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和船の編集履歴

2011-06-25 01:50:07 バージョン

和船

概要

和船とは、日本で独自に発達した船舶の形式、また、その特徴を持つ船のことである。なお、独自という規定がネックとなり、「遣唐使船」や「朱印船」などは本来入らないのかもしれないが(理由は後述する)、細けぇこたぁはいいんだryであり、それも含めて説明する。


歴史(大まかに)

古墳時代

この頃の埴輪に、舟形のモノがあるが、そこから類推すると、この当時の船は刳船(丸木船)の上にぐるっと板を立てた素朴なものであった。(このようなものを準構造船という)


平安時代

この時代で有名な船は、外洋を行く遣唐使船である。だが、構造は良く分かっていない。ただ、おそらく「ジャンク」という中国の船型だったと推測されているので、これは和船の範疇には入らない。この船型の選択には、上記のような準構造船ではベースが丸木船だけに大きい船が作りにくい、という事もあったろうし(何せ、遣唐使船は150トンも積めて、150人も乗れるのだ)、中国に行くのだから、あちらの船を使った方が便利だということもあろう。当然と言えば当然である。

一方、川舟に関しては、「二瓦船」という大型のものが登場する。瓦とは船の底の木材の事であるが、当然、丸木舟ベースである。それを「丸木舟繋げたら長くできるんじゃね?」という発想で、二つ、時にはそれ以上縦に繋げた船であった。


鎌倉時代

鎌倉時代は、国内の海上交通が盛んになってきたものの、依然として、川・海双方ともに従来からの刳船の瓦をベースとした準構造船であった。ただ、海船の中には、より荷物を積めるよう大型にするために、側面に立てる板(棚という)を、1枚から2枚に増やしたりするものもあった。微妙な差であるが、これで元寇も乗り切ったことだし(これらは兵船として使われた)、結果オーライである。

なお、海外に出るためには「外国船を使う」というのが基本であるのは、前時代から変わらないらしく、源実朝(※将軍)が日本から宋にエスケープするために造った船も中国船であった。(ちなみに、進水が出来ずに失敗した)


室町時代

室町時代は、遣明船という船が登場する。これは勘合貿易に使われた。「でも、中国船なんでしょう?」とお思いの方も多かろうが、実は、日本の国内海路の大型商船を改造した国産の船であった。この船の特徴は、瓦(船底材)が従来の刳り船のベースのU型から、平たいものとなり、その代わりに船底の両脇にL字型をした部材(オモキ)が入るものである。なお、大型化にともなって、側面の棚の数は前時代からの2つから3つ、多いものでは4つに到達するものがあった。(この時点で、構造船に進化した)


※ちなみに、船の大型化と大木の減少に伴い、この頃から棚を一枚の板で造ることが困難になったので、板を合わせて、縫い釘で接合する「はぎあわせ」によって大きな棚を作成するようになった。(職人のなせる業か、かなり頑丈で強度上、ほぼ、一枚の板とみなせるものだったらしい)


戦国時代(軍船)

戦国時代は、軍船が活躍した時代である。この時代区分は、室町時代の後期も含んでいるのだが、軍船大活躍の時代なので特に分けて書くこととした。また、軍船には異なる特徴をもったいくつか種類があるので、以下に見出しに分けて代表的な軍船の紹介をする。

安宅(阿武)船 アタケブネ

特徴としては、船首は箱型で、船首から船尾までぐるっと分厚い楯板で装甲されている(押廻り造り、総矢倉造り)。楯板には狭間があってそこから銃撃、射撃が出来るので、浮かぶ城のような形で、攻撃・防御ともに優れているが、寸胴で、速度は出ない。水軍の主力である。大きさは、櫓(一人用)数50丁~160丁、五百石(75トン)積~二千石(300トン)積み。

関(早)船 セキブネ

船首が、水押造り(一枚の板で、水を切れる)となっている。櫓(一人用)数40丁~80丁。船体は安宅よりはスマートであり、速度が出る。安宅と比べると薄いが、総矢倉造りである。安宅船全盛期には、補助的な役割であるが、その時期以外は主力艦であった。

小早船 コハヤブネ

関船より小型で、更にスマートになり、機動性に優れる。水押造りで櫓40丁以下。上部構造は、総矢倉ではなく半垣造り(高さが低い)、または欄干造り(スケスケ)。もちろん補助艦。機動力を生かして、偵察や先手に使われた。


※これらの船は、船首以外の船体構造は大体同じで、平たく幅のある底板に2~3枚の棚板で構成する側面、というものである。


織豊政権時代後期~江戸時代前期

秀吉の時代から、江戸時代の前期に、ほんの僅かの期間であるが、「朱印船」と呼ばれる船が活躍した。これは、「朱印状」という貿易許可状を得た商人が、台湾・東南アジアに渡航する際に使った船である。その構造は「ジャンク形式」であり、和船ではないが、後期にもなるとジャンクをベースとして、西洋船ガレオンの技術、更には日本の矢倉形式が混ざるようになった。(これを日本前と呼ぶ)



江戸時代

江戸時代は平和になったので、軍船の出番はあまりなくなった。しかも、五百石以上の軍船の建造が禁止されたために、事実上、安宅船が造れなくなり、関船が主力艦となった。また、海洋商船の世界では、弁才船、俗にいう千石船が主役となった。この時代がいわゆる和船の全盛期である。この弁才船の構造は、船首は水押し造りで、航(瓦)、根棚、中棚、上棚を取りつけていく棚板造りであった。また、しだいに帆走のみで航海できるようになり、江戸後期からは筵帆から木綿の帆が使われるようになった。なお、上記のように「千石積める」という呼び名があるが、実際には百石から二千石積みまで大小さまざまなものがある。


明治時代以降

明治時代になり、西洋船、特に機関(エンジン)船が入って以降、以上で述べてきたような和船はふるわなくなり、すぐに消えたわけではないが、各地で見られなくなっていった。また、現在においては、そもそも木造船が建造されない(現在の主要な素材は金属または樹脂である)ので、和船はほとんど存在しておらず、運よく保存されていたり、復元されていたりしたものが少数ある状態である。


関連タグ

水軍

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