概要
建国
遼を後に立てるのは契丹族という中国北方の遊牧民族である。モンゴル系とされる民族で、自らはキタイと名乗っていたようで契丹とはその漢字音写である。4世紀の北魏から契丹の名は史書に出るが、大きな勢力となったのは唐代で、東の渤海と競いながらモンゴル高原に支配領域を広めていった。
契丹族は8つの部族に分かれていたが、907年に『遼河』の上流域にいた迭剌(てつら)部族の耶律阿保機(太祖)が勢力を蓄えて8部族を統一し、916年に天皇帝と称し年号を神冊と改めて大契丹王朝を築いたことから始まる。タタール、ウイグル等の四方の民族を攻め、ついには926年渤海を滅ぼした。次代の耶律徳光(太宗)が936年に五代の後晋から燕雲十六州の領土割譲を受け、続いて946年に後晋を滅ぼして華北に領土を広げ、中国風に遼と国号を改めた。
澶淵の盟
太宗の華北統治は反乱が続いて挫折し、遼には内紛が続いてその間に華北では宋王朝が成立して五代の混乱を収めた。
6代聖宗は宋の北征を破った上で、1004年に宋へ大規模な遠征軍を送って遼を弟・宋を兄とする形式で和議(澶淵の盟)を結ぶ。遼は講和条件として毎年多額の銀と絹を受け取り、さらに絹や茶、香薬の交易をおこなって、国力を付けた。聖宗、興宗、道宗の3代100年間に渡り、平和が続いて遼は全盛期となった。遼朝の歴史的な特徴は遊牧民族としての文化を維持しながら燕雲の中国人をも支配したという二重構造にあり、後に金や元などの征服王朝のモデルとなった。
滅亡へ
しかし、遼の属国として苛斂誅求を受けていた女真は1115年に金朝を建国、遼に対して謀反を起こしたことから運命が暗転する。遼は大敗し、宋と金に挟撃された遼は1125年に滅亡した。1122年には燕京(北京)で北遼、1213年に耶律留哥が吉林で東遼を起こすなど耶律氏の政権が各地に勃興したが昔日の勢いはなく、内部闘争や簒奪で短命に終わった。
西遼
遼の滅亡に際して金の包囲から脱出した王族の耶律大石が、1132年にトルキスタンにてカラ=ハン朝を滅ぼし、西遼を建国した。都はベラサグン。さらに1141年にはセルジューク朝を破り、サマルカンドやブハラなどのオアシス都市に領土を広げた。しかし1209年にホラズムに敗れ、1211年にモンゴル軍が迫る混乱の中で滅亡した。この時代に東アジアの王朝がイスラム化した中央アジアを支配したことは注目できるが、大きな文化的影響を与えるには短命に過ぎたようだ。しかしセルジューク朝を破った戦勝は西欧にまで伝わり、イスラムを打ち破る伝説の王「プレスター・ジョン」伝説の一部を成すことになったともいう。
歴代皇帝
()内は在位期間。
遼
太祖(907-926):耶律阿保機。初代皇帝で契丹の族長。
述律皇后(926-927):阿保機の正室で権勢をふるった。
太宗(927-947)
世宗(947-951)
穆宗(951-969)
景宗(969-982)
聖宗(982-1031)
興宗(1031-1055)
道宗(1055-1101)
紹宗(1101-1125) :天祚帝。金朝に降参した。
北遼
宣宗:(1122):耶律淳。金朝に敗れ、北方に逃れて対抗した。
秦王:(1122-1123)
順文帝:(1123)
英宗:(1123)
西遼
徳宗:(1132-1143):耶律大石。トルキスタンに亡命政権を築いた。
感天蕭太后:(1143-1150):大石の后で幼い息子仁宗の代わりに政務をとった。
仁宗:(1150-1163)
承天太后:(1163-1177):甥の末主の代わりに政務をとった。
末主:(1177-1211): 耶律直魯古。モンゴルからの亡命者クチュルクに滅ぼされた。
屈出律:(1211-1218):クチュルクと言い、モンゴル系で末主の娘婿。行為簒奪を起こしたがチンギス・ハーンの部下に殺され、崩御した。