オットー・キッテル
おっとーきってる
1917年2月21日、オーストリア=ハンガリー帝国シレジア領のコルノフにおいて誕生。
1939年にドイツ空軍に入隊。
1941年2月12日に第54戦闘航空団(JG54)第1飛行隊第2中隊に伍長として配属された。
1943年2月19日に39機目の撃墜を数えるが、これは第54戦闘航空団にとって4000機目撃墜の記念すべき日となった。この時の階級は軍曹であった。
3月18日、ドイツ十字章金章を叙勲。この時、曹長に昇進したばかりであった。
9月14日にはドイツ空軍で53番目の100機撃墜を達成し、29日には123機撃墜の功で騎士鉄十字章を叙勲。
11月から1944年1月までフランスの東部予備戦闘飛行隊で教官を務め、3月に第54戦闘航空団に復帰。
4月8日、第54戦闘航空団第2飛行中隊長に就任し、少尉に昇進した。
12日、152機撃墜を達成した功により柏葉騎士鉄十字章を叙勲。
8月23日、200機撃墜を達成。
11月25日、柏葉剣付騎士鉄十字章を叙勲し、中尉に昇進した。
1945年2月14日もしくは16日にクールラント包囲網の中のラトビアのジュクステ南西でドイツ陸軍を攻撃中の14機からなるIl-2シュトゥルモヴィクの編隊との交戦により撃墜され戦死を遂げた。
総撃墜数は267機でドイツ空軍四位の戦果であった。
●一般的な戦闘機パイロットとはかけ離れた、小柄で物静かな生真面目な人物であったという。
そして有数のエースとなってからも、最後まで自分本位の考えを持たず、物静かな性格も変わらなかった為に皆から愛され、彼の名誉を誰もが喜んだという。
●当初はBf109F型に搭乗していたが、Fw190に機種変更になった時期から戦果を伸ばしていった。
●94機のシュトゥルモヴィクを撃墜し、「シュトゥルモヴィクの壊し屋」「シュトゥルモヴィクの殺人者」と呼ばれたという。
●愛称は「ブルーノ」。1942年にフィアンセであったエディスと結婚し、彼女は1945年にキッテル中尉との息子マンフリートを出産している。
●戦死した状況には諸説あり、列機の報告では1機のシュトゥルモヴィクを追尾して攻撃中に、彼と列機の背後に2機のシュトゥルモヴィクが出現し、その攻撃で撃墜されたというものであったが、標的の後部座席機銃の反撃に撃墜された、対空砲火にやられたというものもあり、またシュトゥルモヴィクを護衛していたYak-9に撃墜されたという説もあるという。
●戦闘機パイロットの能力はなかなか開花しなかったが、第54戦闘航空団第1飛行隊のハンス・フィリップ、ヴァルター・ノヴォトニーなどのエースから教育されて得た知識を次々と吸収して後に「一旦走り出すと彗星の様にぐんぐん空を昇り、後を振り向く事は無かった」と第54戦闘航空団司令として薫陶したハンネス・トラウトロフト大佐はキッテル中尉について語っている。