柳生石舟斎
やぎゅうせきしゅうさい
概要
日本の剣術流派である『柳生新陰流』の開祖とされる剣豪である(が、自身は生涯師の流派名である「新陰流」を名乗り「柳生新陰流」と名乗った形跡はない)。本来の名は「宗厳」で石舟斎は号(称号)であるが、創作物などではこちらで呼ばれることが多い。
生涯
大永7年(1527年)に武将である父「柳生家厳」の子として生まれる。若い頃から武勇に優れ、新当流や中条流などを学んで畿内一と賞される程の腕前を誇ったが、当時既に老境にさしかかっていた剣聖上泉信綱との立ち合いに敗れてその門弟となり、修行の末に師である上泉信綱が考案した『無刀取り』を完成させた、とされる。
武将としての宗厳は豊臣家の治世下で隠し田を発見されて所領を没収されるなど辛酸をなめたが、その剣名を聞いた徳川家康の庇護を受ける幸運にめぐまれる。その後、子の柳生宗矩が将軍指南役として勇名を馳せた事でその流儀は天下に普及し、「剣は柳生」「天下一の柳生」と賞される程の栄華を誇った。
慶長11年4月19日(1606年5月25日)に没したとされる。
新陰流正統説について
永禄8年4月に上泉信綱より石舟斎に与えられた印可状には「一流一通りの位、心持を一つ残さず伝授している、その事が偽りなく真実であることを神仏にかけて誓う、九箇まで伝授する事を許可する」とあり、その後続けて「上方には数百人の弟子はいるがこのような印可を与えるものは一国に一人である」と記されている。ここから、宗厳は上泉の多くの弟子の中から、この日本でただ一人の新陰流の継承者に選ばれたという伝説が生まれた。
反論
宗厳が新陰流の正統を継承したという伝説は、昭和30年代に宗厳の子孫が出版した本で紹介された事で広く世間に知られる事となったが、当初から武道史の研究者からは以下のような指摘があった。
- 当時の「国」という言葉は日本全体ではなく、大和の国など一地方を表す用法で用いられる事の方が多く、唯一無二の後継者を指定する意味にとるのは難しい。
- 宗厳が印可を与えられた四ヶ月後の永禄8年8月に、上泉から宝蔵院胤栄(宗厳と同じく大和の国に居住)に与えられた印可状にも「一流一通りの位、心持を一つ残さず伝授している、その事が偽りなく真実であることを神仏にかけて誓う、九箇まで伝授する事を許可する」と、宗厳の印可状で保証されている内容と全く同一の事が保証されている事から、大和の国内でも(宗厳が受けた時点では一人だったかもしれないが)将来に渡って一人にしか与えないことを保証する意味合いがあったとは考えづらい。
とはいえ、この伝説は多くの歴史小説・剣豪小説でも取り入れられており、現在でも既成事実として扱われる事が多い。