時の日本海軍は進水式の際に天皇陛下が決める慣習だったので、いずれも艦政本部の構想していた案に過ぎないのには留意が必要である


関連タグ

戦艦 大日本帝国海軍

前級:大和型戦艦

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