概要
伊勢桑名の刀工、村正の晩年の作。
「題目村正」「千子村正」とも呼ばれ、号のある刀よりも表記の揺れ幅が大きい。
初代千子村正晩年の作とも、三代目村正作とも言われる。
刃の長さ66.4cm、反り1.6cm、元幅2.8cm(二尺一寸九分)
表に村正銘と共に「妙法蓮華経」の題目が切ってあるためこう呼ばれる。
また裏には「永正十年葵酉十月十三日」と切られており、10月13日は法華宗の宗祖である日蓮上人の忌日である。刀工村正の信仰を物語る作品ともいえる。(※日蓮上人の死亡年は弘安五年)(*1)
刀身に彫刻があり、表は草の倶梨伽羅、裏は略体の倶梨伽羅像が彫られている。
茎に「鍋信」とあり、肥前佐賀城主鍋島信濃守勝茂が所持したという。
その後、勝重の嫡子である小城藩初代藩主鍋島元茂に譲られ、終戦まで代々伝わった。
真田幸村の所有であったとよく言われるが全く根拠のない話である。
妙法村正と小城鍋島家
記録を見る限り、妙法村正は小城鍋島家の家宝として重用されてきたようである。
小城鍋島家二代目当主・直能の年譜「直能公御年譜」によると永宝八年に直能はその息子で小城鍋島家三代当主である元武に武器などの御道具を譲っており、その中には「御陣太刀 村正」の名が見られる。(ただしこれが妙法村正と関係あるのかは不明)
「一同(正月)七日、朝御膳過 紀州様(元武)薫山御出被成候付、御引渡御直礼於吉日ニ付、御家之御道具御譲初被遊候
御鎧 胴亀甲菊とぢ
御兜 唐冠
御團 黒塗 マン字梵字有
御扇
御後立物 釼御直垂 赤地綿
神衣 白羽二重
御陣太刀 村正
御馬印 襦子大巾着二ツ并角取紙
御纏 猩〻緋日丸下ニ白犀毛有
右、指物棹 弐本
右之通御譲被進、品〻之由緒御直ニ御口伝被成候
紀州様右御道具御持せ、御帰館之上御飾り御鎧御祝被成候」
「直能公御年譜(佐賀県近世史料第2編 第1巻(P721)」
なお「元武公御年譜」でも直能から御道具を譲られたと記載はあるものの、「御陣太刀」としか記載がなく、村正の名前はない。
佐賀県近世史料は現在も個人で入手可能である。高価であるため、国立国会図書館などを利用されるとよい。興味がある方は調べてみられたし。
また妙法村正が毎年正月飾りとして飾られていたという話が、近年のいくつかの文献で見られる。
「実は小城鍋島家(七万石、後の子爵)では、江戸時代を通じて、正月の鎧祭りではほかの伝来の重宝と共に、この題目村正を飾るのが恒例となっていたという事実がある。徳川幕府に対して、表面上は「南無妙法蓮華経」を唱えながら虚々実々の裏があったということであろうか。倒幕に続く明治維新成立に鍋島藩が参画したことと照らし合わせても、興味のある題目村正である。」
「不動信仰辞典(341P)」外部リンク
なお妙法村正が正月飾りとされていた確固たる文献は現在のところ見つかっていない。
幕末には小城藩最後の藩主である鍋島直虎の東京移住に伴い、東京へと登ったようである。
村正唯一の重要美術品指定
昭和17年12月16日 重要美術品指定。
当時の資料より鍋島家が所有していたことが確認できる。
「昭和八年法律第四十三號(重要美術品等ノ保存ニ關スル件)第二條ニ依リ左ノ物件ヲ認定ス
昭和十七年十二月十六日 文部大臣 橋田邦彦
刀 銘 村正 妙法蓮華経 永正十天葵酉十月十三日 東京都東京市玉川用賀町一丁目 子爵 鍋島直庸」(*2)
村正作刀では唯一重要美術品に指定されている。
妙法村正と戦後
戦後の貧困や混乱により、多くの刀が名家を離れたように妙法村正も鍋島家を離れた。
1963年ごろには渡邊誠一郎氏の所蔵となっている。(*3)(*4)
余談だが渡邊氏は東京国立博物館にかの「三日月宗近」や「鳴狐」を寄贈された人物でもあり、妙法村正も三日月宗近などの多くの名刀と共にあったと推察される。
現在は個人蔵である。
出品
・特別展「日本の武器武具」(1976年/東京国立博物館)
・立教開宗750年記念 大日蓮展(2003年/東京国立博物館)
脚注
*1.西暦に変換すると1513年11月10日である。(注:ユリウス歴)
*2.認定時の所有者は東京:鍋島直庸氏(小城鍋島家12代当主)国立国会図書館デジタルコレクション官報 昭和17年12月16日3コマ目 文部省告示第六百四十二号
*3.日本刀価格総監(1963年発刊)に妙法村正の写真とともに「渡辺誠一郎氏・日本美術刀剣保存会提供」と記載がある。
*4.渡邊氏の父君は「特殊鋼の父」と呼ばれた渡邊三郎氏である。三郎氏は刀剣の蒐集を生涯の趣味とし、名刀の散逸・海外流出を危ぶんで名家を離れた刀剣の蒐集に尽力された。三郎氏没後に誠一郎氏が東京国立博物館に数々の名刀を寄贈されたのも、父君の遺志を汲んでのことであった。妙法村正はこの三郎氏の、蒐集の一振りであったと推察される。(参考:『特殊鋼の父 渡邊三郎』矢島忠正著・里文出版)