沖波(駆逐艦)
おきなみ
艦隊これくしょんに登場する艦娘については、沖波(艦隊これくしょん)を参照のこと。
竣工~松輸送まで
「沖波」は、1942年度(マル急計画)仮称第342号艦として舞鶴海軍工廠で建造され、1943年(昭和18年)12月10日に竣工した夕雲型駆逐艦の14番艦。
就役と同時に舞鶴鎮守府籍となり、瀬戸内海にて訓練を受け、翌年2月10日に同型の長波・岸波・朝霜(駆逐艦]とともに第31駆逐隊を結する。、同26日に広島港を出港し、グアムへ移動する第29師団の陸軍兵士と装備品を乗せた安芸丸(日本郵船、11,409トン)、東山丸(大阪商船、8,666トン)、「崎戸丸」(日本郵船、9,247トン)の3隻の優秀貨客船による『松輸送』に従事する。船団は29日に米潜水艦トラウトの雷撃で崎戸丸を失うが、朝霜の爆雷攻撃によりトラウトを撃沈した。船団はサイパン島に立ち寄った後、グアムに進出した。松輸送ののち沖波以下第31駆逐隊は帰国し、館山港に入港する。
タウイタウイ~マリアナ沖海戦
3月20日、トラック諸島行きの東松三号特別船団の護衛のため館山より出航し、サイパン島まで護衛を行う。その後、リンガ泊地に進出した沖波は、5月14日より前進根拠地のタウイタウイ方面で対潜警戒に従事した。6月9日、タウイタウイ泊地で対潜掃蕩作戦に従事中の駆逐艦4隻(磯風、谷風、島風、早霜)のうち谷風が米潜水艦ハーダーの魚雷攻撃により轟沈したという通信を受け、「沖波」は急遽出動、谷風乗組員を救助した。沖波はこのあと、第二水雷戦隊旗艦の能代および島風、朝雲とともに、戦艦大和を主軸とする攻撃部隊(当時の指揮官は、第一戦隊司令官の宇垣纏海軍中将)の護衛のためタウイタウイを出撃した。ところが、タウイタウイ出撃直後にハーダーに発見される。これと同時に大和もハーダーの潜望鏡を発見し、沖波はハーダーの攻撃のため部隊から分離する。この一週間の間にタウイタウイ周辺で駆逐艦3隻を立て続けに撃沈していたハーダーは、今回も沖波の真正面から魚雷を発射するが、沖波は魚雷をかわし、逆に爆雷攻撃でハーダーを追い払った。その10日後のマリアナ沖海戦を経て、6月24日に柱島泊地に帰投した。
レイテ沖海戦群~戦没まで
10月24日からのレイテ沖海戦では、沖波は第一部隊に属して戦闘に参加する。25日、第七戦隊旗艦の鈴谷が至近弾により瀕死の状態となり、沖波は雪風とともに、すでに利根に移乗していた第七戦隊司令官の命を受け、鈴谷の生存者、および利根短艇乗員の救助収容をおこなう。この際、雪風にはすでに第十戦隊司令官より原隊復帰命令が出されており、実際の救助活動は沖波が単艦で実施していた。沖波は自らの至近弾で損傷しつつも、鈴谷艦長・寺岡正雄大佐以下412名の乗員を救助し、取り残された利根カッターボート乗組員11名も収容したが、対空戦闘で4名を失う。救援中、第二艦隊主力は遠くへ去って単艦となり、「沖波」は深夜にサンベルナルジノ海峡を通過した。
翌26日、ミンドロ島東方海域で米軍機の空襲を受け、至近弾で舵を損傷したものの空襲を切り抜けた沖波は、セミララ島で座礁した早霜を発見、接近し、補給を開始する。この時、同型の藤波が約10km程沖合を航行するのを発見したが、藤波は空襲を受け轟沈し、救助した鳥海の乗組員もろとも、海中に没してしまう。藤波を撃破した米軍機も2隻を襲ってきたため、沖波はやむを得ず、早霜を残してコロン湾へ向かう。28日朝にマニラに帰投した。
沖波はマニラで次期作戦に備えて待機したが、11月13日のマニラ湾空襲により木曾、曙、初春、秋霜など、ほかのマニラ在泊中の艦船とともに攻撃を受け、大破着底した。乗組員の一部がまだ艦内に残っていたが、その年の大晦日に放棄が決定し総員退去となる。
翌1945年1月10日に除籍。その3日前に爆破処理されたという。