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りょう

中国の王朝・政権名で耶律氏の起こした国。漢字が人名に使われることもある。

概要

建国


遼朝の発端は907年、『遼河』の上流域にいた契丹族の耶律阿保機が契丹可汗(単于ハーンと同義語)の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と改めて王朝を築いたことから始まる。次代の耶律徳光が五代の後晋から華北の領土割譲を受けたのを皮切りに、遼は大国への道を歩む。


滅亡への道

6代聖宗は1004年、宋へ大規模な遠征軍を送って和議(澶淵の盟)を結び、遼を弟・宋を兄とする形式で多額の金銭や品物を受け取り、国力を付けた。しかし、遼の属国として苛斂誅求を受けていた女真は1115年に金朝を建国、遼に対して謀反を起こしたことから運命が暗転する。

遼は大敗し、宋と金に挟撃された寮は1125年に滅亡した。


耶律氏の末路

1132年に耶律大石がトルキスタンに西遼、1122年には燕京(北京)で北遼、1213年に耶律留哥が吉林で東遼を起こすなど耶律氏の政権が各地に勃興したが昔日の勢いはなく、内部闘争や簒奪で短命に終わった。ただし、金に仕えていた耶律楚材チンギス・ハーンに気に入られてモンゴル帝国の一員になったことで、耶律氏はモンゴルの中国人官僚として細々と命脈をつなぐこととなった。


歴代皇帝

()内は在位期間。

太祖(907-926):耶律阿保機。初代皇帝で契丹の族長。

述律皇后(926-927):阿保機の正室で権勢をふるった。

太宗(927-947)

世宗(947-951)

穆宗(951-969)

景宗(969-982)

聖宗(982-1031)

興宗(1031-1055)

道宗(1055-1101)

紹宗(1101-1125) :天祚帝。金朝に降参した。

北遼

宣宗:(1122):耶律淳。金朝に敗れ、北方に逃れて対抗した。

秦王:(1122-1123)

順文帝:(1123)

英宗:(1123)

西遼

徳宗:(1132-1143):耶律大石。トルキスタンに亡命政権を築いた。

感天蕭太后:(1143-1150):大石の后で幼い息子仁宗の代わりに政務をとった。

仁宗:(1150-1163)

承天太后:(1163-1177):甥の末主の代わりに政務をとった。

末主:(1177-1211): 耶律直魯古。モンゴルからの亡命者クチュルクに滅ぼされた。

屈出律:(1211-1218):クチュルクと言い、モンゴル系で末主の娘婿。行為簒奪を起こしたがチンギス・ハーンの部下に殺され、崩御した。


遼出身のその他人物

  • 耶律阿海:金の家臣時代にチンギス・ハーンに出会って意気投合、寝返って金や西域の征伐に貢献した。
  • 耶律楚材:金朝の文官。モンゴルの捕虜になった際に「君の敵をワシが討ったのだぞ」とチンギスに言われた時、「金は主君なので恨んではいません」と言い返し、お気に入りになる。その後も占い師や軍師としてモンゴルの幹部になった。
  • 耶律休哥北方謙三の『楊家将』に登場する人物(メイン画像)。
  • 耶律輝:『水滸伝』の悪役で架空の皇帝。有利な状況下で宋を攻めるが梁山泊が朝廷に加担したので形勢逆転。奪った領土の返還と朝貢(史実とは逆)を約束し、これまでの悪事を許してもらうことになった。
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