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経歴編集

1920年12月7日、オーストリアのグミュントに生まれる。ドイツ空軍入隊前はヒトラーユーゲントに所属していた。

1939年10月1日、ドイツ空軍に入隊。

1940年12月1日、第54戦闘航空団(JG54)補充飛行隊に配属される。

1941年2月に第3飛行隊第9飛行中隊に配属される。

4月1日、少尉に昇進。6月からのソ連侵攻作戦バルバロッサ作戦に彼の所属する第54戦闘航空団は参加するも、彼自身は7月19日に3機のI-153を撃墜するまで戦果は無かった。

1942年9月4日、56機撃墜の功により騎士鉄十字章を叙勲。

10月25日、第9飛行中隊長に任命される。

1943年2月1日、中尉に昇進。

8月21日、第1飛行隊第1飛行中隊長に就任。

9月4日、191機撃墜の功により柏葉騎士鉄十字章を叙勲。

21日、大尉に昇進。

22日、220機撃墜の功で柏葉剣付騎士鉄十字章を叙勲。

10月4日、前人未到であった250機の撃墜を達成。

19日ダイヤモンド柏葉剣付騎士鉄十字章叙勲。

1944年4月1日、訓練部隊である第101戦闘航空団司令に就任。

7月19日、事故死(公式には戦死)したヴェルナー・ティールフェルダー大尉の後任としてMe262を装備した第262実験隊の指揮官に就任。

9月1日、少佐に昇進。

27日、第262実験隊はノヴォトニーの名を冠したコマンド・ノヴォトニーに改編される。

11月8日、迎撃に出撃し、P-51に撃墜され戦死を遂げた。(味方高射砲の誤射説もあり)

総撃墜数は258機であり、ドイツ空軍で五位の成績であった。



逸話編集

●陽気で人付き合いの良い性格であったという。第54戦闘航空団のハンス・ヨアヒム・クロシンスキ少尉によれば積極攻撃型パイロットで、スポーツが得意で、パーティーで大酒を飲んでも決して乱れる事は無かったという。


●「ヴォルホフストロイの虎」の異名で呼ばれた。


●初撃墜を果たした時に着ており、撃墜されリガ湾を彷徨った時も着用していたズボンを「勝利のズボン」「幸運のズボン」として大切にしていたという。


●エースとしての技術は勿論だが、仕事に真剣に取り組み、知的な判断力と機略に富む事からも指揮官としての能力も期待されていた。戦闘機総監だったアドルフ・ガーランド中将もノヴォトニーは24歳でも航空団司令としての器量を充分に備えており、戦死しなければエースとしてだけでなく、航空団司令として、また人間としての資質を充分に発揮しただろうと述べている。

また第54戦闘航空団でノヴォトニーが直卒した「悪魔の鎖」と呼ばれた小隊の四名である彼と彼の列機カール・シュノーラー少尉(最終撃墜46機)、ルドルフ・ラデマッハー少尉(最終撃墜126機)、アントーン・デーベル少尉(最終撃墜94機、戦死)の戦果は524機を数え、オットー・キッテルが射撃の能力に開眼したのもノヴォトニーの力が大きかったと言われ、その天性の指導者としての能力を示している。


エーリヒ・ハルトマンは自身の指揮官であったヘルマン・グラーフが戦後にソヴィエトの捕虜収容所に収容され、その厳しさにソ連側に偏向したとして、解放後にドイツ空軍仲間から追放された事への彼を擁護する言葉で「彼は最高の勲章、ダイヤモンド飾りを貰ってからも出撃し続けた。私はこの点が好きなのだ。他の連中はダイヤモンドを貰って、戦うのを止めたのも多い」と暗にノヴォトニーを批判しているが、英雄の戦死を恐れたドイツ空軍上層部の指示で地上勤務となった面も大きい。

また最後となった出撃も本来は出撃禁止と指示されていたのを出撃したものとも言われる。


●当初は撃墜ペースは遅く、最初の50機以上の撃墜に一年以上かかっているが、1943年6月以降は一日に数機を撃墜する事が増え、8月が終わった頃には空軍上位20位以内に急上昇し、9月から10月14日に250機撃墜達成を果たしてドイツ空軍一のエースとなった折には一日で十機以上を落とす事が二回もあったという。


●10月4日から11月7日までのコマンド・ノヴォトニーの戦果はB-24爆撃機4機、P-47、P-51戦闘機12機、スピットファイアなどの偵察機3機であり、損失は6機であり、離陸時の速度が充分でないところを狙われた2機が含まれている。戦闘以外では離着陸時の事故で7機が大破、9機が一部破損しており、新型機の扱いにくさと訓練不足を露呈していた。

またノヴォトニー自身もMe262の機体性能・特性を充分に把握しきれていなかったとも言われ、当時のMe262の技術陣は苦言を呈しているようである。

ノヴォトニー最後の戦闘となった11月8日は彼が3機を撃墜し、他にP-51を4機撃墜したが、彼を含む2機のMe262の損失を出している。


●第54戦闘航空団でノヴォトニーの列機を務めたカール・シュノーラ―少尉は1943年11月に重傷を負ったが、回復後にノヴォトニーを追ってコマンド・ノヴォトニーに参加。ノヴォトニー戦死後も第7戦闘航空団で1945年3月に重傷を負い、片足を失うまで戦い続け、ジョット戦闘機のエースでは11機撃墜の六位の戦果を挙げている。


●ノヴォトニーの最後は、ガーランドの訪問を受けて長らく語らった翌朝、一個中隊を率いてアメリカ第8航空軍の重爆撃機迎撃に出撃。地上で援護の為に待機していた最新鋭のFw190D-9型からなる第54戦闘航空団第3飛行隊第12飛行中隊長のハンス・ドルテンマン中尉の証言では何度も護衛の為の出撃許可を求めるも、ノヴォトニーの返答は何れも「待機せよ」であり、最後の無線は「3機目を撃墜」「左エンジン停止」「また攻撃された」「被弾した」であったという。

彼の片発エンジン停止の無線を聞いて司令室から飛行場に飛び出したガーランドと国家社会党航空部隊司令官アルフレート・ケラー上級大将が見守る中、雲間より垂直に降下してノヴォトニー機は地表に激突。乗機から残されたものは一つの手首とダイヤモンド柏葉剣付騎士鉄十字章の破片のみだったという。

彼を撃墜したと言われる第8航空軍第364戦闘機群のリチャード・W・スティーブンス中尉は義務感から軍人として戦争期間は勤務した意識が強く、軍人としての名声や名誉欲に乏しかった事から後年、ノヴォトニーの伝記の筆者から彼を撃墜したのはあなただと言われても、そんな人は知らないと答えたという。

ノヴォトニー死後のコマンド・ノヴォトニーは新編成の第7戦闘航空団の中核となるが、その戦闘航空団はノヴォトニーの名を冠する事となる。



関連タグ編集

JG54 JG101  コマンド・ノヴォトニー Fw190 Me262

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