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奥村助右衛門の編集履歴

2011-12-10 22:22:44 バージョン

奥村助右衛門

おくむらすけえもん

「奥村助右衛門」(おくむら・すけえもん 1541 ~ 1624)とは、佐々成政の1万5千の軍勢に攻められた能登の要衝・末森城を僅か300の兵で守りぬいた鉄壁の将であり、村井長頼と共に前田家加賀百万石の基礎を築いた重臣。 ※「花の慶次 ―雲のかなたに―」」で有名になった「奥村助右衛門」の名は通称であり、本来の名は「奥村永福(おくむら・ながとみ)」または「奥村家福」とも。

尾張前田家の家老・奥村宗親の次男に生まれ、前田利家の父・前田利昌や、前田利家の兄で前田慶次の義父・前田利久に仕えて荒子城の城代を務めた。


前田利久に養子の前田慶次しか子がいなかった事や前田利家が織田信長のお気に入りだったことから、織田信長の差配により前田家の家督を前田利久から前田利家に譲る事になった際に、荒子城に入ろうとする前田利家に対して奥村永福は、前田利久の命令なくば城は渡さぬと頑強に抵抗し、前田利久の明け渡し命令をうけて荒子城を前田利家に明け渡した後に浪人となった。


織田信長が越前の朝倉義景を攻める頃に前田家に復帰し、前田利家が加賀に入ると、能登の要衝・末森城の城主となった。


織田信長が本能寺の変で死した後に羽柴秀吉についた前田利家に対して、織田信長の親衛隊時代からのライバルで柴田勝家についた佐々成政が1万5千の兵を率いて末森城を攻めた際に、奥村永福は300名ほどの手勢を率いて篭城し、病身の妻の叱咤激励もあって前田利家の援軍到着まで持ちこたえた。


※荒子城の明け渡しを拒否したエピソードから、奥村永福なら末森城を簡単には渡さないだろうという前田利家の計算があったとかなかったとか。


※一説には前田慶次の協力あったとかなかったとか。


その後も、前田家古参の重臣・村井長頼と共に家老として加賀百万石の基礎を築くことに尽力し、九州征伐や小田原征伐に参加した。


※その間に元主君・前田利久が没した他、前田慶次が前田利家を水風呂にいれて出奔したらしい。


前田利久に続き、前田利家も没すると隠居して出家したが、大坂の陣の際は金沢城の城代を務め、その後、三男の奥村栄頼が政敵の横山長知との対立により、長兄の奥村栄明や次兄の奥村易英や徳川家康に敵対し続けているのに何故か諸大名からひっぱりだこだった本多政重と共に万石以上の家臣が一斉に出奔する計画を実行しようとしたところ、重臣達の出奔を理由に前田家を取り潰されては困ると隠居していた奥村永福が説得にあたり、奥村栄頼のみが出奔するレベルにとどめて前田家の危機を救い、83歳で没した。


その後も奥村家は加賀藩八家に数えられ、子孫は前田家の家老を務めた。


※その他「奥村助右衛門/奥村永福」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。

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