石原莞爾とともに大日本帝国陸軍を代表する奇人の一人。その型破りな行動から、非常に毀誉褒貶が絶えない人物である。
参謀でありながら、常に最前線に赴き自ら最前線の兵士を鼓舞したことから、その下で働いた部下からは非常に人気が高かった。一方でその独断専行から陸軍上層部とのトラブルが絶えず、彼の働いた陰謀や戦争犯罪が後に外交問題を起こしたことも多い。
ノモンハンでは自ら負傷兵を運搬したり、マレー侵攻作戦では「これだけ読めば戦は勝てる」という題の冊子を配って将兵を鼓舞したり、現地人といさかいをおこした将兵の即処刑を主張したり、トラック諸島での海軍との会合で海軍将校の豪華な食事内容に激怒したり、ガダルカナルでは自らが立案した作戦の失敗で同期の将校を失い、その報告に呆然と立ち尽くしたり、戦後故郷である加賀市の発展に寄与し名士として銅像が建てられる等、多くの逸話を残した。
戦争でともに戦った兵士からは戦後も称賛や擁護が絶えなかった。その時のことを書いた『十五対一』はベストセラーになり、戦後は一躍、最前線で戦ったエリートとして人気者となった。
しかし、勇敢といっても参謀として見れば無謀とも言え全体から見ると問題行動とも言えた。山下奉文の人物評では「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」とされ小人物であることが強調されている。
衆議院・参議院議員時代には一時期、日本の完全な非武装中立平和を主張した。
無謀な作戦と、戦争犯罪への関与で大変悪名高いが、戦犯追及からの逃避とはいえ連合国側の国民党の支配領域に逃走したことや、国民党がシンガポールでの、華僑粛清やフィリピンでの捕虜虐殺の首謀者の一人であったにも関わらず、米軍に引き渡さなかった事実から、蒋介石の指示を受けた工作員か、協力者だったのではないかと指摘する識者も存在する。
最後はパテト・ラオに処刑された、現地の残留日本兵に殺害された、中共に連行され監獄で果てた、戦争犯罪の件でMI6に暗殺された等諸説あるが、未だにはっきりしていない。