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順治帝の編集履歴

2012-01-02 21:27:56 バージョン

順治帝

じゅんちてい

清朝の第三代皇帝 法名は行痴 号は痴道人、太和主人。 世祖皇帝

順治帝じゅんちてい


世没 明の崇禎11年/後金の崇徳3年 1月30日(1638年3月15日) - 順治18年正月7日(1661年2月5日)


中国清王朝第3代皇帝(在位1643年10月8日 - 1661年2月5日)


姓名は愛新覚羅福臨(アイシンギョロ・フリン)


概要


太宗が崩ずると、帝位についた。 5(6)歳で即位


叔父の鄭親王ジルガラン・睿親王ドルゴンを輔政王とし、国政を総理させた。順治元年(1644)


呉三桂の先導により清軍が入関して北京を落とすと、北京に遷都した。ドルゴンが独裁を確立し、帝はその傀儡となった。このころ薙髪令を出して、漢人に弁髪を強要した。二年(1645)


予親王ドドに南征させて揚州を屠り、南京を落とした。福建に朱聿鍵を殺し、広州に朱聿鍔を滅ぼした。


八年(1651)、ドルゴンが病没すると、帝は親政を開始し、ドルゴンの生前の罪を問うてその官爵を剥奪し、英親王アジゲを自殺させた。


漢人官僚を重用し、吏治を整え、開墾を奨励し、『賦役全書』を編纂させた。西南に呉三桂を派遣して南明の永暦政権を討たせた。帝ははじめキリスト教を信じて、アダム・シャールを尊崇した。


のちに仏教に傾倒し、高僧の玉林琇・木陳忞らを尊んだ。十七年(1660)、愛妃の棟鄂氏が病死すると、出家しようとしたが、群臣に止められた。


翌年、病のため養心殿で崩じた。 享年25(4)歳


5台山へ出家した伝説がある

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