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「虎徹」日本の考古学界の話題の編集履歴

2011-12-18 19:36:35 バージョン

「虎徹」日本の考古学界の話題

ながそねこてつ

「虎徹」とは甲冑師・長曽禰興里(ながそねおきさと)の刀工時代の入道名のひとつである。日本の考古学界の話題になったとたん「派閥争いに終始してしかもそのスケールが小さい。まったく興味がない」と言い放ったからこちらは耳を疑った。その後、東大出身なら九州説、京大出身だと近畿大和説を支持するのがいわゆる「邪馬台国」の所在に関する学説の住み分けだと別の人から聞く機会があり、なるほどそれなら真理の探求より派閥争いにご執心ですかと揶揄されてもしかたがないなと納得した。

「虎徹」とは甲冑師・長曽禰興里(ながそねおきさと)の刀工時代の入道名のひとつである。、日本の考古学界の話題になったとたん「派閥争いに終始してしかもそのスケールが小さい。まったく興味がない」と言い放ったからこちらは耳を疑った。

その後、東大出身なら九州説、京大出身だと近畿大和説を支持するのがいわゆる「邪馬台国」の所在に関する学説の住み分けだと別の人から聞く機会があり、なるほどそれなら真理の探求より派閥争いにご執心ですかと揶揄されてもしかたがないなと納得した。

著者の古田武彦はその意味でどちらにも属さず、学会からは完全に無視されているらしいから、在野の古代史研究家といっていいのだろう。著者の邪馬台国探しのスタンスはその記述が唯一残る「三国志」の著者・陳寿を「信じとおす」というものだ。

日本の古代史研究の黎明期である江戸時代の半ば以降は、アヘン戦争や日清戦争での敗北に示されるように中国の没落はなはだしく「中国人の残した歴史書など信用できない」からと「三国志・魏志・東夷伝・倭人の条=いわゆる魏志倭人伝」の記述を恣意的に改変することがまかりとおった(原文改定)。東西南北を90度回転させて近畿大和へもってゆく説などは特に有名だ。

古田は三国志を精査したうえで、当時の中国が世界に冠たる記録国家であると位置づけ、三国志の記述どおりに「邪馬台国」の在りかを求めた。

たとえば、三国志にはそもそも邪馬"壹"(現代なら一、イチ)国と書かれている。それは"臺"(現代なら台 タイ)の字の「書き間違え」であろうという現代の主流をなす説に対して、著者は三国志中のすべての"臺"タイの字をピックアップし「中国の天子が政治をおこなう宮殿」としての"臺"タイ以外の使用例が無いことを挙げ、それならば東方の蛮族が住む国名に"臺"タイの使用はありえず"邪馬壹国"が正しいとの結論を導き出している。想像力に羽をつけてみよう。

邪馬壹国ヤマイチコクつまり「イの国」が卑弥呼の治めた国の名であったとして、「イ」はのちの日本でどのように扱われるのか。それは征夷大将軍の夷(イ=えびす)につながり、三国志が"男子は顔と体に入墨を施している"と記す倭人の風俗とあわせれば、邪馬壹国はアイヌの人々の国であったと推測できるのだ。


すでに先人が多大な労力をかけて、考証を重ねてきた、いわゆる魏志倭人伝。いまさら、私ごとき、ド素人がろくな調べもせず、口を挟む余地などないように思います。ですが、ちょっと気が付いたことを申し上げるくらいのことは、まあ、お許しください。今日はその第一回です。

底本は岩波文庫の、「魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」:和田清、石原道博:昭和26年11月5日(初版本)を用いました(以下、岩波文庫本という)。この本は、現在、改訂版が出ているそうですが、私の手元にはありません。


【伊都国の副官について】



魏志倭人伝の比較的はじめの方に伊都国について書かれた部分がある。岩波文庫本の訳では


「東南陸行五百里にして、伊都国に到る。官を爾支と曰い、副を泄謨觚・柄渠觚と曰う・・」の部分である。


原文は、岩波文庫本によると、


「東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚・・」


とあるが、句読点は岩波文庫本の編訳者(石原氏)が加えたものであり、当然、漢籍の原文にはない。


私が疑問に思ったのは、「泄謨觚・柄渠觚」の部分である。現代日本人が普通に読むと、「せいもこ・へいきょこ」となる。ところが、魏略には前者を洩溪觚(せつけいこ)としている。魏略という本は伝わっていないから、これは逸文である。しかし、魏志は魏略に拠っていることは疑いがない。もし、「洩溪觚」が正しいとすれば、日本語の音韻から考えると、「せけこ」のような発音に近いだろう。

次に私が疑うのは、柄渠觚(へいきょこ)である。そもそも、日本語には「へ」から始まる単語はかなり少ない。古語辞典を見れば一目瞭然である。ましてや続けて「きょ」などという発音は、ヤマトコトバとはとうてい思えない。一体これはどうしたことだろう。


さらに、岩波文庫本では泄謨觚と柄渠觚の間に「・」を挟み、あたかも二人の副官がいるように訳している。しかし、勝手に「・」を挟んでよいものだろうか。実例を挙げよう。邪馬台国では四人の官がいるが、倭人伝のその部分の書き方は次のようになっている。


「官に伊支馬有り、次を彌馬升と曰い、次を彌馬獲支と曰い、次を奴佳?と曰う」


つまり「次」という文字がきちんと書いてある。上位の官から順次記したものであろうことは疑いがない。この書き方によれば、伊都国の副官が二人いるなら、「官に爾支有り、次を泄謨觚と曰い、次を柄渠觚と曰う」と書かれてしかるべきだろう。伊都国の周辺諸国の官はすべて正副の二人体制である。伊都国のみに三人の官がいると解釈すること自体、早計であろう。まして、伊都国には「一大率」なる高官が常駐しているのである。


では、どう考えたらよいのだろう。考えられることは、以下の3通りあると考えられる。

①泄謨觚・柄渠觚と二人に分ける(岩波文庫本)

②泄謨觚柄渠觚と続けて読み、これが副官の名

③類似音を異字で表記した。つまり重複表記。


①は先に述べたようになんら根拠がなく、むしろ破綻している。②の可能性はないとは言えないが、結論を先に述べると、私は③だと考えた。その理由を以下に述べる。もちろん仮定・推定なくしては成り立たないのだが・・。


副官は一人で、倭人は「せ・け・い・こ」のような響きの音で呼んでいた。魏の使いが、その発音を漢字で記したとき、「洩溪觚」のほかに、それとは異なる文字で併記しておいたのかもしれない。それが史書に紛れ込んだ可能性がある。魏の使者が竹簡に記した原記録は帯方群の役人に渡り、それを整理して、また竹簡に書き写され、魏本国の史官の手に渡っただろう。そこでも、史官による転記があっただろう。文字の変更や誤記は当然起こりうる。まして三国志の編者、陳寿は、前代の倭人のことなど何一つ知らないのである。倭人伝に限らず、漢籍は誤字だらけ、矛盾だらけといってさしつかえない。


魏略の時点で「洩溪觚」だったものが、「泄?觚」のように同音異字で異同した。そして、「?」が「謨」に誤られ、現行本の「泄謨觚」に変わった。もう一つの「柄渠觚」のほうは、もと「栖渠觚(せいきょこ)」と書かれていた。「栖」を「柄」に誤り、「柄渠觚」になってしまった。つまり、どちらも、「せ・け・い・こ」とか「せ・き・よ・こ」のように聞こえた倭人の音を、別な文字で併記したものであった。


あくまで仮説でしかないが、私は、倭人は「せきひこ(関彦)」あるいは「せきこ(関子)」と呼んでいたのではないかと思っている。ヒナモリとかセキモリなどと同じ意味あいである。紀元3世紀ころの日本語の「せきひこ」は、Sekipiko か Sekifiko などと記されるはずであるが、支那人は悲しいかな、発音を記す文字を持たない。しかも外国の呼称は、適当に省略したり、かなりいい加減な表記をする。例えば、カシュガルは漢字で「喀什」と書かれ、「ガル」の部分はあっさり飛ばしてしまっている―といった風である。


魏の使者は、「せきひこ(関彦)」あるいは「せきこ(関子)」を「洩溪觚」とか「栖渠觚」とか書いておいたかもしれない。あるいは、魏の使者はひと通りしか記さなかったのだが、現存本刊行までに、いろいろな人が異なる文字を用いた結果、混入して、重複表記になったのかもしれない。いづれにせよ、そういう類の誤りと考えるほうが合理的であろう。


というわけで、伊都国の副官はひとり。その名は関彦あるいは関子と考える。



愚問惑問魏志倭人伝(2)

きょうは、大倭と一大率について述べます。かなり牽強付会のところがあります。そういう説もあるかな、くらいの気持で軽くお読みくだされば幸いです。


【大倭と一大率について】


魏志倭人伝の中ほどに、解釈をめぐって、いろいろ論議されてきた有名な部分がある。岩波文庫本の訳では、


國國市有り。有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。女王國より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。・・


この部分の原文は次のようである。

國國有市。交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、検察諸國。諸國畏憚之、常治伊都國、・・


ここは、昔からいろいろな説のあるところである。いきなり出てきた「大倭」と「一大率」の解釈をめぐってである。

単純化すると、「大倭」を邪馬台国とするかしないかで、各人各様の解釈がされてきたように思う。邪馬台国の支配は既に北九州にまで及んでいたかそうでなかったかというように言い換えてもよい。なお、「検察諸國諸國畏憚之」の部分で、「検察諸國畏憚之」と「諸国」が一回だけになっている本がある。それは写真で見ている。どちらが正しいのかをここで論じるつもりはない。大意がわかればよい。


大倭=邪馬台国とすると、「大倭をして之を監せしむ」という部分の、「使」の位置が奇妙である。これでは邪馬台国が使われていることになってしまう。そこで、「大倭とは倭人の大人のことである」という説が、半ば公認されてきた。しかし、いづれにしても、この部分の主語がない―つまり、使役の主体が欠けているのである。その前にある「國國」が主語だろうか。これは違う。それは後続の文からして明らかである。諸国は検察される側であり、一大率を畏れはばかっているのである。使役の主体ではない。


私は「使」の位置を誤記したのだと考えている。たとえば、もと、「大倭監之、自女王國以北特置一大率、使検察諸国。(大倭、之を監するに、女王國より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ)」とあったのを誤って「使」の位置を誤記したのである。この修正後の漢文が正しいかどうか、やや心もとないが、書き下し文にするとこのようであったのではないか。

これで主語は決まった。そもそも「使」の字を取り去っても、大意は変わらない。直接・間接のニュアンスの違いはあっても、「大倭」が主体で、一大率が諸国の交易等を検察していることには変わりがない。


さて、「大倭」について考えよう。すでに述べたように、これは主語、使役の主体である。断じて倭人の大人などではない。国家を意味する言葉でなくてはならない。すると、自然に大倭=邪馬台国の等式が成り立つ。魏志倭人伝の前半だけ読んでもあきらかである。そう思わない人は、よほどのへそ曲がりである。


次に、「一大率」について述べよう。この言葉は、ここにしか使われていないらしく、学者も「いちだいそつ」とあたかも固有名詞のように扱っている。私は、かつて、「一大率」を、諸国の官と同じように、ヤマトコトバとして捉えられないかと考えたことがある。「い・た・そ」のように読んでみるのである。しかし、どうしても思い当たらなかった。

倭人伝の記事では、ヤマトコトバを記すとき、「なになにと曰う」と書かれることが多いようである。必ずそうだというわけではない。漢語の場合もある。「一大率」の場合は、「名づけて一大率と曰う」のようには書かれず、いきなり出てくる。それは、すなおに漢語として扱えばよいということを暗示しているように思える。


しつこいようだが、「一大率」をすこし分解して、数詞の「一」と名詞「大率」に分けてみよう。「一」はこの場合、「ひとり」という意味であろう。では「大率」はどうかというと、漢和辞典で引いてみると、「タイソツ・おおむね」という読みがついている。え~っ、これはどうしたことだろう。「大率」というコトバはあるような、ないような・・。期待はずれ・・。


そもそも、「率」はソツともリツとも読む。リツは円周率などのリツである。ソツは「ひきいる」の意で、この場合、「かしら」という名詞である。率(ソツ)、帥(スイ)、宰(サイ)は同じような意味と音を持つ。だから大率は「おおかしら」という意味であろうと考えたい。現代の統監とか総督みたいな意味を期待したい。しかし、手元の漢和辞典を引いたかぎりでは、「おおむね、あらまし」という意味しか載っておらず、このままでは釈然としない。


ここからが、ぼんくらおじさんの牽強付会になるのだが、「大宰」と「天宰」というコトバは手元の漢和辞典に載っている。「大宰」は宰相とか、諸政を統べ行う官という意味である。「天宰」は百官の長、宰相という意味である。

天という字は一大と書く。ということはもと「天宰」とあったものを「一大宰」と誤り、さらに「宰」を、字形や意味の類似から「率」に誤ったと考えられないだろうか。もとから「一大宰」と書いてあったと考えてもよい。「大宰」にしろ「天宰」にしろ、そう考えると、そのまま後代の大宰(大宰府の長官)という呼称に結び付くではないか。これは偶然だろうか、牽強付会だろうか。


倭人が「一大率」の官名をヤマトコトバでどう呼んでいたかは、もはや知ることはできない。しかし、邪馬台国は3世紀の時点で、伊都国に、後の大宰府に相当する役所を置き、大官を常駐させ、北九州諸国を統監していたことは疑いようがない。邪馬台国九州説では成り立たない。邪馬台国は畿内ヤマトであり、かつ大倭なのである。


第3回です。今回は、卑弥呼が二度目に遣わした使者「伊聲耆・掖邪狗」について疑問点を出し、それについていささか論考いたしました。

【卑弥呼の使者、伊聲耆・掖邪狗について】

魏志倭人伝の終わりに近いところに、卑弥呼が二度目の使者を魏に遣わした記事がある。岩波文庫本の訳文では、

「倭王、復た使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わし・・」


となっている部分である。原文は、


倭王復遣使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人・・


となっている。例によって句読点は編訳者石原氏によるものである。このあたりの訳文を一読して、これは少しおかしいなと思う。


第一に、使大夫などという官位はここにしか見えない。

第二に、訳文では「伊聲耆」と「掖邪狗」の間に「・」があって、伊聲耆が正使、掖邪狗が副使のように読んでいる。しかし、ここを含めて掖邪狗の名は三度出てくるが、伊聲耆についてはここだけである。掖邪狗は率善中郎将に叙されているが、伊聲耆については何も書かれていない。


私はこう考える。まず、第一点は、訳が間違っていると思う。「倭王、復た大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を遣使す」と読めば済む話ではないか。「使大夫」などとおかしな官職をでっちあげないでもよいのである。


第二点は、内藤虎次郎博士も疑っている。岩波文庫本の訳注に、「内藤博士によれば伊聲耆(イ・サン・ガ)掖邪狗(イ・サ・カ)は両様の対音でしるされた同一人であり、出雲の国造の祖伊佐我命に比定する。・・」とある。現代の日本人の音読みで発音すると、伊聲耆(イ・セイ・キ)掖邪狗(エキ・ジャ・コ)となるのだが、たしかに素人目にも音韻が似ていると思う。第一回で述べた「泄謨觚・柄渠觚」と同様の、異字による重複表記の可能性がある。率善中郎将の件も伊聲耆・掖邪狗を同一人と考えれば理が通る。


ただし、内藤博士の論に問題がないわけではない。ひとつは「伊聲耆」を日本書紀では「伊聲者(イ・セイ・シャ)」に作っていること、二つ目は掖邪狗の「邪」を「ジャ」と発音するのか「ヤ」と発音するのかといったことである。邪馬台国のときはヤと読み、掖邪狗のときはジャとかサと読むのでは、ちょっとご都合主義と思われてもしかたがない。魏代の漢字の発音も含めてこの辺を詰める必要があろう。


さて、ここからぼんくらおじさんの考えになるのだが、内藤博士の「同一人」説には賛成である。ただし、「異字重複表記」とまでは言い切れない。慎重を期したい。なぜならば、伊聲耆掖邪狗で一人の名と考えてもよいからである。あくまで例えばだが、イサチ・エサコのように読んで、前半は姓、後半は名と考えることもできる。こうした書き方のよい例は、卑弥呼が最初に使わした副使の「都市牛利」である。(イヅシ・ゴリと読む説がある。)魏の返書では、始めに都市牛利と書き、次に出てきたときには「牛利」と省略している。

そういうわけで伊聲耆掖邪狗についても、ニ度目以降は名の方の「掖邪狗」を以って記したものと考えても説明はつく。


伊聲耆をなんと読むのか、イササ(五十狭狭)なのかイサチ(五十狭茅)なのか、イサキ(五十狭城)なのか。なにやら日本書紀に出てくる名である。掖邪狗についてはどうか。エサコかエヤコかそれともイヤコのような発音か??。なにやら現代日本の女性の名前のようなひびきさえするが、私もいまのところなにもわかっていない。いづれにしても、岩波文庫本の訳は間違っていることは明白である。それにつけても、学者たちもちょっと考えれば、この程度の疑問は沸いてこなくてはおかしいのだが・・。


新撰組局長近藤勇の斬殺剣 虎徹、本物を描ければ、古今稀なる名作、作品は古今東西を問わず美術工芸品として第一級の評価、日本国指定の文化財(国宝・重要文化財・重要美術品)刃の長い45.75センチメートル、長さは二尺三寸五分 無銘

近藤勇の愛刀 虎徹URL:http://t.cn/ae8TjH

メールアドレス :huchexingli@sina.cn

長曽禰虎徹(ながそねこてつ)新撰組局長近藤勇の愛刀がこの虎徹だったという説があるのでも有名。最上大業物の一つでも

ある。をつかっていたといわれる人物で、有名なのは新撰組近藤勇だろうか。「今宵の虎徹(こてつ)は血に飢えている。


聡明で、宇宙飛行学はもとより、惑星学、文明人類学、建築学、医学、心理学までおさめていたというから、成績はすれすれで学校を出た虎徹など恐れ入ってしまう。 金星人 ...因みにイギリスの大学で社会人類学を、アメリカの大学で神学を修めており物理学専攻の虎徹さんなんてっ

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