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オットー・キッテルの編集履歴

2021-02-14 20:17:27 バージョン

オットー・キッテル

おっとーきってる

第二次世界大戦におけるドイツ空軍のエース。

経歴

1917年2月21日、オーストリア=ハンガリー帝国シレジア領のコルノフにおいて誕生。

1939年にドイツ空軍に入隊。

1941年2月12日に第54戦闘航空団(JG54)第1飛行隊第2中隊に伍長として配属された。

1943年2月19日に39機目の撃墜を数えるが、これは第54戦闘航空団にとって4000機目撃墜の記念すべき日となった。

26日にはドイツ十字章金章を叙勲。この時の階級は軍曹であった。

9月14日にはドイツ空軍で53番目の100機撃墜を達成し、29日には123機撃墜の功で騎士鉄十字章を叙勲。

11月1日には曹長から少尉に昇進した。

11月から1944年1月までフランスの東部予備戦闘飛行隊で教官を務め、3月に第54戦闘航空団に復帰。

4月12日、152機撃墜を達成した功により柏葉騎士鉄十字章を叙勲。

8月、中尉に昇進し、23日には200機撃墜を達成。

11月25日、柏葉剣付騎士鉄十字章を叙勲。

19452月14日もしくは16日にクールラント包囲網の中のラトビアのジュクステ南西で攻撃したIl-2シュトゥルモヴィクの編隊を攻撃中にその反撃により撃墜され戦死を遂げた。

総撃墜数は267機でドイツ空軍四位の戦果であった。


逸話

●一般的な戦闘機パイロットとはかけ離れた、小柄で物静かな生真面目な人物であったという。

そして有数のエースとなってからも、最後まで自分本位の考えを持たず、物静かな性格も変わらなかった為に皆から愛され、彼の名誉を誰もが喜んだという。


●94機のシュトゥルモヴィクを撃墜し、「シュトゥルモヴィク」の壊し屋と呼ばれたという。


●愛称は「ブルーノ」。1942年にフィアンセであったエディスと結婚し、彼女は1945年にキッテル中尉との息子マンフリートを出産している。


●戦闘機パイロットの能力はなかなか開花しなかったが、第54戦闘航空団第1飛行隊のハンス・フィリップヴァルター・ノヴォトニーなどのエースから教育されて得た知識を次々と吸収して後に「一旦走り出すと彗星の様にぐんぐん空を昇り、後を振り向く事は無かった」と第54戦闘航空団司令として薫陶したハンネス・トラウトロフト大佐はキッテル中尉について語っている。


関連リンク

Bf109 Fw190 JG54

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