Βασίλειος Βʹ ὁ Βουλγαροκτόνος
禁欲的な軍人皇帝として活躍し、第一次ブルガリア帝国等の周辺地域を征服。東ローマ帝国の最盛期を現出した。“ブルガロクトノス”は「ブルガリア人殺し」を意味する渾名。中世ギリシア語読みでは「ヴァシリオス」となる。
概要
父帝ロマノス2世が早逝
- 父・ロマノス2世は狩猟中に事故に逢い、24歳の若さで急死した(死因は山奥での落馬である一方、一説にはテオファノによる陰謀によって暗殺されたともいわれている)。
以後母・テオファノの再婚相手である軍事貴族出身の皇帝ニケフォロス2世フォカスの所へ行く。
軍人ニケフォロス2世フォカス帝の謀殺
- ニケフォロス2世フォカス(イスラム勢力と戦い、アンティオキア、アレッポ、タルソスといったかつての東ローマ帝国の都市を奪回した「軍人皇帝」である
ニケフォロス2世暗殺後、ヨハネス1世ツィミスケスとともに幼くして皇帝になる。
次いでニケフォロス2世を母・テオファノと共謀し殺害して帝位を奪ったヨハネス1世ツィミスケスの下で単なる「飾り物」の共同皇帝としての幼少年期を過ごす。
皇后ステファノのコンスタンティノープルからの追放
- 因みに母テオファノはヨハネス1世の妻になるはずであったが、そのロマノス1世によって首都コンスタンティノープルから追放されている。
- 反面バシレイオスは実権を持っていなかった為か、引き続きロマノス1世の共同皇帝としての地位にあった(また弟のコンスタンティノス(後の皇帝コンスタンティノス8世)もこの時、共同皇帝の地位にいた)。
- 少年皇帝バシレイオス
976年、ヨハネス1世の死によって成人(当時18歳。現在だとまだ未成年に当たる)していたバシレイオスは晴れて正帝となったが、実権は大叔父の宦官バシレイオス・ノソスが握ったままであった。
バルダス・スクレロスの乱
- 976年、バルダス・スクレロスが反乱(979年にカルシアノン・テマでスクレロスの軍勢を撃破して鎮圧するが、スクレロス自身はアッバース朝イスラム帝国の首都バグダッドへ亡命する。
- 985年、ブルガリアの遠征に失敗(ブルガリアの要衝都市の一つであるサルディキ(現在のブルガリア共和国の首都ソフィアの旧名)の占領に失敗して、却ってブルガリアから反撃されて撤退、ブルガリアは勢力を拡大して、黒海からアドリア海に至るまでの領土を支配した。)
- 987年、バルダス・スクレロスが再度反乱(名門貴族の一人であるバルダス・フォカス(東ローマ皇帝ニケフォロス2世フォカスの甥)を鎮圧に向かわせたが、フォカス自身も皇帝を自称してバシレイオスに反旗を翻す。)
- 988年、スクレロスとフォカスが結託して反乱軍を形成して、アナトリア半島(現トルコ)の貴族までこれに加わり反乱が拡大。更にはアナトリア半島が占領され、反乱軍は帝都コンスタンティノープルに迫る。
帝位簒奪による混乱
相次ぐ有力な軍事貴族による、「帝位獲得」を目的とした反乱や第一次ブルガリア帝国との戦争等に悩まされバシレイオスは一時絶体絶命の危機に陥った。
- 軍事貴族の反乱はその後キエフ大公ウラディーミル1世が派遣した援軍を得て平定へと進み始める。
- 翌989年にはアヴィドスの会戦にてフォカスを討ち取り(因みに討ち取ったのは弟のコンスタンティノス8世)、
スクレロスと和解
引き続き抵抗していたスクレロスとは和解して反乱軍を鎮圧する事に成功(因みにスクレロスはその後バシレイオスから土地を与えられて隠棲した。
完全な『皇帝』へ
- 正帝となって13年、バシレイオスはこれらの混乱を越え、漸く真の「正帝」として君臨したのである。
ブルガリア帝国との戦い
第一次ブルガリア帝国に対しては990年頃から幾度もの戦いを展開し始め(途中、994年に東ローマ帝国の属国であるハムダーン朝の要請により、ファーティマ朝とアンティオキアにて争ってブルガリアへの攻撃を中断。ファーティマ朝を撤退させている
グルジア・アルメニア・シリア・西部グルジアを版図に入れる。
- その間にもグルジア・アルメニア・シリア・西部グルジアを帝国に服従、併合させつつ
ブルガリア・マケドニア・アルバニアを版図に収める。
1001年から1005年にまでブルガリアの旧都プリスカとプレスラフ、マケドニア・テッサリア地方、アドリア海沿岸のデュラキオン(現アルバニア共和国ドゥルラス)を占領、制圧して次第にブルガリアを圧倒。
『クレディオン峠の戦い』で大勝
- 1014年にクレディオン峠(現在のブルガリアのクルジュチ峠)の戦いで大勝した。
ブルガロクトノス=『ブルカリア人殺し』
- ブルガリア人捕虜1万4千のうち100人に付き1人だけ片目を、残りの者は両目を潰し、ブルガリア王サムイルの元へ送り返した。一人の目が見える男を先頭に99人の盲人が付き従って帰還したその光景を見たサムイルは驚いて卒倒、その2日後に死去したという。
ブルガリア帝国を滅亡させる。
- 1018年には第一次ブルガリア帝国を完全に滅ぼして、東ローマ帝国によるバルカン半島全域の支配を約400年振りに回復した。
異名ブルガリア人殺し
- これによってバシレイオス2世には「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」というあだ名が付けられた。
- しかしバシレイオスは征服した後はまるで別人の様に寛容な政策を取り、帝国の他地域と違って税金を物納にする事も許している。
南イタリアランゴバルト人との戦い勝利
- また、イスラム勢力や南イタリアのランゴバルト人との戦いにも勝利。
北はドナウ川、南はクレタ島、東はシリア・アルメニア、西は南イタリアを手中に収める。
北はドナウ川、南はクレタ島、東はシリア・アルメニア、西は南イタリア(マグナ・グラエキア)に及ぶ大帝国を建設。東ローマ帝国に中世の黄金時代を齎した。
11世紀中頃の知識人・政治家であるミカエル・プセルロスは
「バシレイオスは他の皇帝の様に春の半ばに出陣して、夏の終わり頃に引き上げるといった事はしなかった。彼が完全に帰還する時と言うのは、作戦が成功した時であり、彼は平然と夏の暑さ、冬の寒さに耐えた。あらゆる欲望を厳しく押さえた鋼のような男であった。」
(井上浩一著『生き残った帝国ビザンティン』 p.179の『年代記』の引用より)
軍神バシレイオス
ある時などは、ブルガリアと交戦中に北シリアのアンティオキアがイスラム勢力によって攻撃されたと聞くと、そのままブルガリアから軍を率いてシリアへ転戦し、イスラム勢力を追い払ったのである。
覇者の政治
1025年、バシレイオス2世没時の東ローマ帝国の内政では、皇帝による専制政治を推し進めた。プセルロスは「バシレイオスは書かれた法に従う事も無く、何もかも一人で決めた」と記している。
皇帝専制体制の頂点
- 古代のディオクレティアヌス帝から始まったローマ帝国の皇帝専制体制はその頂点を迎えたのである。
治世
- バシレイオスは自らを苦しめた軍事貴族や大土地所有者を抑圧し、彼等が農民から不正に取得した土地の没収等を行う一方で中小農民の土地保護などに努めた。
- 皇帝自ら不正に大規模な土地を取得した者の屋敷へ乗り込み、屋敷を壊して土地を没収するという事まで行ったのである。
清貧皇帝
- またバシレイオスは贅沢を慎み、財政支出を抑制したので宮殿の倉庫は金銀が唸る位の財宝で埋め尽くされバシレイオスの命令で倉庫を拡張されたほどであったという。
- この様に度重なる外征を行いながらも国家財政の健全化を成し遂げたが一方ではその緊縮財政により、経済発展は抑えられる結果ともなった。
ロシアの『キリスト教国』化に成功。
- 反乱平定の援軍派遣の見返りとしてキエフ大公ウラディーミル1世と妹アンナを縁組させた事によってロシア・ウクライナがキリスト教化し、正教会の勢力を北方へ拡大させる事にも成功させている(因みにそれまでロシアは樹木信仰が盛んであった)。
崩御
- 1025年12月25日、バシレイオスはシチリア遠征の準備中に倒れ、まもなく逝去した。
その後
- バシレイオスは結婚しなかった為に子はおらず弟コンスタンティノス8世が帝位を継いだものの彼は長く共同皇帝にいながらも実権は全て兄・バシレイオスに終始握られ持っていなかった為、此処から東ローマ帝国の絶頂期は終わりを告げ、徐々に衰退が始まる事となる。